40年間、城の裏門に立ち続けた老兵士は独りごちた。
一日二交代制の裏門の門番の仕事を、一日たりとも休むことはなかった。
夜明けから日没まで、裏門を守り続けた。
そんな日々もあと半日足らずで終わろうとしている。
ここに配備されたらまずやるべきことは転属願いといわれるほどだ。
現に、二交代制ということはここに立つ兵士はもう一人いることになるが、
そのもう一人の方は頻繁に入れ替わっている。
なぜならこの門、入ったところですぐ行き止まりにぶつかってしまう、ダミーの門なのだ。
仮に老兵士を騙すなり倒すなりして裏門から侵入したところで、宝物も、王の命も獲れはしない。
国中の人間が、いや他国の人間ですら知っている。
ようするに、ここを守る意味は全くないのである。
もし仮にこの国が侵略の危機にあったとしても、裏門にやってくる敵兵は一人もおるまい。
じゃあなんでここに門番を配備しているのかというと……なぜだろう。
“歴史と伝統”としか答えようがない。
とはいえあまりにも無意味なので、老兵士の引退と同時にその“歴史と伝統”は廃止されることが
すでに決定しているのだが。
なお、裏門から行き止まりまでのわずかなスペースは、今後は“憩いの場”として一般に開放される予定である。
隣国との関係が悪化した時も、大規模な盗賊団が国内を荒らし回った時も、反乱が起こった時も、
彼はここに立ち続けていた。
ほとんどの人間は笑い物にしていた。
「あのジジイ、今日も立ってるぜ」
「家と裏門を往復する日々って、なにが楽しいんだろうな、あんな人生」
「頭おかしいんじゃねえの?」
「サボったり休んだりしても、誰も怒りゃしないだろうに」
それでも彼は立ち続けた。
武芸に秀でているとはいえなかったが、足腰の丈夫さだけは取り柄だった。
守る必要のない門の前に立ち続けた彼の一生はいったいなんだったのだろう。
なぜ彼は一日も休むことなく門に立ち続けたのだろう。
彼自身も分からないに違いない。
40年間、一度も愚痴や弱音の類を吐かなかった男が、初めてそうつぶやいた。
「お久しぶりです。本日が最後の勤務だとうかがったもので、ぜひお礼をいいたくて」
突然の来訪者に、老兵士の頭にクエスチョンマークがいくつも並ぶ。
「……失礼ですが、どなたですかな」
老兵士がボケているのではない。本当に心当たりがなかった。
40年間、ほとんど誰もやってこない裏門に立ち続けた彼は、自国の王の顔すら知らないのだ。
「私は、かつてあなたに助けられた盗賊です」
「あ」
老兵士の記憶が鮮やかによみがえった。
裏門に賊が侵入しようとする事件があったのだ。
「何用か?」
「城に入りたい」
「入城許可証を持たぬ者を入れるわけにはいかぬ」
「だったら、むりやり入るまでだ」
盗賊はダガーを振りかざして襲いかかってきた。
盗賊の情報収集力はそれだけお粗末だったということである。
どうやら腕っぷしの方もお粗末だったようで、盗賊はあっさりと取り押さえられた。
「ち、ちくしょう……!」
お粗末な盗賊とはいえ、手柄は手柄。
この盗賊を縛りつけて牢屋送りにすれば、彼が単なる「裏門のオブジェ」ではないことを
皆に知らしめる絶好の機会になることは間違いなかった。
「城の宝を手に入れて、売っ払って、家族にうまいもんを食わせてやりたかった……」
「家族というのは?」
「お袋と、弟と妹だ……」
これを聞いた兵士は、盗賊を解放した。苦し紛れのウソだとは思わなかった。
「な、なんで!? なんで助けるんだよ!」
「昨日はちょうど給金日だったんだ。これでうまいもんを食わせてやれ」
兵士は自分のさして多くない給金から、生活レベルが傾くほどの餞別を与えた。
「私はあれで目が覚めたのです。あなたに助けられたのです」
「懐かしい話ですな」
「おかげで今は商人として、まっとうな道を歩んでいます。本当にありがとうございます」
「いえいえ、ご立派になられてなによりです」
男は金貨を差し出そうとしたが、老兵士はそれを固辞した。
さらに、門番には長い立ち話は許されないからと、男に門から立ち去るように告げた。
最後の日であるというのに、老兵士は職務に忠実であった。
白銀の鎧に身を包んだ精悍な男であった。おそらくは騎士であろう。
もちろん、老兵士の中に彼と出会った記憶はない。
「本日でご引退されるとのことで、ご挨拶に参りました」
「それはどうも、光栄です」
老兵士は敬礼を行った。
「そんなことはありますまい。なぜなら私は、今日あなたと初めて会ったのです」
「いえ、今からおよそ20年ほど前ですが、私とあなたは一度だけ会っているのです」
「ほう……」
白銀の騎士は語り始めた。
そこへ一人の若き剣士がやってきた。
鋭い眼光を放ち、いかにも将来有望といった風貌であった。
自分というものに絶対の自信があり、なおかつ愚鈍な人間が許せないという顔つきであった。
「何用かな」
「おっさんか、毎日毎日ここに突っ立ってるっていうのは」
若い剣士は自分の倍以上年を食っている兵士に、容赦なくあざけりの笑みをぶつけた。
でくのぼう、オブジェ、役立たず……みんなそう呼んでるんだ」
兵士は何も答えない。
「なあ、なんであんたずっと立ってるんだ? ここが守る必要のない門だってことは、
みんな知ってるんだぜ?」
「これが私の職務だからだ」
「職務? ただ立ってるだけのことが職務だって? いったいなんの意味があるんだよ」
「もしかしたら、私がここに休まず立っていることで、安心してくれる人がいるかもしれない」
「ハッハッハ、面白いこというじゃん! むしろ不安になるっつうの!」
「やってみるがいい」
「なんだと? 俺が本気じゃないとたかをくくってるんじゃないだろうな」
「そんなこと思ってない。ただし、私もそう簡単に倒れはしない」
槍を構える兵士。その構えはまさに凡庸そのもの。
だれがどう見ても、若き天才の相手にはなれそうもない。
負けると思ったのではない。斬るのをためらったのでもない。
この兵士はたとえどんなに斬っても倒れず、立ち続けるんじゃないかと思ったのだ。
それがとても恐ろしかったのだ。
しばしにらみ合った後、若き剣士は剣を鞘に納め、なにやら負け惜しみの言葉を吐きながら
裏門を後にした。
その才能に恥じぬ功を挙げ続けた。
しかしある時、手強い敵軍と遭遇した。
彼が率いる部隊は戦死者こそ少ないものの負傷者だらけ。
援軍が到着する見込みは薄く、撤退する機も逸している。
もはやここまでと思われた。
そんな時、彼の脳裏に浮かんだのはあの裏門に立っているだけの兵士の姿だった。
――私がここに休まず立っていることで、安心してくれる人がいるかもしれない。
「立つんだ……! 立たなければ……!」
傷ついた体で、がむしゃらに叫び続ける。
その必死さ、健気さは、部下たちに伝染した。
彼に鼓舞された部隊は、奇跡的ともいえる奮戦を演じ、
援軍が到着するまで持ちこたえることができた。
「ありがとうございました」
と一言だけ告げた。
老兵士が職務に忠実であり、長話を嫌うと知っているがゆえの配慮であろう。
老兵士はただ一言「光栄です」とだけ返した。
「これはこれは、今日は珍しく来客が多い日だ」
「今日が門番さんの最後の日と聞いたもので」
「どこかでお会いしましたかな?」
「いえ、あなたと私が会うのは今日が初めてなのです」
「ほう?」
「しかし……私はあなたをずっと見てきたのです」
親方は厳しく、殴る蹴るは当たり前、指導も「見て覚えろ」どころか
「見られるのうっとうしいから、見ずに覚えろ」のスタイルで
何年たっても使い走りのような作業しかやらせてもらえなかった。
「もういやだ、とっとと田舎の村に帰ろう」
ふてくされた徒弟は、たんこぶと青あざだらけの顔で、
城下町よりやや高い地点にそびえ立つ巨大な城を見上げた。
城下に対する別れの挨拶のつもりであった。
「あの人……今日も立ってるのか。すげえな」
ふと、こんな思いが芽生えた。
あの人が裏門に立たなくなるまでは頑張ろう、と。
親方の目を盗んで、技を盗もうとし、何度も殴られた。
もうやめよう、諦めよう、村に帰ろう、数えきれないほどそう思った。
「今日も立ってるのか……。今日は雪降ってるってのに、微動だにしてない……」
しかし、そのたびに裏門に立ち続ける兵士の姿を見て、村に帰るのを思いとどまるのであった。
「あの人見てるうちに……俺、一人前の職人になっちゃったよ……」
照れ臭そうに、職人風の男は笑った。
「40年、この裏門で立っていることしかしていない私ですが、
その姿を励みにしてくれたというのであれば、これほど嬉しいことはありませんよ」
老兵士もぎこちない笑みを浮かべた。
職人風の男は、老兵士のために無料で靴を作りたいと申し出たが、老兵士は丁重に辞退した。
どこまでも律儀であった。
老兵士の門番としての役目が終わるまで残りわずかという時、
おそらく最後になるであろう来訪者があった。
口の周囲にたくましいヒゲを生やした中年男性。
先にやってきた三人と比べると質素な服装だが、なんとも形容しがたい威厳があった。
もちろん老兵士はこの男が誰だかは分からないが、
40年に一度あるかないかというほどの緊張を覚えた。
「いえ、申し訳ないが記憶にございません」
「それもそうでしょう。あなたとは30年前、一度会ったっきりだったのですから、
同じ城にいるにもかかわらず、ね。まったくひどい話です」
「30年前……ですか」
「何用かな、坊や」
「えっへん、ここを通してもらおうか」
「ここを通れるのは入城許可証を持っている者だけだよ」
「そんなもんないよ、通るよ」
「じゃあ駄目だな」
「おい、お前は知らないかもしれないけど、ぼくは偉いんだぞ! わかってんのか!」
「どんなに偉くても、たとえ王様でも入城許可証がなければここを通れないことになってるんだよ」
「正門や他の門の兵士は、ぼくの顔を見るなりすぐに中に入れてくれるぞ!」
「正門は正門、裏門は裏門、だ」
押し問答が続いたが、あの手この手で脅しをかける幼子に対し、門番は決して譲らなかった。
「お父様に言いつけて、お前なんか死刑にしてやるからな!」
「かまわないよ」
「くそっ! なんなんだよ、お前! もうこんなとこ来るか! バカ!」
走り去っていく男の子の背中を、兵士は微笑みを浮かべながら見つめていた。
きっと将来、すごい大人になるんだろうな、とかそんなことを思っていたのかもしれない。
「あなたのおかげで、あの幼かったぼくは見事に鼻っ柱を折られたのです。
偉いというだけでは決して動かせない人間もいるのだと、思い知らされたのです」
「そうですか……それはよかった」
「ぼくは本当はもっとあなたを厚遇したかった。給金も褒美も、もっともっと与えたかった。
しかし、ぼくの立場では一人の兵士だけを贔屓するというわけにはいかなかった。
だから結局最後の最後まで、あなたを閑職に追いやってしまった。申し訳ありません」
すると、老兵士はゆっくりと首を振った。
「あなたが何者か存じ上げませんが、私はこの仕事に誇りを持っていました。
もしあなたが私を特別扱いしたとしたら、それはきっと私の誇りを傷つけたことでしょう。
なにも気に病むことはありませぬ」
これを聞くと、男はうっすらと目を光らせた。
「ありがとうございます」
裏門から、最後の客の背中が遠ざかっていく。
時を同じくして日没を知らせる鐘が鳴った。
老兵士40年間の門番人生は、こうして幕を閉じた。
とはいえ、この会はドンチャン騒ぎをしたいがためのもので、
主賓にもかかわらず酒場の隅っこでたたずむ老兵士をねぎらおうという者は一人もいなかった。
若く活発な兵士たちは、もう終わった人間のことより、“今”の話題を口にする。
ある大商人が満足に教育を受けられない子供たちのために無償の学校を作ったとか、
白銀の鎧を身に付けた騎士団長が山賊相手に大手柄を挙げたとか、
若き靴職人が数ヶ国の職人が集うコンテストで優勝したとか、
今の国王は歴代でも特に優秀であり我が国の最盛期を現出するに違いないとか、
老兵士にとっては雲の上の存在といっていい、今をときめく英雄たちが口々に褒め称えられる。
40年間ただ立っていただけの自分とは大違いである。
だが、それでもよかった。
老兵士は満足していた。
今日、自分のもとを訪れてくれたあの名も知らぬ四人。
たった四人であるが、自分の仕事が彼らの人生にいい影響を与えていたことを知って満足していた。
「この思い出だけで、あと10年か20年か分からないが……十分生きていける」
老兵士はグラスに注がれた安酒に、嬉しそうに口をつけた。
― 終 ―
なんとなく開いたが良いSSだった
話の構成というか演出が凄く上手いと思う
乙
ちょっと高めの酒とそれに合う料理を隅にいる老兵士におごって「お疲れさまでした」と言いたい
引用元: 老兵士「今日で俺も引退か……」