王国の騎士団領に、雄々しき号令が響き渡る。
「これより出陣する! 出陣の儀を執り行うので、ただちに広場に集結するように!」
声の主は騎士団を率いる騎士団長。
屈強な男たちが鈍い銀色の甲冑を身に付け、騎士団領中央にある広場に整列する。
数百の騎士が一堂に会する光景は、一言でいうなら“壮観”である。
一般兵の中から実力や実績を認められた者が、国王による騎士叙勲を経て、騎士となれるのだ。
騎士となった者は騎士団領に駐屯し、厳しい訓練をこなし、非常時には王命により出陣する。
ようするに、彼らは精鋭部隊である。
世が世なら、敵国の軍隊を真っ向から受け止める使命を果たさねばならない。
しかし、他国との戦争の機会などめっきり少なくなった今の世では、彼らの役目は治安維持が主である。
彼らの相手はもっぱら山賊や盗賊だ。
今日これから相手にする敵も一山賊団に過ぎない。
とはいえ、良質な武具で武装したり、一般兵以上の戦闘力を備えた賊も少なくなく、
決してあなどってはならない相手である。
平和ボケしてもおかしくない状況下で、騎士団が精強さを保っているのは、
ひとえに現騎士団長の手腕によるものであろう。
しかし、外観も実力も誰もが認める猛者揃いである彼らであるが、
心の中までそうかというと、果たして……。
広場に集まった騎士のうち、誰かがいった。
「あれ? あいつがいないぞ」
ああ……俺の腹がまた痛くなってきた。
胃か、腸か。あるいは両方か。とにかく痛い。
出陣の時になると、いつもこうだ。
前日までどんなに好調な働きをしていても、腹痛がシクシクと姿を見せるのだ。
原因はもちろん、突然の食中毒などではない。
出陣するのが怖いからだ。
腹痛は存在感をアピールし続ける。
俺だって、もちろん克服するよう努力はした。
食事に気をつかってみたり、腹筋を鍛えてみたり、内密にカウンセラーに相談してみたり、
しかしダメだった。
出陣の時が近づくと、決まって俺の腹は「じゃあ始めまーす!」といわんばかりに鈍痛を起こすのだ。
もうやだ……。
いつもこの時ばかりは、なぜ俺をこんな風に生んだのだと両親を恨んでしまう。
とはいえ、親兄弟や親類で俺みたいな性質を持ってるのは俺だけなので、
結局は俺のせいなんだろうな、という結論に落ち着くのだが。
騎士団には騎士団長と副団長の下に、十の部隊があり、それぞれに隊長がいる。
そのうち一隊の隊長が報告する。
「申し訳ありません。うちの部隊の騎士が一人……まだ整列できておりません」
「なんだと?」
出陣の儀には全騎士が参加しなければならないが、一人だけまだ広場に到着していないという。
騎士団長は表情を変えないが、これは由々しき事態である。
「は、騎士になって二年目の青年です。剣と槍を扱う才能には恵まれているのですが、それがその……
やや臆病なところもある男で」
「そうか、分かった。まだ出陣までは時間があるし、準備に手間取っているだけかもしれぬ。
引き続き、待機していてくれ」
この場で隊長を大声で叱責してもおかしくない事態なのだが、騎士団長はそれをしなかった。
誰もが心の中で騎士団長の寛大な心を称えた。
こんな俺がなぜ騎士などになってしまったのかを説明しよう。
俺は幼少から剣術が好きだった。才能もあった。
物心つかないうちに、おもちゃの剣で父親の頭を引っぱたき、
近所の子供との決闘ごっこでも負けたことはなかった。
俺は兵士に志願できる最低年齢である15歳の時に、王国軍に入った。
俺の才能は軍の中でもいかんなく発揮された。
剣術に加え槍術もマスターし、瞬く間に「天才」「若手最強」などとちやほやされるようになった。
王国軍の一般兵による剣術大会で、俺は優勝を果たしたのだ。
この功績で、俺は≪騎士≫の勲章を与えられ、騎士団への入団が決定した。
故郷の連中はみんな喜んだ。まさに故郷に錦を飾った格好である。
しかし、これは不運でもあった。
俺は実戦を知らないまま、実戦という舞台で自分がどうなるのか知らないまま、
騎士になってしまったのだから……。
整列した騎士たちの中から、ひそひそ話が聞こえる。
「あいつは相変わらず、臆病だよなぁ……」
「ああ……あいつは出陣になるとすぐこれだ。ビビっちまう」
「そういや、あいつの初陣の時ときたらひどかったぜ。みんな戦ってるのに、あいつだけ馬に乗ったまま、
その場から動かなかったんだ。いや、動けなかったんだ」
姿を現さない“あいつ”への陰口である。
この時、稲妻の如き騎士団長の一喝が走った。
「やめぬか!!!」
「我ら騎士団、みな一心同体なのだ。仲間をむやみに誹謗中傷することは、どうか謹んでもらいたい」
激烈な鞭を振るい、なおかつ冷静に諭す。
これには“あいつ”を馬鹿にしていた騎士たちも、素直に黙り込んでしまった。
「とはいえ、少し心配だな。どれ、私も散歩がてらそのやってきていない騎士を捜してみるとしよう。
みんなは楽にしていてくれ」
広場を後にする団長。
その足取りは、まるでかくれんぼをしている友を捜しに行くように軽やかであった。
出陣前、俺は決まって一人きりで馬小屋を訪れる。
何をするのかというと、愛馬にすがりつき、
「怖い」「死にたくない」「助けて」と小声で連呼するのだ。
困った時の馬頼み。はっきりいって騎士失格の行為である。
だが、愛馬はそんな俺を勇気づけるように、ベロで顔中を舐めてくれる。
当然唾液まみれになるが、これがまた心地いい。
異国には『馬の耳に何を言っても無駄だ』という意味のことわざがあるらしいが、
俺はそんなことないと思っている。
愛馬の励ましのおかげか、腹痛も心なしか和らいだようだ。
「ありがとう」とつぶやくと、ふと俺の中に初陣の思い出がよみがえってきた。
楽にしてくれ、と命じられた騎士たちは、姿勢を崩しつつも出陣に向けて闘志をたぎらせていた。
皆が適度な緊張感を保っている。
仮に今ここに敵が押し寄せてきても対応できるであろう。
先ほど軽口を叩いていた騎士たちも、今は口を真一文字に結んでいる。
団長の言葉で、己の軽率を恥じたのであろう。
彼らは皆、一人の例外もなく騎士団長を敬愛しているのだ。
俺の初陣はというと、それはもうひどいものであった。
敵である盗賊団が向かってきた時、俺は真っ先に逃げた。
敵前逃亡が騎士にとってどれほどの恥かはいうまでもない。
だが、あの時の俺はそんなことどうでもよかった。
とにかく怖かった。戦いたくなかった。死にたくなかった。
盗賊どもの“殺気”や命を失うかもしれない“実戦”の前では、
俺の“才能”や大会優勝の“実績”などまるで無意味だった。
奴らは騎士団の後ろを取るため、別働隊を潜ませていやがったのだ。
逃げたはずなのに敵がいた、という絶体絶命の状況に、覚悟を決めたというよりパニックになった俺は、
がむしゃらに剣を振るい、応援が駆けつけるまでどうにか生き延びることができた
結果、俺の初陣は「盗賊の別働隊にただ一人気づき孤軍奮闘した」と手柄を立てた形になった。
もし、逃げた先に盗賊がいなければ、俺は敵前逃亡の罪で騎士除名はもちろん、
最低最悪の騎士として騎士団史に汚名を残したに違いない。
ゴーン。
騎士団領の鐘が鳴る。
これは時を知らせる鐘であり、今この時においては、出陣時刻がもう目と鼻の先という意味にもなる。
さすがにこれ以上出陣の儀に遅れれば、“あいつ”に対する処分は叱責では済まされない。
また、そうでなければ騎士団など成り立たない。
馬小屋の陰から、青ざめた顔の青年がよろよろと歩き出した。
この青年こそが、他ならぬ“あいつ”である。
鐘が鳴ったのが聞こえた。
もう時間はない。
腹痛は完治していないし、出陣したくないという気持ちはまだ残っているが、俺は行かねばならない。
俺を舐めてくれた愛馬に「またあとで来る」「今日も頑張ろう」とささやく。
さあ、出陣の時だ。
今日の敵は凶悪な山賊団と聞く。殲滅せねば善良な市民の命が奪われる。
俺は臆病者だが、薄情者になるつもりはない。
俺は馬小屋の外に、力強く足を踏み出した。
青ざめた顔の青年は、ばったりと人に出くわした。
相手はなんと騎士団長であった。
「だ、団長!」
「おお、こんなところにいたのか。捜す手間がはぶけた。
もしや、出陣前に誰もいないところで瞑想でもしていたのか?
だとしたら感心なことだ」
この青年が臆病さから出陣の儀に遅れたのは分かり切っている。
なのにそれを責めず、冗談めかして笑う騎士団長に、青年は頭を垂れた。
「申し訳ありません! 僕は出陣前になると、どうしても恐ろしくなって、
いつもこうして馬小屋の裏に来てしまうんです!」
「馬小屋の裏で何をしているのだ?」
「故郷で待つ母や妹に……絶対生きて帰るから、と誓っていました。
民を守る義務がある身でありながら、自分の命を大切にするなど……どうかあざ笑って下さい!
罵って下さい!」
しかし、騎士団長は笑わなかったし、罵りもしなかった。
「団長も……怖いのですか?」
「俺だって怖いとも。怖いからこそ、今日まで生き残ってこれたんだ」
騎士団長は優しげに微笑んだ。
「残念ながら俺は、君たち部下に絶対死なせはしないとは約束できん。
また、俺は死なないと約束することもできん。
だが、せめて君たちの前では騎士団長として恥ずべきところのない男であることを約束しよう」
目をうるませる青年。もはやその顔は青ざめてはいなかった。
「さぁ、皆が広場で待っている。行こう」
「はいっ!」
「ところで団長……顔じゅうが濡れていますが、一体どうされたんですか?」
これには答えず、騎士団長は少し顔を赤らめた。
― 終 ―
おもしろかった