男性「こんなことになって、君には申し訳ないと思っている」
男「ちょっと待ってください。そ、それじゃ……」
男性「…………」
男「あいつがいなくなって、あの子は……」
男性「他に頼める人間がいないんだ、君以外には」
男「…………」
男性「やってくれるか?」
男「……分かりました」
男「僕が、彼女の兄になります」
男「……もしもし、母さん?」
男「うん、うん」
男「そうなんだ。仕事がやっと決まった」
男「はは、やっぱり、母さんの言った通りだったね」
男「うん……あ、でも、それは……」
男「ごめんね、こっちが落ち着くまでは戻れそうもないんだ……」
男「……うん」
男「分かったよ、頑張る」
男「母さんも元気でね? また時間できたら、すぐに向かうから」
男「うん、じゃあ、バイバイ」
男「…………」
男「失礼しまーす」
ガラガラガラ……。
妹「……え?」
男「よっ! どう、元気にしてたか?」
妹「……す、すみません……ええと」
男「ん? どうかしたか?」
妹「その……わたし」
男「?」
妹「…………」
男「もしかして、俺のこと、覚えてない?」
妹「……すみません」
妹「…………」
男「こういう場合、どう言っていいのか、分かんないな」
妹「はぁ……」
男「この際、しょうがない。単刀直入に言うね」
男「実は俺、君の兄なんだ」
妹「……え?」
男「覚えてない? 顔とか、声とか」
妹「……え、す、すみません」
男「……そうか、覚えてないかぁ」
妹「…………」
男「あっ、そんなに落ち込まないで」
男「…………」
妹「気がついたときには、このベットで横になってて」
男「うん」
妹「何にも分かんないです……どうなったのかも、自分のことも」
男「……うん」
妹「悪気があるわけじゃなくて」
妹「……いや、すみません。これは、ただの言い訳ですよね……」
男「いいんだ。気にしなくていいよ」
妹「……はい」
男「…………」
男「ちょっと疲れさしちゃったみたいだね」
男「……うん、日を改めて、また来るから」
男「…………」
男性「どうだった?」
男「全く、気づいた様子ではないです」
男性「それは良かった」
男「でも、いいんですか?」
男性「何が?」
男「こんな偽るような真似して、後で問題になりませんか?」
男性「親の私がいいと言ってるんだ。その責任は、私が負う」
男「でも……」
男性「君が、そんなに難しく考えることはない」
男性「ただ、言われた通りにあの子の兄代わりをして欲しい」
男「…………」
男「それは……」
男性「大惨事だったんだ」
男性「風呂場が血の海で、それを見た妻は失神してしまった」
男「…………」
男性「これ以上、もう誰も失いたくない。分かってくれるか?」
男「はい……」
男性「良かった。それに、これは君にも利がある話なんだ」
男性「だからくれぐれも、良心の呵責に耐えきれなくなって」
男性「あの子に打ち明けるなんてことは、ないようにしてくれ」
男「……分かりました」
男性「よし。なら、会社に行っていいぞ」
男「はい、社長」
ドサッ。
男「……え?」
上司「この仕事、明日までに終わらせておくように」
男「ちょ、ちょっと待ってください」
上司「ん?」
男「こんな量……ただでさえ、入ったばかりですし……」
上司「そんなの言い訳になるか?」
男「……いえ、失言でした」
上司「徹夜してでも終わらせろ。いいな?」
男「はい……」
上司「あ? なんだよ、その不服そうな返事は」
男「…………」
上司「こんな不景気でもコネがあるお坊ちゃん様はさー」
男「…………」
上司「中途採用のお前を入れるために、こっちは仲間を一人左遷してるんだ」
上司「加えて、新しく入った奴は即戦力にもならないと来てる」
上司「どれだけ皆の仕事が増えたと思ってるんだ?」
男「申し訳ない……です」
上司「そんなのデスクワークなんだから、さっさと済ませろ」
上司「慣れたらすぐに、外出てもらうからな?」
男「……はい」
上司「ほんと、上の奴は何考えてるか、分かんないわ」
上司「この糞忙しい時に、新卒より使えないボンクラ入れやがって……」
男「…………」
男「……ただいまー」
男「…………」
男「はは、空しいな」
男「返事がないの分かってるのに、慣れでいつも言っちゃう……」
男「……ふぅー」
男「さて、明日の出勤まで、残り二時間」
男「……これじゃあ、眠れないなぁ……」
男「…………」
男「……俺が、兄……か」
男「…………」
男「なぁ、親友」
男「なんで、お前……死んじゃったんだ……?」
コンコン。
ガラガラ……。
妹「……あ」
男「うん、また来た」
妹「お、兄さん……?」
男「もしかして、思い出した?」
妹「いや、違うんです。ただ、前にそう言ってたから……」
男「あーそうか……ごめん」
妹「いえ……」
男「え、ええとさっ」
妹「は、はい」
男「……どう? 体の調子とか」
妹「お医者さんの話だと、まだ安静が必要だって」
男「そうか」
妹「呼び方は、『兄さん』……でいいですよね?」
男「あー……」
妹「えっと、前は違いました……?」
男「……そうだなぁー、昔は──『お兄ちゃん』だったなぁ」
妹「『お兄ちゃん』?」
男「うん、小さい頃からずっと、そう呼ばれてた」
男「自分で言うのもなんだけど、本当に仲の良い兄妹だったんだぞ?」
妹「そうだったんですか……すみません、思い出せなくて」
妹「はい……」
男「うん」
男「……『兄さん』……ね」
妹「…………」
妹「……あの、『お兄ちゃん』?」
男「ん?」
妹「仲が良かった昔の話……聞かせてもらえないですか?」
男「…………」
妹「それを聞いたら、わたし、もしかしたら……」
男「……そうだなー」
男「あれは、まだ俺が小学生で」
男「近所にいる仲のいい友達といつものように遊んでたんだ」
……………。
………。
親友『悪い悪い、遅くなって』
男『約束の時間から、もう一時間も経ってるぞ?』
親友『実はさ……その』
?『…………』
男『ん?』
親友『ええと、なんだろ、俺の妹?』
男『妹? お前に妹なんて、いたっけ?』
妹『うぅ……』
親友『すごく人見知りする奴でさ……ほら、挨拶しろって』
妹『そ、その……はじ、初めまして……』
男『う、うん……』
親友『だからさ……』
妹『……うぅ』
男『……別にいいよ』
親友『本当か? ごめん……ありがとう』
男『気にすんなって! よし!』
妹『……ん?』
男『今日から、お前は、俺の妹になるっ!』
妹『ふへぇ……?』
親友『は……?』
妹『お、お兄ちゃん……』
親友『いや、えっと……』
男『ん? 親友のことは『お兄ちゃん』って呼んでるのか』
妹『あ、うん……』
男『なら、俺のことは……』
男『──『兄さん』にしようっ!』
男「……失礼します」
ガチャ。
男性「おー、来てくれたかっ」
男「はい……それで、ご用件は……」
男性「もちろん、あの子のことだよ」
男性「最近、余り時間が取れなくてな……病院に行けてないんだ」
男「そうですか……」
男性「どうだ? 彼女の様子は?」
男「日が経つにつれて、元気を取り戻してるように見えます」
男性「うん、うん。それは良かった」
男「はい……」
男「え……」
男性「もしかして、会社内のことか?」
男性「確かに、無理やり入れこんだ感があるから」
男性「初めのうちは、君も苦労することだろう。しかし……」
男「……いや、そのことではなくて」
男性「ん?」
男「彼女のことです」
男性「私の娘の話か?」
男「はい」
男性「……どうした? 何が問題だ」
男「これは……いつまで続ければいいんでしょうか?」
男性「…………」
男性「けれど?」
男「僕には分からないんです。この仕事の、終わりが」
男性「終わり……か」
男「何をもって達成とするんですか?」
男「彼女が事実を一人で、受け止められるようになってから?」
男性「……それは、恐らくない」
男「…………」
男性「事実がばれたら、そこで全て終わりだよ」
男性「私はまた大事なものを失う。それだけは避けたい」
男「……だから、永遠に隠し通せと?」
男性「いいか。そう難しく考えることなんかじゃないんだ」
男「…………」
男性「自責の念にかられている娘の兄となる」
男「……はい」
男性「幸いにも、生前の息子と私の関係は良好なものではなかった」
男性「会社の人間で、成人した彼の顔を知っているものはいない」
男性「それに……今、この会社には不穏な空気がたちこもっているからな」
男「……というと?」
男性「時期が来たら、また知らせる」
男性「どう転んでも、君には悪い話ではない。だから、心配するな」
男「……はい」
男性「あと、そうだな」
男性「そろそろ、機会を設けるから、私の妻にも会って欲しいな」
男「……分かりました」
男性「よし、話は以上だ。職務に戻って欲しい」
妹「……お兄ちゃん?」
男「あ、うん?」
妹「すごい思い詰める顔してましたよ?」
男「そうだったか……いや、最近、少し仕事で疲れててね」
妹「大丈夫ですか?」
男「はは、病人のお前に心配されるなんてな」
妹「ふふ、そうだ。お話でもしませんか?」
男「話?」
妹「そうそう、両親のこと聞かせてください」
男「ええと……」
妹「ん?」
男「それは、お前の父親と母親の話か?」
妹「もちろん、そうですけど……」
男「父さんは……その、ちょっと強面の人だったろ?」
妹「あ……はい」
男「初めて見た時、どう思った?」
妹「その……正直な感想言っていいですか?」
男「うん。親父には内緒にしとくよ」
妹「……実は、結構、怖かったんです……」
男「はは」
妹「だから、その父に「明日、お前の兄が見舞いに来るぞ」って言われた時」
妹「どんな怖い男の人がくるのかと、心配でした」
男「ほほう、それで」
妹「でも、実際の兄はとっても優しそうな方で」
男「……うん」
妹「……その……ええと」
男「ん?」
妹「もしかしたら、わたしのこ、恋人だったり……したらなーみたいな……」
男「『恋人』……か」
妹「いやっ、そのもちろん……違ったわけですけど……」
男「昔のお前には恋人はいたのかなぁ……」
妹「その辺、お兄ちゃんも知らないですか?」
男「プライベートについては、あまり話さなかったしなぁ」
妹「……私って、今」
男「うん、大学生」
妹「だったら、恋人の一人や二人くらい、いてもおかしくないですよね……」
妹「もしかして……わたしって、ブスだったりします……?」
男「……は?」
妹「その……恋人みたいな人が来ることもないですし」
妹「今は、自分の顔を見ても、なんだか自分のじゃない気がして」
男「…………」
妹「お兄ちゃんから見て、わたしってどうですか?」
男「……ええと」
男「…………」
男「……綺麗だよ。普通に」
妹「ほんとに?」
男「ああ、もしも、俺が兄じゃなかったら……」
男「お前を好きになってたかもしれないな」
……………。
………。
妹『きゃっ!』
ビューン……。
親友『あっ、やちった』
男『おいおい、どこ投げてんだよ。草むらのほうに行っちゃったぞ?』
親友『くそぉ……なんで、お前、当たんないんだよ』
妹『お兄ちゃんこそ、本気で妹に当てにいくなんて、たち悪いよ……』
男『いいから、取ってこいって。多分、川までには行ってないと思うから』
親友『うー、めんどくせぇなぁ』
男『はやくっ』
親友『分かったよ……でも、今度こそ、お前に当ててやるからな!』
男『はいはい』
たたたたっ……。
妹『だね』
男『しかし、こんな遊びに参加しなくてもいいんだぞ?』
妹『うーん……』
男『玉当たると、痛いぞ?』
妹『でも……外で見るだけじゃ、つまんないし』
男『いいんだよ、女の子はそれで』
男『学年も全然違うんだし、無理するなよ』
妹『……うぅ』
男『怪我したらどうすんだ。俺の母さんがいつも言ってるんだ』
妹『なんて?』
男『『女の子への傷は一生もんだから』ってさ』
男『実は俺も分かってない』
妹『なにそれ、ふふっ』
男『ははっ』
妹『あっ、兄さん』
男『ん?』
妹『ここほら、血が出てる』
男『あーほんとだ……でも、これぐらいの傷……』
妹『駄目だよっ! ばい菌が入っちゃったらどうするのっ!』
男『えっでも、いつもはこんなの……』
妹『ほら、こっち来て』
男『お、おう……』
妹『確かここに、キティーちゃんのバンドエイドがあったはず』
男『お、おい……?』
妹『うん、あった!』
男『やっ、やめろって、そんな女っぽいやつ』
妹『いいから、じっとしてて』
男『…………』
妹『消毒して……貼って……これで、よしっと』
男『……あ、ありがと』
妹『それに……やっぱり、使う時に使わないとね』
男『?』
親友『おーいっ! ボール見つかったぞっ!』
妹『あっ、お兄ちゃん戻ってきた』
男『…………』
妹『ほら、兄さんっ! 行こっ!』
男『う、うん』
男「ふぅ……終わった」
上司「ん?」
がたっ。
上司「どうした? 俺はもう帰るぞ?」
男「頼まれていた仕事、とりあえず、全て終わりました」
上司「ほう……」
男「慣れるまで時間がかかってしまい、申し訳ないです」
男「いままでパソコンを使った作業をしてこなかったもので」
男「本当にご迷惑をおかけしました」
上司「……ふむ」
男「それで、追加のお仕事があれば早速……」
上司「いや」
上司「今日はもう帰りなさい。今まで毎日、残業だっただろ?」
男「ですが……」
上司「いいんだ。警備の人からも話は聞いてる」
男「ええと」
上司「毎日、夜遅くまで、時には明け方まで……本当に頑張ったな」
男「…………」
上司「初めは全てにおいて鈍臭いし、やることは不慣れだし」
上司「本当に困ったやつを部下にさせられたものだと憤慨した」
男「……申し訳ないです」
上司「だが、人一倍の根性は持ってるみたいだ」
男「え?」
上司「文句も言わずに、仕事を黙々とこなす奴を俺はもう貶さない」
男「……あの」
上司「四ヶ月、本当に大変だったな」
上司「明日からはもう新入りみたいな仕事はしなくていい」
男「…………」
上司「俺が進めている新規の顧客との会談に付いてこい」
上司「少なからず、得るものはあるはずだと思うぞ?」
男「……はいっ」
男「よろしくお願いしますっ!」
男「……ふぅ……」
男「今日も一日が終わった……っと」
男「よし、母さんに電話しようか」
ピッ……ピピッ。
男「……もしもし」
男「あっ、うん。夜遅くごめんね」
男「もう時間過ぎてる? あーそうか、でも電話、大丈夫?」
男「うん……あ、うん」
男「いや、こっちの仕事がうまくいきそうなんだ」
男「ん……ははっ、やっぱり、声が違う?」
男「みんなに認められるように……失敗はしちゃいけないよね」
男「うん、それは分かってる」
男「……そうだね」
男「俺も戻りたいんだけど……まだ、ちょっと難しそう」
男「うん……」
男「土日はいつも用事が入っててさ……」
男「もう少しすれば、こっちも落ち着けると思う」
男「うん……だから、その時にね」
男「ん、じゃあ、また」
妹「ちょっと質問してもいいですか?」
男「ん? なに?」
妹「お兄ちゃんは……お父さんの会社で働いてるんですよね?」
男「あ、うん」
妹「いつぐらいから?」
男「そうだな……ぶっちゃけの話でもいいか?」
妹「はい」
男「実は、今年に入ってからなんだ」
妹「ええと……じゃあ、その前は」
男「んと……まあ、フリーターみたいなことをしてた」
妹「じゃあ、どうしてまた急に?」
男「やっぱり、今のままじゃ駄目かなって」
男「自分の限界を知ったというか、ある意味、逃げてきたのかもしれない」
男「うん……そんなところだ」
妹「その実は……」
男「ん?」
妹「昨日、初めてお母さんに会ったんです」
男「あ、うん」
妹「その、今までは記憶を失ってるわたしと会う覚悟がなくて」
妹「でも、勇気を振り絞って会いにきたって、そう正直に話してくれました」
男「……そうか」
妹「嬉しかったです」
妹「優しそうな方で、どことなく顔立ちも自分と似てて」
男「それは良かった」
妹「それで、その時にこれ……」
男「なんだろ? ええと……写真?」
妹「はい」
男「映ってるのはお前だな。大学の入学式か?」
妹「そうです。お兄ちゃんも覚えてます?」
男「……ああ」
妹「お母さんは、他にもいっぱい思い出の写真を持ってきてくれたんですけど」
妹「これだけは唯一、ちょっと違って」
男「どういうことだ?」
男「俺が?」
妹「撮ってくれたんですよね」
男「…………」
妹「お母さんが言ってました」
妹「『お兄ちゃんは写真家を目指してた』って」
男「……それは」
妹「そう言った後、お母さんは……」
妹「少し、まずいこと言ってしまったような顔をしてました」
男「……そうか」
妹「目指してたんですよね、写真家」
男「うん」
妹「でも、どうしてやめちゃったんですか……?」
男「…………」
妹「でも、その話を聞いた時に何か胸の奥で、ひっかかるものがあって」
妹「きっとそれは、自分の記憶を取り戻すきっかけになるんじゃないかなって」
妹「本当に、ごめんなさい……でも、無理なら」
男「……そうだな」
妹「お兄ちゃん?」
男「俺は小さい頃から、写真の魅力に取り付かれてた」
男「人の一瞬、物事の一瞬」
男「その場面で一番最高な瞬間を、写真という形で後世に残す」
男「そんな仕事をする写真家に、憧れていたんだ」
……………。
………。
男『あーつまんねーな……』
親友『そういえば、もうすぐ小学生卒業だな』
男『うん、あっという間だった』
親友『中学生かー』
男『正直、心配だよな』
親友『何が?』
男『ほら、お前の妹』
親友『ああ……』
男『俺たちがいなくなっても、ちゃんとやってけるかな』
親友『大丈夫だろ? 見てくれはいい方だしさ』
親友『はは、お前、そんなこと心配してんのか』
男『……ちょっとだけね』
親友『大丈夫。もし、そんなことがあったら』
男『どうする?』
親友『妹が必ず、俺たちに相談してくるはずだから』
男『つまり、その時に──』
男・親友『『そいつをボッコボッコにしてやろうっ!』』
男『ぷっ』
親友『くっ』
男・親友『『はははっ!』』
親友『俺も今、同じこと考えてた』
男『このまま、二人で仲良くやっていければいいよな』
親友『それこそ、妹もいれて三人でな』
男『ああ……』
親友『なんだ? どうかしたか?』
男『いや、もしあいつが男の子だったらなって思ってさ』
親友『ああ、そしたらもっと楽しかっただろうな』
男『うん……余計なこと考えなくても済むし』
親友『……余計なこと?』
男『……察してくれ』
親友『まあ、もう少ししたら俺たちからは離れていくかもな』
親友『そういうこと』
男『……で、さっきからお前、何見てんだ』
親友『これのこと?』
男『うん』
親友『いや、世界を旅してる写真家の本』
男『そんな本見て、楽しいか?』
親友『めっちゃ楽しい』
男『ふーん……それはよく分かんないわ、俺』
親友『すごいんだけどなぁ……』
女性「今日は、よく来てくださいました」
男「いえ、こちらこそ……」
男「本来なら、もっと早く、お伺いすべきでした」
女性「いいですよ。その辺の事情は聞いていますから」
男「申し訳ありません……」
女性「どうぞ、線香をあげていって下さい」
女性「きっと、あの子も」
女性「長いこと、あなたに会いたがっていたはずですから」
男「…………」
女性「きっと話したいこと、考えたいことがあると思いますので」
女性「私はリビングの方で待っております」
女性「全てが終わったら……そちらの方で、お話しましょうね」
男「ご配慮ありがとうございます」
女性「気を使わず、ゆっくりとなさっていって下さい」
女性「こうやって遺灰をまだお墓に入れないのも、あなたのためでしたので」
男「…………」
女性「では、また」
ガチャ……。
男「…………」
男「……っ」
男「……は、はは……」
男「久しぶりに会ったと思ったら……」
男「こんな小さな壷に入っちゃうって……」
男「……何してんだよ……お前」
男「どうしてこんなことに……なっちゃったんだよ……」
男「ああ……」
男「…………」
男「……昔のこと、お前は覚えてるか?」
男「確か、あれは俺たちが中学生だった頃」
男「そんで、お前にも共感して欲しくて見せたらさ」
男「いちいち、アイドルのポーズについての批判しまっくって」
男「そんなの誰も聞いてないって言うんだっ」
男「そんで、俺が言った」
男「『だったら、お前の言う最高のポーズはどれだよ』って」
男「そしたらお前、嬉しそうに鞄からどこぞの写真集持ち出してきてさ」
男「『このシーンはここが凄い』『このアングルはこの場面だから生きる』とかさ」
男「でも俺からすれば、その写真は全部、白黒だったから」
男「はっきり言って、微妙だったんだよ」
男「そしたら、そんな俺を見かねて、お前はこう言ったよな」
男「…………」
男「分かったよ、もちろん、分かってる」
男「本当、お前ってやつはさ……死んでもなお、厄介な奴だ……」
男「でも……今は無理なんだよ」
男「それよりも、大切なことがある」
男「お前なら、全て成し遂げろって言うと思うけど」
男「不器用な俺は、どうやったって器用にはできないんだ」
男「結局、何かを為すためには、何かを犠牲にしなきゃいけない」
男「お前の気持ちは分かる……でも、それでも」
男「本当に……ごめんな……」
男「……要するに、俺は──」
男「敗者になっちまったんだよ……」
男「……結局、あいつの形見を渡されちゃったな」
男「カメラ……」
男「……まだこれ、使ってたのか……」
男「…………」
男「よし、切り替えないと」
男「ふー……」
コンコン。
ガラガラ……。
妹「あっ、お兄ちゃん」
男「よっ!」
妹「今日も、来てくれたんですね」
妹「ふふ。今日は一段と機嫌がいいみたい」
妹「何か、良いことでもありました?」
男「そうだなぁ……」
男「……久しぶりに、大切な人に会えたかな」
妹「……大切な人、ですか」
男「深い意味はないよ。ただ、懐かしかったんだ」
妹「懐かしい?」
男「今まで、無駄に逃げ回ってたんだけど」
男「会ってみると意外と気楽に話ができた」
妹「……いいですね、そういうの」
男「もっと早く、それこそな……」
男「はは。俺は、やっぱり、どうしても駄目人間だよ」
妹「でも、お兄ちゃん」
男「ん?」
妹「これからがあるじゃないですか」
男「…………」
妹「やっと、その人と仲直りできたのなら」
妹「これからの関係を大切に。幾ら、過去を悔やんでも仕方ないんですから」
男「……ああ」
妹「今度、また会ったら、色々話し合ってくださいね」
妹「そうすれば、今までのわだかまりもきっと……」
妹「いつかは時が解決してくれるはずですから」
男「…………」
男「また会ってみるよ」
妹「はいっ」
男「それこそ、かなり時間がかかっちゃうかもしれないけど」
男「いつか、きっと。また、会える日が来るはずだからさ」
妹「……?」
男「気付かせてくれて、ありがとう」
妹「……あの」
男「ん?」
妹「わたし、もしかして、見当違いなこと言っちゃいました?」
男「そんなことないって」
男「それよりっ」
妹「え?」
男「ほら、これ」
妹「……あっ、カメラ?」
男「今から撮るぞ? 最高の表情してくれよ?」
妹「え、ええとっ、そんな急に……っ」
男「ハイチーズ」
妹「あっ……」
……………。
………。
男『なっ……』
妹『もう不意打ちやめてよ、お兄ちゃんっ!』
親友『はは、ごめんごめん』
男『ったく、このカメラ好きめ……』
親友『でも、我ながら、今のはいい感じに撮れた』
妹『ほんとに?』
親友『ああ。いつに増して、可愛く写ってる』
妹『ふふ、ならいいや』
男『そうやってすぐに甘やかすなよ。だから、調子に乗るんだぞ?』
男『いや……まあ、うん』
妹『あとで、焼き増し貰おうね』
男『……お、おう』
親友『はは、いつもお前は妹に弱いな』
男『うるさい。いいから、お前も宿題手伝え』
親友『だから、俺の答えを見せてやってるじゃん』
男『時間がないんだって。書き写し手伝ってくれよ』
親友『そこまでは面倒見切れないって。頑張れ』
男『……はぁー』
男『……ん?』
妹『わたしは手伝ってるから、えらいよね』
男『ほんと、お前は兄と違って優しいやつだなぁ』
妹『いいのいいの。困ったときはお互い様』
親友『……ほー、お前もそんな言葉知るようになったのか』
妹『まあね』
男『四歳も年下には見えないな。えらいえらい』
妹『へへへ』
親友『よし』
パシャッ!
男『あっ、お前っ!』
妹『あれ? 今、もしかして、お兄ちゃん撮った?』
男『フィルムをかせーっ!』
親友『やなこった!』
男『ま、まてっ! 逃げるなぁ!』
だだだだだっ……。
男性「わざわざ、来てもらってすまない」
男「いえ」
男性「今後について、改めて、話し合う必要が出てきた」
女性「…………」
男「それは……」
男性「母さん」
女性「実は、あの子の退院が昨日、決まったんです」
男「……退院ですか」
男性「もちろん、私は反対したよ」
男性「ずっと病院にいてくれたほうが、安心だからだ」
男性「……だが」
女性「それじゃあ、あの子が可哀想だと思いまして」
男「……その、記憶の方は?」
男性「まだ戻ってない」
男「……はい」
男性「だからこそ、形としては自宅療養となると思う」
男性「医者は前の環境に合わせたほうが、記憶の戻りの促進に繋がると言っている」
男性「いや……本当は、思い出してなど欲しくないのだがな」
女性「…………」
男性「私たちからすれば、今のままの彼女でいい」
男性「確かに、思い出を共有できないという悲しさはあるが」
男性「……あの子の命には替えられないからな」
女性「そのことなんですが、実は、学長さんに休学願いを提出しました」
男「そうですか……」
女性「記憶がないあの子からしたら、見る人会う人が初対面のはずですし」
女性「下手に仲良かった人たちと出会ったら、逆に混乱しちゃうと思うんです」
男「…………」
男性「……君が言いたいことは分かる」
男性「だが、私たちにはもう他に選択肢がない」
男「はい……」
男性「分かってくれ……親の私たちでさえ本当は辛いんだ」
女性「…………」
男「…………」
男性「……そこで、君に折り入って話がある」
男性「いや、ここからが今日の本題だと言ってもいい」
男「……どういった話でしょうか?」
女性「その前にまずは謝らせて下さい」
男「謝るって……」
女性「あなた」
男性「ああ……」
男性「子供たちと昔からの付き合いだった君に」
女性「死んだ息子の代わりになってくれ、なんて残酷な真似をしてしまい」
男性「本当に、申し訳ないことをした……」
女性「この通り、申し訳ありません」
男性「にもかからずっ」
男「……えっ?」
ダンッ!
男「……立ち上がって、一体、何を……」
女性「……ごめんなさい」
男「……あ……」
ドン……ドン……。
男「…………」
男「……あ」
男「ああ」
男性「…………」
女性「…………」
男性「頼むっ! この通りだっ!」
男「いいからっ、早く立って……」
男性「あの子が退院しても、彼女の兄を演じ続けてくれ!」
男性「この家に住んで、この家で、あの子を支えてやってくれっ!」
女性「一生のお願いです……っ」
男「……そんなこと、言われなくても……っ」
男「……って」
男性「……いいのか?」
男「え?」
男性「文字通り、始めたら最後……」
男性「君は息子の代わりをするだけじゃなくなるぞ」
男「……それは……」
男性「端から見れば、君は私たちの息子となる」
男「……俺が……?」
男「……息子……」
………。
……………。
男『ん?』
親友『世の中には、「弱肉強食」って言葉があるだろ?』
男『ええと、弱いものは強いものに食われるってことだっけ?』
親友『そうそう、もっと具体的に言うとさ』
親友『この社会は弱い奴の犠牲によって栄えてるってこと』
男『……う、ん』
親友『お前はそれ、どう思う?』
男『つまり、強者と敗者がいるってことだよな』
親友『そうそう。んで、敗者は要は社会の犠牲者みたいな感じかな』
男『……んーなんだろうな』
親友『でも、みんなが思い通りに行動をしてたら、社会が回らなくなる』
男『それは俺でも分かるよ』
親友『じゃあ、我慢してるのは?』
男『敗者?』
親友『そういうこと』
男『……うわぁ……大人になりたくねぇな……』
親友『もし仮にさ、将来、俺たちが勝者じゃなくて敗者になっちまった時』
親友『どうすれば、そこから抜け出せられると思う?』
男『いや、もう無理なんじゃない?』
男『貧乏くじ引いてる時点で、もう泥沼じゃん』
親友『うん……そう普通は思うよな』
男『何を?』
親友『とっておきの、抜け出し方法』
男『……え?』
親友『実は、すごい簡単な事なんだ。なんで、みんな知らないのってぐらい』
男『教えてくれよっ』
親友『仕方ないなぁ。本当は誰にも言いたくないんだけどな』
親友『……お前だけは特別だ』
男『さすがっ!』
親友『方法は簡単さ。よく聞いとけよ?』
親友『それは──』
……………。
………。
男性「始めてしまったから、辞めたいと言われても困るんだ」
男「…………」
男性「前に君は私に聞いた。『終わりはいつですか』と」
男性「分かるだろ? 終わりがあるとしたら、今だ」
男「……はい」
男性「……終わりにしてくれてもいい」
男性「だが、今のあの子は、君をこの世界で一番頼りにしている」
男性「本当の兄じゃないと疑うことも知らずに、信じきっている」
男「…………」
男性「実の兄が、自分のせいで死んでしまい」
男性「ついには自責と後悔の念に耐えきれず」
男性「自分が自殺未遂を謀ったということも知らない」
男「……っ」
男性「私たちが代わりをやれるなら、何を捨ててでも成し遂げる」
男性「けれど、現実は不条理だな」
男性「あの子が、この世界で、唯一必要としているもの……」
男性「皮肉にも、それは君なんだ」
男「……それは」
男性「止めてくれても、一向に構わないぞ」
男性「けれど、君には捨てられるのか?」
男性「あの子を……──見殺しに出来るか?」
男「…………」
パーンっ!
妹「きゃっ」
男「退院おめでとうっ!」
妹「お兄ちゃん……もう、びっくりしました……」
男「はは、それは良かった」
妹「もう、病院でクラッカーなんて迷惑ですよ?」
男「妹の新たな門出なんだ。せめて盛大にと思ってな」
男「なんだそれ」
妹「あれ、わたし、なんか変なこと言いました……?」
男「言っただろ。『めっ』て」
男「俺をやんちゃな子供だと思って、言ったのか?」
妹「いや、その……なんか、不意に」
妹「ていうか、そもそも、お兄ちゃんが悪いんですから」
妹「もっとすまなさそうにしないと、駄目です」
男「まあ、確かにそうだな」
妹「ニヤニヤしないっ!」
男「無意識なんだから、許して」
妹「だーめーですー」
妹「どことなく小馬鹿にされてるみたいです」
男「……んー、ならこれ」
妹「……今度は、イヤらしいですね」
男「なら……んっ、よしこれでイケメンになったろ?」
妹「……はぁ」
妹「今日はいつになく、テンション高いですね」
妹「でも、そんなことしてると、彼女さんに嫌われますよ?」
男「そう思うだろ?」
妹「……えっ」
男「こう見えてもな、俺の学生時代はなー」
妹「は、はい」
男「…………」
妹「……ですよね」
男「同意しないでくれない? ちょっと悲しいよ?」
妹「そう言われても……」
男「しかし、最近のお前って、毒舌じゃないか?」
男「ほんと、初めのしおらしい子が嘘のようだ」
妹「それはわたしが言いたいです」
男「なんで?」
妹「お兄ちゃんも、前はもっと丁寧なしゃべり方でした」
男「そうか?」
妹「覚えてないんですか? 例えば……」
妹「『ちょっと疲れさしちゃったみたいだね』」
妹「『……うん、日を改めて、また来るから』」
男「……確かに」
妹「少女漫画に出てくる好青年みたいでした」
男「いいんだ。今の方が本来の俺に近いし」
妹「ちょっとげんなりですね」
男「それより……そろそろ、家に向かうか」
妹「あっ、はい」
男「病院の横に車を止めてあるんだ。急ごう」
男「そうだ、少し言い忘れたことがあった」
妹「何ですか?」
男「ほら、父さんと母さんの二人、今日、病院に来なかっただろ?」
妹「……あ、はい」
男「ちゃんとした理由があるんだ。話してもいいか?」
妹「別に……特に何とも思ってませんよ」
男「いや、聞いてくれ。二人とも本当は来たがっていたんだけど」
妹「…………」
男「親父は取引先との急な仕事が入って、休日出勤」
男「お袋は、親戚の方が突然倒れたっていうんで、急いで病院に行ったんだ」
妹「……そうですか」
男「お前の病院に行こうとするのを、俺が何とか食い止めて」
男「だからさ、今日は俺だけだったけど、許してくれよ?」
妹「……ふふ」
男「へ?」
妹「もうそんな必死にならなくてもいいですよ」
妹「今日、お兄ちゃんが異様にテンションが高い理由も分かりましたから」
妹「本当は、わたしに気を遣ってくれたんですよね?」
男「……いや、それはだな……」
妹「それに、思うんです」
男「ん?」
男「…………」
妹「もし二人がいたら、なんだか、緊張してしまって」
妹「気まずい空気が流れてたかもしれません」
男「……そんなこと」
妹「本当は、もっと自然に振る舞えればいいんですけど」
妹「やっぱり、親と子の関係って、そう簡単にはいきませんね」
男「なら、兄妹は?」
妹「『友達』……みたいな感じかな?」
男「…………」
妹「どうかしました?」
男「いや、気にしなくていい」
男「それより、もうそろそろ、家に着くぞ」
妹「は、はい」
妹「……ええと」
男「…………」
妹「…………」
男「……不安か?」
妹「え……?」
男「知っているはずの家に戻るはずなのに」
男「何の感慨も覚えない自分が怖い?」
妹「……それは」
男「大丈夫、焦る必要はないから」
男「仮に今後、過去を思い出さなかったとしても」
男「あの二人はきっとお前を温かく迎えてくれるはずだ」
妹「…………」
妹「……うん」
男「よし、なら安心だな」
妹「お兄ちゃん……ありがと」
男「はは、感謝されて嫌な奴はいないよなぁ」
妹「……ふふ」
男「……さて」
キキッ……。
男「我が家への到着です」
妹「……うん」
男「ちょっと待ってろ。エスコートする」
妹「え?」
バンッ……トコトコ……。
……ガチャ。
妹「……意外と紳士なんですね」
男「だろ?」
妹「ふふっ」
男「ほら見ろよ。豪華な周りの家々に引けを取らないぐらい」
男「我が家も、捨てたもんじゃないだろ?」
妹「……うん」
男「早速、入ろうか?」
妹「ちょっと待って」
妹「もしかしたら……何か……」
妹「……いや」
妹「だめ……みたいですね」
男「無理するなよ?」
妹「……分かってはいるんですけど、やっぱり……」
男「家にも思い出の品は一杯あるからさ」
妹「うん……」
男「開けるぞ?」
ガチャリ……。
妹「…………」
妹「……え?」
男性・女性「「退院おめでとうーっ!!」」
妹「う、うそ……だっ、だって……」
男「はははっ」
妹「まさか……」
男「簡単な騙しのテクニックだよ」
男「一度、小さなサプライズをやって、油断させる」
男「そして、そこから……」
妹「お、お兄ちゃんっ」
男「どうだ? 最高だったろ?」
妹「もうっ! 本当にびっくりしたんだから……」
男「お叱りは後で聞くよ、今は……」
妹「あっ……」
妹「は、はい」
ギュッ……。
妹「お、お母さん?」
女性「…………」
妹「あの……」
男性「お前が、どんなことになろうとも」
男性「決して、私たちの絆が切れることはない」
妹「…………」
男性「安心しろ」
男性「ここが、お前の居場所だから」
男性「家族四人で乗り切ろうな……」
妹「……っ」
妹「……は、はい……」
男「…………」
女性「さーて、準備は整ったかしら」
男性「おー、今日はいつに増して豪華な夕飯だなっ」
女性「お祝いの日だからね。かなり奮発しました」
男「確かに、これはご馳走だなぁ」
妹「食べきれるかなぁ……」
男「なんだ? みんなの分も全部、食うつもりか?」
妹「は……?」
男「こりゃまた、凄い食欲だな」
妹「ち、違いますっ!」
男性「確かに、昔から食いっぷりは良かった」
妹「お、お父さんまで!」
妹「お兄ちゃんっ!」
女性「そろそろ、可愛い妹弄りはその辺にしときなさい」
女性「ほら、温かいうちに食べましょ?」
女性「お父さん、いつものお願いしますね」
男性「分かった」
男性「じゃあ、みんな、手を合わせて」
男「よし」
妹「は、はい」
男性「頂きます」
男・妹「「いただきまーすっ」」
……………。
妹「もう何も食べられないです……」
女性「ありがとうね。綺麗に完食してくれて」
男性「ふぅー、やっぱり母さんの作る飯はうまいな」
男性「さて……食後の一服を」
女性「お父さん、煙草はベランダで吸って下さい」
男性「まあ、そう堅い事は言わずにな」
男性「どうだ、お前も吸うか?」
男「……ええと、止めとくよ」
女性「あら? いつ頃から吸うの止め……」
男性「母さん」
女性「……あっ」
妹「?」
女性「やっぱり、このご時世、煙草を吸う男性はだめよね?」
妹「え? いや、どうでしょうか……」
男「最近は、嫌いな人多いからね」
男「父さんも早くやめないと、秘書の人たちに嫌われるよ?」
男性「今更止めたところで、好感度は上がらないさ」
男「はは、そりゃそうか」
妹「あの、昔は、お兄ちゃんも吸ってたんですか?」
男「……うん、そこそこね」
妹「へー意外」
男「そうか?」
妹「なんか、そういうの吸う感じの人には見えないですね」
女性「顔が童顔だからね」
男「止めてくれよ、気にしてるんだから」
妹「今日の意地悪のお返しですよーだっ」
男「根に持つ奴だなぁ……」
男性「…………」
男性「……本当に仲がいいな」
女性「そうですね」
妹「え?」
女性「こんなこと言うと、あなたは傷つくかもしれないけど」
女性「記憶を失ったとは、到底、思えないぐらい」
妹「そ、そう見えますか……?」
男「…………」
男性「……ああ」
男性「何もかも……」
女性「…………」
妹「……ええと」
男「…………」
男「……つまり、だ」
妹「え?」
男「俺たち兄妹には、次元を超えた見えない絆があるわけさっ」
ぎゅっ。
妹「ちょ、ちょっと兄さんっ!?」
男「過去なんて関係ないぞーっ」
男「昔から大好きだー、妹よっ!」
妹「抱きつくの、止めてっ。禁止ーっ!」
妹「はぁー……はぁー……」
妹「もう急になんてことするんですか……心臓に悪いです……」
男「心の準備が必要だったか?」
妹「そうです。これから、抱きつく時には事前に言って下さいよ」
男「いや、兄妹で抱きつくシーンなんてそうそうないから」
妹「あっ……そうでした」
男「でも、お前が良いっていうなら──」
妹「へ?」
ぎゅうっ!
男「何度だって抱きしめてやるぞーっ!」
妹「ちょっ、心臓がっ! 事前にっ! 約束違うーっ!」
男「…………」
男「……今日は、疲れたな」
バタン……。
男「はー……」
男「いいのかな……」
男「……本当にこれで間違ってないんだろうか……」
男「…………」
男「……ええと、カメラはどこに……」
男「ん、あった」
男「……よし、これで」
男「…………」
男「……なあ、親友」
男「アイツを騙して、お前に成り代わって」
男「……うん」
男「やっぱり、俺は最低だよ」
男「…………」
男「……お前の両親に頼まれた時な」
男「正直、本当は困った」
男「だって、ずっと前から、早くこの関係が終わればいいと思ってたから」
男「他人だったお前を演じるのは、難しいし」
男「それに……お前との友情を踏みにじってる気がするから」
男「なぁ……?」
男「お前……怒ってないか?」
男「本来なら、この日常は、決して俺のもの何かじゃない」
男「結局、俺はさ……」
男「土下座して頼み込んだ二人の願いを渋々聞いてやって」
男「妹のためだから、見殺しにはできないから、なんて理由つけて」
男「そんな体裁を守れないと、踏み出せないちっぽけな人間なんだ……」
男「……多分、お前は言うと思う……」
男「『やるなら、やりきれ』『迷うな』って」
男「……でも、俺は」
男「こうしている間も、この行動の善悪を決めかねてる」
男「ぐだぐだと、正解のない問いを悩み続けてる」
男「……そのくせ」
男「家族っていう幸せの形を、楽しんでる……」
男「……どうだ? 最低だろ?」
男「……なあ、親友」
男「……頼むからさ……」
男「返事してくれよ……」
男「……俺を……罵ってくれよ……」
男「…………」
男「……はぁ」
男「…………」
男「ん?」
男「……え? 電話?」
男「ええと……このタイミング……」
男「いや、違う。そんなことある訳がない……」
男「……母さんだ」
男「そういえば、最近電話してなかったからなぁ……」
ピピピピピッ……。
男「…………」
男「…………」
ピピピピピピッ……。
男「…………」
男「…………」
…………。
男「……ふぅ……」
男「…………」
男「……出れるわけ、ないよな……」
……………。
………。
男『……すぅ……すぅ……』
──■■□ッ!
男『……ん?』
男『あれ……今、なんか音がしたような……』
男『……一階?』
男『…………』
男『まだ父さんと母さん、起きてるのかな……?』
ガバッ……。
男『……行ってみよう』
トコトコ……ガチャ。
……………。
男『…………』
男『……ん?』
男『…………』
男『……あっ』
?『一体、こ……から……のよっ!』
?『まだ家の……も、あなたっ……分……てるの!?』
男「これは……』
男『……母さんの声……?』
男『もしかして……』
母親『だったらどうして!?』
父親『仕方ねぇだろ、クビになっちまったんだからさっ』
母親『いい加減にしてよっ! また酔って帰ってきたと思ったら』
母親『急に、会社を辞めさせられたじゃ、こっちも納得できないわっ!』
父親『何を聞きたいんだっ』
母親『辞めさせられた理由よっ!』
父親『……それは』
母親『いいから言って! あなた、一体、何したっていうのっ!?』
父親『……った』
母親『聞こえないわっ。もっと大きな声で言って!』
父親『あーもうっ! 殴ったんだよっ!』
父親『前から言ってた、いけ好かない上司だよ……』
母親『……どこで』
父親『昼間、会社の中でだ』
母親『……そ、そんな……』
父親『腹が立ったんだ。いつも俺に雑用ばっかり押し付けて』
父親『その割に、何かあると責任は俺にあるとほざく』
母親『…………』
父親『それでも、俺は我慢した方だ』
父親『けど、結局、こうなる運命だったんだよ』
母親『……ああ……』
母親『…………』
父親『ふんっ……』
母親『……ねぇ』
父親『あっ? まだ、文句あんのか?』
母親『……もしかして、あなた』
父親『何だよ』
母親『そのときも、酔ってたんじゃないでしょうね?』
父親『…………』
母親『質問に答えて』
父親『……だからさ』
母親『アルコール中毒のあなただけど』
母親『会社に酒を持ち込んでたりしないわよね?』
父親『…………』
母親『何か、言ってよ』
父親『……それは……』
母親『なに?』
父親『……つい、な……』
母親『……なっ……』
父親『…………』
母親『最低よっ! あなたは本当に人間の屑っ!』
父親『……そこまで──』
ガシャーンっ!
父親『いてっ……』
父親『な、なにすんだっ!』
母親『毎日、帰ってくるのは深夜をとうに回って』
母親『時には、女の香水つけた背広で機嫌良く帰ってくる』
母親『暇さえあれば、酒は飲むわ、煙草は吸うわ』
母親『あなたは夫としても、父親としても、失格よっ!』
父親『……っ』
ガタンッ……。
母親『な、何をっ……』
母親『きゃっ……』
父親『言いたいことを言わせておけばっ!』
父親『くそっ! なんで、お前に、そこまで言われなきゃいけない!』
母親『……叩いたわね……』
父親『あっ?』
母親『……もう嫌……もう、いやよ……』
母親『これ以上は耐えられない……』
父親『何だと?』
母親『……私と、別れて下さい』
父親『……あ?』
母親『お願いですから……もう、別れて下さい』
父親『なっ……』
父親『こ、この……糞女が……』
父親『うるせぇっ!』
バンッ!
母親『……うっ』
父親『別れないぞっ! 絶対に別れてやるもんかっ!』
バゴッ!
母親『……くふっ……』
父親『お前だけいい思いをするなんて、そんなこと……』
たたたたたっ!
父親『あ……』
男『やめてっ!』
ガバッ……。
母親『……男……?』
父親『ち、違うんだ……』
男『殴るなら俺を殴れっ。それで気が済むなら、我慢するからっ!』
父親『……あ、ああ……』
男『母さん……母さん……』
母親『……う……うぅ……』
男『もう大丈夫だから……大丈夫だからさ』
母親『……うぅ……ああ……うあああ……』
男『うん……僕が、母さんを守るよ……』
父親『…………』
父親『……俺は』
父親『………ああ』
父親『…………』
父親『……手が震える』
父親『……駄目だ……』
父親『……もう……』
父親『俺は……』
父親『…………』
………。
男「…………」
……ン……ン。
男「…………」
コンコンっ!
男「あっ……」
……ガチャ。
妹「……お兄ちゃん?」
男「な、何だ……?」
妹「結構、扉をノックしたんですよ」
男「あ、ああ……気づかなかったみたいだ……」
男「……何がだ?」
妹「顔、真っ青です……」
男「……え」
妹「体調が悪いなら、また明日にしますよ?」
男「いや、いいんだ……」
妹「で、でも……」
男「ほら、入って入って」
妹「……お兄ちゃんがそう言うなら」
男「よし」
男「でも……ちょっとだけ、時間くれ」
妹「はい……」
妹「…………」
男「……ふぅー……」
妹「お兄ちゃん……?」
男「いや、少し嫌な記憶を思い出してな」
妹「嫌な記憶?」
男「まぁ、なんていうか……」
男「思い出したくない過去って、誰にも一つや二つあるだろ?」
妹「……その」
男「ん?」
妹「わたしは昔のこと覚えてないので……」
男「……あっ、ごめん……」
男「くそっ……何やってんだ俺」
妹「余り気にしないで下さいね?」
男「本当に悪い……まだ頭がうまく切り替わってないみたいだ」
妹「……あの──」
妹「聞いてもいいですか?」
男「ん? 今、思い出した過去をか?」
妹「そうじゃなくて……その」
男「うん」
妹「昔の記憶があるって、どんな感じなんですか?」
男「……それは」
妹「やっぱり、唐突にぱっと思い浮かんだりするんですか?」
男「……たまにだけどね」
男「もちろんだ……というより」
男「嫌な記憶を思い出すなんてことはめったにない」
妹「でも、時にはある……」
男「……稀にだけど」
妹「そういう時、お兄ちゃんはどうしてます?」
男「どうするっていうのは?」
妹「辛くて苦しくて、とっても悲しいような、嫌な思い出が沸き起こった時」
妹「お兄ちゃんは、それをどうやって対処してるんですか?」
男「……そうだな」
妹「…………」
妹「『受け入れる』?」
男「……どう足掻いたって、過去は変えられない」
妹「……はい」
男「どんなにやるせなくて、なんとかしたくても」
男「過ぎてしまった日々は、もうやり直すことは出来ないんだ」
妹「…………」
男「だから、受け入れる」
男「前へと進む」
妹「……ん」
男「そうしないといけない」
男「いや、そうするしか方法がない」
男「俺もさ、昔やったヘマを今でも思い出す」
男「何で、あの時、ああしてなかったんだろうって」
男「悔しくて、でも、どうしようもなくて」
妹「…………」
男「苦しいし、もがき続けてしまうこともあるよ」
男「でも、それに意味はないんだ」
妹「本当に?」
男「うん」
男「後悔をし続けても、その先には何もない」
男「終わり無き道が永遠と続いているだけなんだ」
妹「…………」
男「だからこそ、時には振り返ってしまうかもしれないけど」
男「ひたすらに、必死に、前へと足を進める」
妹「……凄いですね」
男「……そう思うか?」
妹「はい、凄く強いと思います」
男「……強くなんかないよ」
妹「でも、そうやって過去を乗り越えられるって」
妹「そう容易くできない気がするんです」
男「……俺は、ただ」
男「『今』に必死なんだと思う」
妹「……今……」
男「だから、後ろを振り返る余裕がないだけなんだ」
男「強くなんかないし、凄いわけでもない」
男「ただ、がむしゃらに生きてるだけ」
妹「わたしは、お兄ちゃんを立派だと思いますよ」
男「…………」
妹「いつか、わたしも」
男「……ん?」
妹「これから、仮に記憶が戻ったとしても」
妹「そうやって、前へと進むような強い意志があるといいです」
男「…………」
妹「わたしが記憶を失った理由。自らで、自分の命を断とうと思った訳」
妹「お兄ちゃんは事情を知っていると思いますが」
妹「それを、わたしは何ひとつ知りません」
男「……うん」
妹「相当、辛い過去なんだと思います」
男「……それは」
妹「お兄ちゃんのような、強い意志」
妹「躊躇わず、今を生きようとするその覚悟」
男「…………」
妹「わたしに、その時が来ても」
妹「どうか、授かっていますように」
男「……妹」
妹「もし、それでも──」
妹「お兄ちゃん……」
男「……ああ」
妹「わたしの側にいて……」
妹「一緒に、背負ってくれますか? 助けてくれますか?」
男「…………」
男「……もちろん」
男「──そのつもりだよ」
……………。
………。
親友『倒せるもんなら倒してみろよ』
男『ちっ、いい気になりやがって』
親友『そりゃ、今まで全勝だから、いい気分ではあるね』
男『くそっ……絶対に倒してやる』
妹『頑張れーっ!』
親友『……おい』
妹『もぐもぐ……ん? わたし?』
親友『菓子食ってばかりいる、そこのお前だよ』
妹『なによ、お兄ちゃん』
親友『そうだ、お前は俺の妹だろ?』
妹『だから?』
妹『んー……』
妹『やっぱ、兄さんを応援する』
親友『なっ……』
男『残念だったな。この子は優しい『兄さん』がいいみたいだ』
なでなで。
妹『ふふっ』
親友『ちっ……今に見てろよ』
男『はは、燃えてきたじゃねぇかっ』
……………。
妹『やったね! 兄さんっ!』
親友『……まぐれだ……絶対、まぐれだ……』
男『うおおおっ! 勝利の雄叫びっ!』
妹『ひゃあほおおおっ!』
ぎゅっ。
男『この可愛いやつめっ!』
妹『うわっ、に、兄さん……』
男『あ……ご、ごめん』
妹『……え、ええと』
男『その……感極まってさ……本当に悪い……』
妹『い、いや、別に……』
親友『おーい、そこのお二人さん』
男・妹『は、はいっ!?』
親友『キリもいいし、そろそろゲームを止めよう』
男『ん? いいのか、俺の勝ちで終わりで』
親友『ふんっ、たかが一勝で何言ってんだよ』
男『……まあ、そうりゃそうだけど』
妹『良かったね、兄さん。勝ち逃げだよ』
男『お、おう』
親友『そんなことより──』
親友『じゃーん、これはなんでしょう?』
男『ん? ビデオ?』
妹『あっ!』
妹『……それは……』
男『?』
親友『他の奴は全部二人で見たんだが』
親友『この一本だけは、未だに見る事ができない』
妹『お兄ちゃん……やめようよ……』
男『どういうことだ?』
親友『見てみろ』
男『……ん……』
男『……ホラー映画か?』
親友『正解』
妹『……うぅ……』
男『ああ、だから嫌がってたわけか』
妹『お兄ちゃん……やめようよ……』
親友『何だよ、お前、約束しただろ?』
親友『『兄さんも入れて、三人なら見る』ってさ』
妹『言ったけど……』
男『…………』
親友『てなわけで、鑑賞タイムだ』
親友『部屋も暗くして、雰囲気も出そう』
……………。
妹『きゃああああああっ!』
ぎゅっ!
男『……あっ……』
妹『やだやだっ! もういやっ!』
親友『うわぁ……想像以上にグ口いな……』
妹『兄さん兄さんっ』
男『……な、なんだよ』
妹『もう……怖いシーン終わった?』
親友『終わったぞ』
──うぎゃあああああああっ!
妹『嘘つきっ!』
親友『はははっ、騙されるほうが悪いんだぞ』
ぎゅっ!!
男『……お、おう』
親友『本当に、妹は怖い系、苦手だよなぁ』
親友『あー、部屋からカメラもってくれば良かった』
親友『今なら妹のベストショット撮れたのになぁ』
男『おい、タチが悪いぞ』
妹『そうだよ、お兄ちゃんっ!』
親友『分かってるって。撮らないからさ』
妹『……兄さん、終わった?』
男『……うん、大丈夫』
男『…………』
妹『ねぇ、兄さん』
男『ん?』
妹『終わるまで、手握っててもいい?』
男『……え』
妹『だ、駄目かな?』
男『……い、いいよ』
妹『ありがと、兄さん』
男『…………』
男「……あの」
上司「ああ、来てくれたか」
男「その、何か、ミスでもしましたでしょうか?」
上司「いや……お前は、ここ最近、よくやってくれている」
男「そうですか……でも、何の用件で?」
上司「聞いたぞ」
男「……は?」
上司「なぜ、もっと早く言わなかった」
男「すみません……その何の話か……」
上司「なかなか、隙を見せない奴だな」
上司「……いや、流石といったところか」
男「……はい?」
男「……え」
上司「さきほど呼び出されたよ」
上司「『いままで黙っていたが、実は……』とな」
男「社長からですか……?」
上司「ああ、全く気がつかなかった」
男「……その」
上司「別に隠していたことを怒っている訳じゃない」
上司「ただ、そんな重大なことに気づけなかった自分を恥じると同時に」
上司「驕りや高慢な態度をとらないお前を凄いなと思ってな」
男「……いや」
上司「正直に言おうか」
上司「ただただ、感心したよ。降参だ」
上司「それだっ!」
男「へ?」
上司「その低姿勢が君の魅力なんだ」
上司「身分が判明したというのに」
上司「まだ続けようとする、根っからの素直さ」
男「…………」
上司「今まで、なぜかと疑問に思っていたんだが」
上司「やっとしっくりとくる理由が分かった」
男「……疑問ですか?」
上司「ほら、そのだな、初めのうちは君に厳しく当たっただろ?」
男「いえ、それは僕に必要なことでした」
上司「かわいがっていた部下が飛ばされて、確かに、君へ当たった」
男「そんなことは──」
上司「いや、そこは謝らせて欲しい。申し訳なかった」
男「そんな、頭を上げて下さい……」
上司「けれどだ。君をいつの間にか、慕っている自分に気がついた」
上司「初めは無能な部下……いや、これまた、すまん」
上司「その、新入りを俺が鍛えてやろうという気持ちだと思っていたんだが」
上司「無駄に、私の仕事に連れて行きたくなり」
上司「多少のミスも何故だか、自然と許せるようになっていた」
男「……そうだったんですか?」
上司「それが、君の魅力だよ」
男「……はぁ」
上司「本当に、今まで、その才能を持っていたというのに」
上司「どこで胡座をかいていたというんだ」
男「……その」
上司「……まあ、そんなことはどうでもいい」
上司「ただ、少しだけ忠告をしておこうと思ってな」
男「忠告ですか?」
上司「というより、だてに長く生きていない年配者の知恵というか、だな」
上司「それを君に授けたい」
男「あ、ありがとうございます……?」
上司「どうせ私は後数年経ったら、定年の身分だ」
上司「出世が遅くてね。もうこれ以上、上にはいけないだろう」
男「いや、そんなことは……」
男「…………」
上司「創業者である社長の息子だ」
上司「今しばらくは下っ端で経験させているだろうが」
上司「もう少し経てば、自ずと上の役に就くだろう」
男「……それは」
上司「今ではもう若くない社長も」
上司「ゆくゆくは、会社を息子に継がせたいと思っているはずだ」
上司「君が今後、幾ら無能だったとしても」
上司「自然と重役となり、ひいては、社の長となるだろう」
男「…………」
上司「だが、それでは、部下はついてこないぞ?」
上司「馬鹿な上司だと思われて、身内は敵ばかりとなる」
男「……はい」
上司「加えて、実績も出せば、誰一人文句を言わないはずだ」
上司「例えそれが、コネでのし上がった若者であっても、な」
男「……あ」
上司「分かっただろ?」
上司「少しでも私の想いが伝わればいいと思っている」
上司「しかし、本当に、君は恵まれているな」
男「……そうでしょうか?」
上司「何を言ってるんだ。もっと親に感謝しなさい」
男「親に……」
上司「君をこの世界に誕生させ、ここまで育ててくれたんだ」
上司「その魅力ある性格も加えてだ」
男「……そう、ですね」
上司「ああ」
男「……そうだよ……」
上司「ん?」
男「今の自分がいるのは……親のおかげ……」
男「だからこそ、俺は……」
上司「お、おい、どうした?」
男「なんで、こんな大事なこと……」
男「……でも」
男「どうすればいい……?」
男「俺は……一体……」
男「…………」
男「やっぱり……駄目だ」
男「……この世界からは、もう抜け出せない……」
男「母さん……」
男「……ごめんね……」
妹「わたしに、月に一度の検査って、なんか不思議ですよね」
男「どうしてだ?」
妹「だって、病院に行ったところで、記憶が戻るわけないじゃないですか」
男「それはそうだが……」
妹「家に戻ってから数ヶ月」
妹「けれど、一向に過去を思い出す気配もないんですから」
男「……それでも」
男「やっぱり、お医者さんに見てもらうのは大事だよ」
妹「……分かってはいるんですが」
妹「どうも駄目ですね。最近、ネガティブな思考ばっかりです」
男「…………」
男「ん?」
妹「わたしの記憶が未だに戻らない理由」
男「それは……」
妹「お兄ちゃんが、どう考えているのか、聞きたいです」
男「……いや、俺は専門家じゃないから分からないよ」
妹「お願いします」
男「…………」
妹「…………」
男「……はぁ」
男「こんなことは言いたくないんだが……」
男「昔の生活をなぞっているのに、過去を思い出せないってことは」
男「それが今の日々に必要ないってことなんじゃないか」
男「もしかしたら、記憶があること自体、問題なのかもしれない」
男「思い出すことによって、今に支障をきたすからこそ」
男「身体が無意識のうちにそうさせているんだと思う」
妹「……自殺未遂するほどですからね」
男「もう、やめよう……」
男「これが建設的な会話だとは、俺には思えない」
妹「でも、お兄ちゃんの意見はすごく参考になりました」
妹「何となく、わたしもそんな気がします」
男「…………」
妹「最近、わたし、思うんです」
男「……さっきの話の続きか?」
妹「はい」
男「病院に着いて、検査を受け終わってからにしよう」
妹「……これで最後にします」
男「……ふぅ」
男「分かったよ……」
妹「……ありがとう」
男「…………」
妹「その、わたしが記憶が戻らないのには多分大きな訳があるんです」
男「……どうして、そう思う?」
妹「調べたんですが、大抵の記憶喪失はすぐに治るみたいです」
妹「それは今までの生活をなぞったりすれば、次第に気づくから」
男「……ああ、だから、今もそうしてるだろ?」
男「どういうことだ……?」
妹「なにか、欠けてるんじゃないんですか?」
男「……は?」
妹「実のところ、わたしも全く思い出せないという訳じゃないんです」
男「……そ、それは本当に?」
妹「はい。誰にも言いませんでしたけど、事実です」
男「いや、待てっ。それは、かなり重要なことなんじゃないか?」
妹「でも、結果的に駄目なんですから意味はないですよ」
男「それでも……」
妹「問題は、思い出そうとする瞬間」
妹「何かが、わたしの記憶が蘇るのを遮ることです」
妹「それが何なのか、前までは分からなかったんですけど」
妹「最近、違和感が」
男「……なんだ?」
妹「昔通りと言っている生活に、何か、不自然さを感じるんです」
男「……それは」
男「昔のように、大学に行ってなかったりするからだろ?」
妹「そんな些細なことじゃなくて、もっと根本的な……」
妹「前提をひっくり返すような、そんな感覚です」
男「…………」
妹「お兄ちゃんは、見当つかないですか?」
男「……いや」
妹「……そうですか」
男「すまん……」
妹「いや、お兄ちゃんがそう言ってるなら、わたしの勘違いなんでしょうね……」
妹「でも……何かが、おかしいんですよ……」
男「…………」
男「……少し、焦りが出てきてるみたいだな」
妹「え?」
男「過去を取り戻せない自分に、憤りを感じているんだろ?」
妹「…………」
男「よし、そうだ。今度、時間を作って、どこか──」
男「……え?」
妹「わたしも、前に進みたいんです」
男「…………」
妹「今のままじゃなくて、わたしもお兄ちゃんみたいに」
妹「辛い過去を乗り切って、今を生きたい」
男「……それは……」
妹「ねぇ、お兄ちゃん」
男「……ん?」
妹「最近、見るからにお兄ちゃん、疲れてますよ?」
男「俺が?」
妹「顔も窶れてるし、最近はふざけるのも少なくなりました」
妹「はぐらかさないで」
男「…………」
妹「一体、どうしたんですか?」
男「……別に、なんでもないよ」
妹「仕事のこと?」
男「…………」
妹「それとも、人間関係がうまくいってない?」
男「…………」
妹「或いは……」
妹「わたしのことで……」
妹「それは、本当に断言できますか……?」
男「違う、お前のことじゃない」
妹「……でも、なら」
男「…………」
男「あまり、人には話したくはないことだ」
妹「…………」
男「でも、強いて言うなら……」
男「自分自身の存在意義に、疑問を感じてる……ってとこだ」
……………。
………。
担任『では、志望先を記入しておいてくれよ』
担任『書き終わったら、委員長に渡すか』
担任『それが嫌なら、職員室の私のところまで自分で持ってくるように』
キーンコーンカーンコーン。
担任『……チャイムが鳴ったな』
担任『くれぐれも、適当に書くことはないように』
担任『分かったな?』
担任『では、また明日』
……………。
親友『どうした? もう書けたか?』
男『今のところ、普通に進学するつもりなんだけど』
男『どこの高校にしようかなって思ってさ』
親友『何だよ、俺と一緒じゃないのか?』
男『だって、お前、頭いいだろ? 俺は入れそうもないよ』
親友『何言ってんだ。今まで通り二人三脚で助けるぞ?』
男『それはありがたいが……』
男『いつまでも、お前の足を引っ張ってばかりじゃなあ……』
親友『そんなこと言わず、これからも仲良くやろうぜ』
親友『俺はお前と同じ高校いけるなら、少しぐらい苦労構わないさ』
男『……本当か?』
親友『もちろん』
親友『いいよ、気にすんな』
男『はは、持つべきものはやっぱり友だ』
親友『だなっ』
男『そうだ、この後どうする?』
親友『ん? どっか遊びにでも行くか?』
男『隣街のゲーセン行ってみないか? 新型色々入ってるらしいぞ』
親友『ただ、今月厳しいからなぁ』
男『それだと、無理そうだな……』
親友『……そうだ』
男『ん?』
親友『久しぶりに俺ん家来ないか?』
親友『ああ、そこなら金もかからないし』
親友『古いゲームしかないけど、昔みたいに盛り上がろうぜ』
男『あ、うん……』
親友『それにさ……』
親友『妹のやつも、最近、お前と会ってないし』
親友『この前、『兄さんはもう家来ないの……?』って、半泣きだったぞ?』
男『……いや』
親友『どうしたんだ? 何が問題だ?』
男『別に、何かあるってわけじゃないんだが……』
親友『なら、いいだろ?』
男『……気乗りしない』
親友『…………』
男『やっぱり、今日はやめとこう』
親友『……なぁ』
男『ん?』
親友『お前、避けてるだろ?』
男『……何の話だ』
親友『しらばっくれるなよ。こっちは分かってんだぞ?』
男『聞きたくないな、その話は』
トコトコトコ……。
親友『お、おいっ』
男『じゃあな、また明日』
親友『…………』
親友『……何でなんだよ』
親友「何で……』
親友『…………』
男性「ふぅ、今日も疲れた」
女性「いつもご苦労様です。仕事の方は順調?」
男性「ああ、今のところはな」
女性「そう、それは良かったですね」
男性「ふむ。で、どうだ。最近、お前の方は」
男「…………」
男性「……ん?」
男「…………」
妹「……お兄ちゃん」
ゆさゆさ……。
男「あっ……な、なに?」
男性「どうした? 疲れてるのか?」
男「いや、大丈夫だよ。ちょっと……考え事を、ね」
女性「……ご飯もまだ全然食べてない」
女性「もしかして、口に合わなかったかしら?」
男「……違うんだ。いつも通り、おいしいから安心して」
妹「…………」
男「もぐもぐ……うん、やっぱり、母さんは料理上手だな」
男性「はは、そりゃそうだ」
男性「私が何度も何度も、アタックしたというのに」
男性「そうそう首を縦に振らなかったからなあ」
女性「やはり、家庭を築くなら、少ないよりあったほうがいいですし」
男性「でも、結局は、貧乏な私と結婚してくれたんだぞ?」
女性「あまりにもしつこいから、仕方なしです」
男性「はは、そりゃ困ったなぁ」
妹「仲いいんですね」
男性「ん?」
妹「両親が二人とも仲いいって、見てて幸せになります」
女性「そ、そう?」
妹「はい。ねっ、お兄ちゃん」
男「…………」
男「……聞いてるよ。いいなぁ、仲良くて」
妹「う、うん……」
男「妹がそう言う訳も分かるよ」
男「家庭の幸せってこういうものなんだなって、つくづく実感する」
女性「あら、お父さん。息子が嬉しいこと言ってくれますね」
男性「……あ、ああ……」
男「もし仮に、ここに不幸な家庭しか見てこなかった子供がいたとしたら」
男「羨ましく……いや、妬ましく思う程、幸せな光景だよね」
女性「……え?」
男性「……ちょっと、席を外すぞ」
ガタン……。
男性「本当か? やれるのか?」
男「心配しないで。これでも、人一倍の親思いなんですから」
男「今までの人生をかけてきた、実績もありますよ」
男性「…………」
妹「……え、ちょっと、どういう……」
男「いいから、お父さん、座って下さい」
女性「あ、ええと……」
男性「……駄目だな……こっちに来──」
男「どうしたんですか? 何か、問題でも?」
男性「自分でも分からないのか?」
男「何がです?」
男「……これはもう無理だな」
女性「…………」
男「ちょっと待って下さい。みんなも、何か変だと思いますか?」
男性「……………」
女性「……え、えっと」
妹「お、お兄ちゃん……」
男「どうしたんだよ、妹」
男「そんな、異常者を見るような目つきで……もう困るなぁ」
妹「……うぅ」
男「お父さん、いい加減にして下さい」
男「冗談だと言っても、からかわれ続けるのはいい気分がしません」
男性「……………」
妹「……く、口調」
妹「お、お兄ちゃん……喋り方が……」
男「なに? 喋り方?」
妹「……お父さんに、敬語使ってますよ……?」
男「は、はは……そんなことない──」
男「です、よね……お父さん?」
男「……っ」
男「ごめん、席を外す」
ガタン……。
男性「すまん、仕事で疲れていたみたいだ」
男性「会社での会話が、こっちまで入りこんでしまったんだろう」
男性「気にせず、食事を続けてくれ。なっ?」
女性「は、はい……」
妹「……お兄ちゃん……」
妹「……一体……」
男「……くそっ!」
男「なんて失態だっ! 何をやってるっ!」
男「馬鹿なことを一人で考えてるから……」
男「……こんな些細なミスを置かすんだっ!」
男「……くっ……」
バタッ!
男「……何が、何が不満なんだ……?」
男「いや……」
男「……俺は、一体、何を恐れてる?」
男「…………」
男「……あ……」
男「……あいつの、大好きだった写真撮影」
男「でも……」
男「別に……好きじゃない……」
男「……親友……」
男「ああ……」
男「俺は……」
男「──一体、誰、なんだ……?」
男「…………」
男「なんてことだ……」
男「……そんな、自分を見失うなんて……」
男「……親友を演じる事で……自分が分からなくなるなんて……」
男「……はは、はははっ」
男「……うぅ」
男「なんて……滑稽なんだ……」
男「……幸せな家庭」
男「違う、違うっ」
男「俺の家には……そんなものはなかった……」
男「……なら、今は?」
男「今は……」
男「…………」
男「駄目だ……自分が自分でないようで」
男「頭がおかしくなりそうだ……」
男「……助けてくれ」
男「おい、親友……」
男「……近くにいるなら、狂った俺を助けてくれよ」
男「もう、俺は……」
男「壊れかけているみたいんだ……」
男「…………」
男「…………」
男「……母さん」
男「今の俺を……正気に戻してくれるのは……」
男「……俺の、たった一人の母さんしかっ──」
……ピピピピピッ!
男「……へ?」
男「か、母さん……?」
……ガバッ!
男「…………」
男「……違う」
男「……何だ? 知らない番号?」
……………。
………。
男『なんだよ、朝っぱらから』
親友『……重要な話だ。来てくれ』
男『ここじゃ、出来ない話なのか?』
親友『ああ……ここじゃ無理だ』
男『……分かったよ』
男『お前に付いて行けばいいんだろ?』
親友『助かるな……』
男『いいさ、まだ朝礼までには時間がある』
親友『ああ、それまでには終わらせるよ』
男『…………』
……………。
親友『…………』
男『まさか、屋上が開いてるなんてな』
男『確かに、内密な話をするには絶好の場所だが……』
男『お前、このためだけに錠を壊しただなんて言うなよ?』
親友『……だったらどうする?』
男『……え?』
親友『話をしよう』
男『ちょっと待てって』
男『本当にお前が……』
親友『今は、そんなことどうだっていいさ』
男『……でも』
親友『お前に、聞きたいことがあるんだ』
親友『俺の……妹のことだ』
男『…………』
親友『こないだは、うまく逃げられたからな』
男『今日だって、走って逃げるかもしれないぞ?』
親友『残念だったな。扉に近いのは俺の方だ』
親友『そこまで話したくないっていうなら』
親友『俺を殴り倒していけよ』
男『……そんなことするわけないじゃないか』
親友『そうか? よっぽど、話したくないことだと俺は考えてるけどな』
男『…………』
親友『どうして、あいつを避ける』
親友『分かりきった嘘をつくなよ』
男『嘘じゃない。ただ、巡り合わせが悪いだけだ』
親友『違うな。あまりにも、不自然さが臭う』
男『……お前がそう思ってるだけだろ?』
親友『待て。そう、過剰に反発しないでくれ』
親友『ただ、俺は理由を聞いてるだけだ』
男『別に……怒ってないさ……』
親友『そうか? 俺には凄く、感情的に見えるが』
男『いいから、早く聞けよ』
親友『だから、避けている理由を聞いてるんだ』
親友『はぐらかしたら、また同じ質問を繰り返すからな?』
男『……ちっ』
親友『ん?』
男『もう、幼い女の子と遊ぶ気になれないんだよ』
男『ああ……そういうことだ』
親友『……あんなにアイツに優しかったお前がか?』
男『人は変わるよ』
親友『……違うな』
男『違わない』
親友『いいか、小さい頃からの友達だった俺に嘘をつくな』
男『……別に嘘なんて……』
親友『なら、はっきりと言ってやろうか?』
男『……何を』
男『なっ……』
親友『俺が分からないとでも、思ったか?』
親友『そうだったとしたら、お前は、相当な大バカ者だ』
男『……くっ』
親友『いいか、お前は……』
男『や、やめろっ!』
親友『妹のことが好──』
男『……ッ』
親友『……くっ』
男『それ以上、言うなっ』
男『分かっていても、言うんじゃないっ!』
親友『……何でだよ……何が問題……なんだ?』
男『いいから、止めろ』
男『頼むから、やめてくれよ……』
親友『……お前……』
男『……っ』
たったったった……。
親友『…………』
ドンドンドンッ!!
男性「……な」
ガチャ……。
男「…………」
男性「……君か……」
男「…………」
男性「ど、どうした? まだ、気分が悪いのか?」
男性「もしそうなら、数日間、仕事を休んでも──」
男「……終わら、せましょう……」
男性「……は?」
男「……もう、こんな芝居」
男「……やめてしまいましょうよ……」
男性「ま、まて……」
男性「今のあの子には、君という兄が必要で……」
男性「それに、途中でやめる事は……」
男「……昔」
男性「……ん?」
男「……酒を飲んでは溺れて」
男「暇さえあれば、煙草を吸っているような男がいましてね……」
男性「……な、何の話だ?」
男「ヘビースモーカーっていうんですか……?」
男「僕は煙草を吸わない事にしてるんで、よく分かりませんが」
男「そんな骨の髄まで腐り切った、駄目人間がいたわけですよ……」
男性「……男君」
男性「もしかしたら、私が思っている以上に、君は……」
男性「……え?」
男「そんな駄目人間でしたけど、間違いなく、僕の父でした」
男「……愛すべき、家族だったんです」
男性「…………」
男「でも、そんな男ですから、家庭に幸せは訪れなくて……」
男「気がついた時には、遅かったんです……」
男「……既に、何もかも歯車が狂い始めていて……」
男「不思議に思いませんでしたか……?」
男性「……何を?」
男「どうして、僕が……この街に再びやってきたのか……」
男性「それは、知らない……」
男「実はですね……」
男「……仕事のあてを探しにきたんです」
男性「……どういうことだ?」
男「最後に頼むのは、親友っていうでしょ?」
男「だから、何年も訪れていないこの街に……」
男「……かつての友人を頼ってきたわけです……」
男性「…………」
男「そしたらびっくり……まさか、ソイツが死んじまってて……」
男「……妹は、記憶喪失……」
男「……は、ははっ……」
男「笑っちゃいますよね……どんなタイミングだよって……」
男性「……っ」
男「でも、あなたは僕に提案した」
男「『妹の兄になってくれ』と」
男「この際だから、はっきり言いますね……」
男「……そんな大役、僕に務まるわけないんです」
男「一人でさえ精一杯になのに……どうして、そんな余裕が?」
男性「……けれど、君は承諾したぞ」
男「……その通りです」
男「……だって、仕事が貰えたから」
男「かなりの金が入る仕事が、得られたから……」
男性「いったい……どういう……」
男「僕にはいるんですよ、お金が」
男「……それも少しじゃなくて、大量に」
男「……手術費用です……」
男性「手術費用……?」
男「……父の話はしましたよね?」
男「ヘビースモーカーの、煙草吸ってばかりの父がいたって話」
男「それが、最悪なことに、母の病気を生みまして……」
男「医者の話によると、副流煙は非常に身体に悪いそうです……」
男「……で、それを大量に吸っていた母は……」
男「──肺ガンになった」
男性「……そうだった、のか……」
男「まあ、月々の医療費ぐらいならなんとかなったんですが」
男「……有名どころの先生に手術を頼むとなると、相当かかるらしくて……」
男「でも、母さんの残された命は僅かで……」
男「かつて、僕は誓いました……けど、その母を救うことができない……」
男「……そんな時に舞い込んできた、不幸の中の幸運だったからこそ」
男「かつての……友人、妹のためになるという頼みだったから」
男「今まで、精一杯、頑張れた……」
男「……自分には不可能だと思える事も、やり通せた」
男性「……なら、これからも……」
男「でも、もう意味ないんです……」
男性「……どうしてだ?」
男「……さきほど電話がかかってきました」
男「母が……」
男「──死んだそうです」
男性「……なっ……」
男「もう……僕には無理ですよ……」
男「こんな……自分の生きる方向性を見失った人間に……」
男「守ると約束した人を救えない、裏切り者に……」
男「……親友を演じて、その妹を救うなんて……」
男「そんな、大役……無理なんです……」
男性「…………」
男「一体、どうしていいのか……」
男「……でも、まずは」
男性「帰るのか?」
男性「母親のいる故郷の病院に帰るんだな?」
男「…………」
男「……はいっ」
男「……ごめん……なさい……」
男性「…………」
ザーザーザーッ……。
男「……雨、か……」
男「日中はあんなに晴れてたのになぁ……」
男「……ここから、何時間かかるんだっけ……」
男「ええと……」
男「まあいいや……」
男「とりあえず、車に乗らないと……」
男「…………」
男「『時間がかかってもいいから、落ち着いたら戻ってきて欲しい』か……」
男「は、はは……」
男「こんな自分を、まだ必要としてくれてるんだな……」
男「…………」
男「母さんに会いに……行こう」
男「…………」
──『お兄ちゃんっ……』
男「……え?」
男「嘘だろ……だって……」
男「……あっ……」
男「あいつの部屋は……そうか、道路沿いか……」
男「……やっぱり、一言ぐらいかけたほうが……」
男「…………」
男「……おーい、聞こえるかっ!」
ザーザーザーッ……。
ザーザーザーッ……。
妹「?」
男「……だめ、か……」
男「そうだよな……」
男「雨降ってるもんな……これじゃあ、向こうに届かない……」
妹「…………」
男「…………」
男「本当のことを言うとな」
男「実は、俺……」
男「……お前の兄じゃないんだよ……」
ザーザーザーッ……。
ザーザーザーッ……。
男「昔、別れも言わずに消えた……ただの知り合いなんだ」
男「お前にとってみれば、冷たくされた相手かもしれないな……」
男「この前に、約束したよな」
ザーザーザーッ……。
ザーザーザーッ……。
男「……そばにいるって」
男「助けてやるって」
男「でも……ごめん」
男「今のおれじゃ……お前に勘づかれちまう……」
男「足引っ張っちゃうだけ……になるんだ……」
ザーザーザーッ……。
ザーザーザーッ……。
男「だから……」
男「また、別れを言わなかった俺を」
男「……恨まないでくれよ……」
男「…………」
男「じゃあな……」
男「──さよなら……」
ガチャ……。
……………。
………。
男『……朝か……』
ガバッ……。
男『昨日は、母さんと父さん、喧嘩してたけど』
男『……でも、大丈夫だろ』
男『一日経てば、二人とも冷静になれると思うし』
男『……最後、父さん……自分のやったこと、後悔してるもんな』
男『うん……きっと大丈夫』
男『何事もなく、うまくいくはずだ』
男『……やっぱり、家族は仲良しが一番だ』
男『これを機に、父さん、変わってくれないかなぁ……』
トコトコトコ……。
男『でも、会社をクビか……』
男『腹が立っても、殴れない、か……』
男『そんなこと言ったら、こないだ、親友を殴った俺は』
男『学校をやめなきゃいけなくなるな……』
トコトコトコ……。
男『うん……今日、謝ろう』
男『やっぱり、殴った俺が悪い』
男『それに……このままだと変な空気がずっと続きそうだからな』
男『大切な友達を、そんなことで失ったらもったいない』
男『……それに妹のことだって……』
トコトコトコ……。
男『でも……どうしような……』
男『もし仮に、あいつがあの子に言ったりしたら……』
男『あーわかんねぇっ、恋人いたことねぇからなー』
男『それに……あの三人の関係を壊していいのか……』
男『『兄さん』が『妹』を好きになったなんて……』
トコトコトコ……。
男『……ふぅー』
男『とりあえず、その件はひとまず置こう』
男『まずは、親友と……』
男『………ん?』
男『なんだろ、この臭い……』
トコトコトコ……。
男『リビングからかな? もしかして、誰か起きてる?』
男『…………』
男『……え』
父親『…………』
男『……首を……』
男『…………』
男『……うっ!』
……ぐええええぇぇっ!!
男『いいか、落ち着け、落ち着くんだ……』
男『……今、この家に男は俺しかいない』
男『だから、俺がしっかりしないと……』
男『そうだっ、まずは母さんをここに入れちゃいけないっ』
男『こんな父さんの姿は……見せちゃいけない……っ』
男『ことがすむまでは……絶対に……』
男『…………』
男『……父さん』
男『今、降ろして上げるからね』
男『ちょっと待っててよ……今、椅子と鋏を』
ががっ……。
男『……よし』
男『…………』
男『……うぅ……くっ……』
男『駄目だっ……泣くな……男は泣くなっ!』
男『全てが終わったら……一人で泣くんだっ』
男『……父さん』
男『約束する……』
男『俺……絶対に強い男になるから』
男『母さんを守るから』
男『俺が……必ず……』
男『……今、降ろすね』
男『少し乱暴になるかもしれないけど、許して』
男『父さんの身体を支えられるだけの力はないんだ』
男『……だから、地面に落ちる時、少し痛いかもしれない』
父親『…………』
男『うん、じゃあ切るよ』
男『……よし』
男『せいのっ……』
……バタンッ!
看護婦「……お母様のご遺体はこちらに」
男「…………」
看護婦「……その」
男「……はい」
看護婦「お母様、癌の病にしては、とても安らかに亡くなられました」
男「…………」
看護婦「それに……」
看護婦「いつも、自慢の息子がいるのだと、誇らしげに言っておられまして」
看護婦「亡くなられる直前も、あなたの自慢話を聞かせて頂きました」
男「……そうですか」
看護婦「……はい」
男「少しの間だけ……母と二人だけにして頂けますか?」
看護婦「……もちろんです、失礼します」
男「……本当に申し訳ないです」
ガチャン……。
男「…………」
男「……やあ、母さん」
男「半年ぶりかな? それとも、それ以上、経ったっけ?」
男「ここ最近忙しくてさ、あんまり時間の感覚が分からないんだ」
男「……うん」
男「そうか、死んじゃったんだね」
男「せっかく、この業界で有名なお医者さんに手術を頼もうと思ったんだけど」
男「間に合わなかったみたいだ」
男「こんなことになるならさ……」
男「前の街になんか戻らずに、母さんの側にいれば良かった」
男「前の仕事だと給料は安かったけど、結構、時間は取れたからね」
男「もっと病院へ通って、母さんと話が出来たはずだ」
男「……ごめん……本当にごめん……」
男「電話も何度もしてくれたのに、それも出なくて……」
男「……本当に、俺は親不孝者だよ」
男「役立たずにも程があるよ……」
男「……父さんが死んだ前の夜、結局、俺は止められなかった」
男「いつもと様子が違ったのに……気づけなかったんだ」
男「……あの時から、何も変わってない」
男「いつもそうなんだよな……」
男「俺って不器用だからさ、どうあがいても器用にはいかない」
男「大事なところで、肝心な場面で」
男「……ミスをおかす」
男「ただただ、運命に翻弄され続けてる」
男「…………」
男「ごめん……母さん……」
男「……本当に……」
男「……父さんと約束したはずのに……」
男「守るって……言ったのに……」
男「……うぅ……くっ……」
男「……で、でもっ」
男「母親の前で、大きなった息子が泣くなんて」
男「あまりにも、みっともなさすぎるからね……」
男「……だけどね、母さん」
男「……俺さ」
男「正直、これからどうしたらいいか、分からないんだ」
男「……もう、何もかも、失った気がするんだ……」
男「……俺は……」
男「一体……どうすればいいんだろう……?」
男「…………」
……………。
………。
男『ああ……』
親友『明日、引っ越すんだろ?』
男『うん』
親友『……遠いな、自転車じゃ行けないぐらい、遠いよ』
男『……ああ』
親友『高校はどうするつもりだ?』
男『向こうで、働く予定』
親友『……そう、か』
男『それよりさ……』
親友『ん?』
男『悪いな、妹に黙っててもらって』
男『うん……』
親友『……でもさ』
親友『ほんと、こういう時って、何て言っていいのか、分かんないな』
親友『何言っても、下手な同情みたいだし』
親友『俺たちの間に、そんな感情があったら駄目だし』
男『……ありがとうな』
親友『……なあ、男』
男『ん?』
親友『「頑張れ」なんて有り触れた言葉は言わない。てか、言えない』
親友『でもな、これだけは分かってて欲しいんだ』
男『……何だ?』
親友『どんなに辛くても、苦しくても……』
親友『悲しい時は、一緒に悲しんでやる』
親友『泣きたい時は、一緒に泣いてやる』
親友『それで……時間が経ってな』
親友『大丈夫って、胸を張って言えるようになったらさ』
男『…………』
親友『そん時は……』
親友『一緒になって、笑ってやろうぜ』
……………。
………。
男「……一緒になって……か……」
男「はは……」
男「……懐かしい、な……」
男「……でもよ……」
男「お前も……もう、死んじまったじゃないか……」
男「……何で……」
男「何で、俺の大事な人たちはみんな……」
男「……俺だけを残して、死んじまうんだ……」
男「……うぅ……」
男「くっ……うっ……うぁっ……」
男「……何でだっ」
男「どうして、こんなにうまくいかないっ……」
男「俺に……どうしろって言うんだ……よ……」
──『先に、■きになったのは■■じゃないから』
男「……あ」
男「違う……」
男「まだだ……」
男「……まだ、俺には……」
男「……そうだよ」
男「俺のことを必要としてくれる……あの子が……」
男「俺はっ!」
──……さんっ……さんっ
男「……ん?」
男「あっ……もしかして……」
男「……これは夢だったのか……?」
……………。
………。
ゆさゆさっ!
看護婦「男さん、男さんっ!」
男「……えっ?」
……ピピピピピッ!
男「電話……?」
看護婦「さっきから、男さんの携帯が鳴ってますよ?」
男「ええと、う、うん……」
看護婦「大丈夫ですか? 目覚めてますか?」
男「あ、うん。もう、大丈夫」
ピピピピピッ……。
看護婦「なら、そろそろ電話出てあげたほうがいいですよ」
看護婦「この時間です。きっと緊急の用のはずですから」
男「ありがとう……出るよ」
看護婦「はい」
男「もしもし……」
父親『男君かっ……!?』
男「は、はい……一体どうしたんですか?」
父親『今、君は母親の元に行ってるんだよなっ?』
男「そうですが……その」
男「多分、今週中には戻れると思います」
父親『……そ、そうなのか?』
男「……はい」
男「恥ずかしいことですけど」
男「一度回りきって……やっと大事なことに気づけたみたいです」
父親『そ、そうか……それは良かった』
男「で……あの、どうかしたんですか?」
男「はい?」
父親『……今の君に聞かせるのは、正直、心許ない……』
父親『だが、覚悟を決めてくれたのなら』
父親『今はもう、家族の一員である君に伝えるほかない』
男「……ええと」
父親『……実はだな』
父親『君がいなくなった後……妹が────────」
男「…………」
『男君……? 聞いてるのか、男君っ……!?』
看護婦「あ、あの……」
男「……ん?」
看護婦「その……ええと、携帯」
男「ああ」
看護婦「いいんですか? 床に落ちちゃって……」
看護婦「……その、相手先の方はまだ、お話が」
男「気にしなくていいよ」
看護婦「で、でも」
男「いいんだ。もう終わったからさ」
看護婦「……それなら、私は別にいいですけど」
男「それより、少し話を聞いてくれないか?」
男「雨だったんだ」
看護婦「え?」
男「もっと早くに気づくべきだったよ」
男「俺とした事が、やっぱり、ミスをしてた」
看護婦「そ、その……一体……」
男「彼女の俺を呼ぶ声が聞こえた」
男「つまりいえば、彼女の声は俺に届いてた」
男「雨だったけどね」
看護婦「…………」
男「俺の言葉は……その実、全部向こうに伝わってた」
看護婦「……あの」
男「やっちまったなぁ」
男「せっかく、思い出せたっていうのにさ」
男「本当に自分がやらなきゃいけないこと」
男「大切にしなければいけなかったこと」
男「それが全部、さっき、分かったはずだったんだ」
看護婦「…………」
男「でも、また、駄目だった」
男「失敗した。間に合わなかった」
男「また失った。無くした」
看護婦「……男さん?」
男「俺の生きる意味はもう……」
男「──ない」
看護婦「…………」
男「……はは、はは」
男「笑える。最高に笑えるよっ!」
男「なんて滑稽なんだっ!」
看護婦「これは……もしかして……」
男「く、くははっ」
男「くはは、ははははっ!」
男「ははははははははははははっ!」
看護婦「……だ、誰かっ!」
看護婦「誰か来てっ! こちらの方が──」
……………。
──全ての枷が取り除かれたように……
あたかも、風船のように空に飛んで行けるような、
そんな気持ち
──世界は歪んでいき、滲んでいき……
滲む? もしかして、俺は泣いてるのかな?
──でも、いいんだ
──だって、もう、終わりだから
──これで終わり
──何も出来ずにおしまい
──…………
──……なあ、親友
──また、俺たち二人が笑え合える日って、くるのかなぁ……
……………。
………。
親友『一緒になって、笑ってやろうぜ』
男『……お前』
親友『俺だけじゃない。俺の妹も……』
男『…………』
親友『癪だから、お前には絶対言いたくなかったけどさ』
男『……ん?』
親友『先に、好きになったのはお前じゃないから』
男『……は?』
親友『悔しいけど、その時から、アイツはお前に惚れてんだよ』
男『そ、そんな……』
親友『…………』
男『……嘘だろ……』
親友『……本気で言ってんのか?』
男『…………』
親友『妹と仲良しの『お兄ちゃん』が言ってるんだぞ?』
親友『いいか、どうせ、お前はさ……』
親友『別れるって分かってるなら──』
親友『アイツに会っても意味はないって、思ってるんだろ?』
男『…………』
親友『でも、忘れないでくよ』
親友『──『兄さん』のことが、大好きなんだから』
男『……っ』
親友『そう遠くない未来、戻ってこい』
親友『そして、想いをアイツにぶつけてやれ……』
男『……ああ』
男『……約束する……』
親友『よし、なら、もう俺から言う事はない』
親友『でも、早くしないと、他の誰かに奪われちまうかも知れんぞ?』
男『はは……よく言うよ』
親友『どうしてだ?』
男『お前なら、きっと覚えてるはずだ』
親友『……ん?』
親友『……あ』
男「頼むぜ、俺は信じてるからな?』
親友『……ふん……』
男『……言うぞ……』
男『……ふぅー……』
男『どうするんだよ、俺のいない間にアイツに寄ってくる男がいたら』
親友『…………』
親友『大丈夫。もし、そんなことがあったら』
男『どうする?』
親友『妹が必ず、俺に相談してくるはずだから』
──そいつをボッコボッコにしてやろうっ!
…………………。
……………。
………。
【──五年後──】
女「その、以前から貴社の評判を伺っておりまして」
女「このたびは、ええと……」
女「……え?」
女「本音を聞きたい?」
女「…………」
女「いや……はい、分かりました」
女「実は……」
女「前の会社で、嫌な上司にセクハラを受けまして」
女「それで、思わず……」
女「……はい」
女「……いや、申し立てようとも思いましたが」
女「その人にも家庭があるし、子供もいたんで」
女「その……なんていうか、躊躇われちゃって……」
女「……家族ですか?」
女「家族は……もう、いません」
女「……はい」
女「い、いえ……気になさらずに……」
女「…………」
女「敗者の定義……ですか?」
女「……それは、何か、採用に関係が?」
女「あ、はい。分かりました」
女「敗者って……」
女「つまり、やりたくもないことをやらされている人ですよね?」
女「その中には、辛くて、でも、必死に頑張って苦労してる人もいるのに」
女「どうしようなく、もがき苦しんで……」
女「…………」
女「だから、とっても可哀想な人だと思います」
女「……すみません、幼稚な考えで……」
女「え?」
女「そうですか……それは、ありがとうございます」
女「んー……これは少し、難しいですね」
女「……でもやっぱり」
女「こういう社会に生きている以上、犠牲は必要ですよね……」
女「みんなは幸せにはなれないから、誰かが苦労しないといけない」
女「……だから、可哀想だけれど」
女「私は、簡単に抜け出す方法はないと思います」
男「…………」
部下「あ、部長」
男「どうした?」
部下「もう帰られますか?」
男「ああそのつもりだが……どうかしたか?」
部下「その、出来上がった資料を見て頂きたくて」
男「……んー、そうだな」
男「実は、今日は急ぎの用があるんだ」
部下「あっ、そうなんですか?」
男「すまん……明日の朝一でもいいか?」
部下「そういうことでしたら、全然構わないです」
男「悪いな……また明日」
部下「はいっ、お疲れさまでした」
……………。
男性「そこの君っ!」
男「ん?」
男「……って、社長じゃないですか」
男性「珍しいな、帰りが一緒になるなんて」
男「定時に帰るなんて久しぶりですよ」
男性「はは、私もだ」
男「じゃあ、また家で会いましょう」
男性「……ん、どうだろう」
男性「運転手付きの車に一度乗ってみる気はないか?」
男「……それは、お誘いってことですね?」
男性「無論だ」
男「ならば、社長の誘いを断る部下はいませんよ」
男「もちろん、お供させて頂きます」
男性「ん、よく出来た返事だ」
男性「どうだ、最近の調子は」
男「おかげさまで順調です」
男「昇格した当初こそ、うまくいかないことも度々ありましたが」
男「今では、何とかやれているという実感があります」
男性「ふむ……それはいい兆候だ」
男性「社内でも君の評判はすこぶる良いし」
男性「今のところ、何の問題もないな」
男「ありがたい話ですね」
男性「……どうだ、あの話は考えてくれたか?」
男「……それは」
男性「君にとっては重圧かもしれないが」
男性「私は、それを成し遂げる才を君が持ち得ていると考えている」
男「……でも、いいんでしょうか」
男「…………」
男性「引け目を感じる必要などないのだよ」
男性「結果も残しているし、誰も不満には思わないだろう」
男「会社の人間はそうでしょう……でも」
男性「……やはり、死んだ息子のことか」
男「……はい」
男性「それは、私が口に出来る範疇のことではないな……」
男性「……息子と君だけの問題だ」
男「…………」
男性「もうしばらく、検討していてくれ」
男性「出来るだけ前向きにな」
男「すみません、お時間を取らせてしまい……」
男性「いいんだ。今でも、君は十分にやってくれているよ」
男性「……ん、話を変えよう」
男性「それで、君は何を買った?」
男「え?」
男性「ほら、分かるだろ?」
男「あー、はい」
男性「高価なものか? 今なら十分な給与もあるしな」
男「はは、全てお見通しですね」
男性「会社の社長は私なんだぞ?」
男性「部下がどれだけ稼いでいるかは、大体、把握しているよ」
男性「特に君の場合は浪費癖もないし」
男性「口座の残高は見るときは笑いが止まらないだろう」
男「そんなことはないですよ」
男性「またまた……で、何を買った?」
男性「社長の私にも言えないのか?」
男「ここからは、ただの息子と父の関係ですからね」
男性「それを言われると、強気に出れんな……」
男「まあ、後少しの辛抱です。すぐに分かる事ですよ」
男性「楽しみにしてるよ」
男「さて……そろそろ着きそうですね」
男性「ん、頭を切り替えんとな」
男「はい」
男「……ただ」
キキッ……。
男「……着きましたね」
男「どうぞ、父さん。お降りください」
男性「はは、ありがとう」
男性「……で、今、何を言いかけたんだ?」
男「……その」
男性「ん?」
男「……そろそろ一年経ちますね」
男性「……あ」
男性「そういうことか……」
男「…………」
男性「分かっている……余り、考えたくはないがな」
男「はい……」
男性「……よし、開けるぞ? 頭の切り替えはいいか?」
男性「ならば問題ない」
ガチャン……。
男「ただいまぁー」
?「……あ」
たったったったっ……。
妹「お兄ちゃん、おかえりっ!!」
パーンパーンっ!
妹「うわっ……」
男「誕生日おめでとうっ!」
妹「お、お兄ちゃん……ありがとうございます」
父親「おめでとう」
母親「ふふ、おめでと」
妹「お父さん、お母さんも、ありがとう……」
男「しかし、今日は豪勢な料理だね」
父親「七面鳥の丸焼きなんて、ほんと久しぶりに見たな」
母親「この子も手伝ってくれたんですよ」
妹「ちょっとだけですけどね」
父親「なんだ、誕生日の本人も料理に参加したのか」
母親「もちろん、私はしなくていいって言ったんですけど……」
男「何だ、まだ家族に遠慮してるのか?」
妹「……だって、その」
母親「いいじゃない。私は凄く助かったんだから、ね?」
男「まあ、そうだけど」
男性「よし、早速、ご飯にしよう」
男性「おいしそうな料理を温かいうちに食べないと罰が当たるからな」
女性「そうですね……でも、その前に」
男性「ん?」
男「父さん、もう忘れてるのか?」
男性「あ……ああっ、そうだった!」
男「しっかりしてくれよ? ほんと、歳なんじゃないのか?」
男性「やかましい……」
妹「ええと……」
男性「ん……妹、誕生日おめでとう」
妹「あ、はい」
男性「それで、家族の皆からプレゼントを渡したい」
妹「……えっ」
男性「私からはこれだ。色々、迷ったんだがな……」
妹「……あの、開けても?」
男性「もちろんだ」
ガサガサ……。
妹「……あっ……腕時計……」
男性「うむ。どうだ? 気に入ってくれたか?」
妹「は、はいっ……すごく、可愛いです……」
男「でも、歳の割には、ちょっと可愛すぎるかもな」
男性「……あっ……そ、そうか……」
男性「それならいいんだが……」
女性「じゃあ、私からはこれね……よいしょ……」
妹「お、大きいですね」
女性「うん」
ガサガサ……。
妹「最新型のフードプロセッサー!」
男「なんだよ、それ……」
父親「おい、自分のために買ったんじゃないだろうな……」
女性「違いますよ。この子、料理がとっても好きみたいだから」
妹「ありがとうございますっ! しかも、赤で可愛いっ!」
男「……思いの他、凄く喜んでるじゃん……」
父親「なんだ……そういうので良かったのか……」
男「……コホンコホン」
妹「……あ」
男「そろそろ、大トリの出番だな」
妹「お、お兄ちゃんも……?」
男「当たり前だろ。ほら」
妹「……ええと」
男「いいから開けてみろ。喜ぶかは保証出来ないけどな」
妹「う、うん」
ガサガサ……。
妹「……これ……もしかして……」
男「…………」
妹「…………」
女性「……指輪ね」
男性「あ、ああ……」
男「ど、どうだ? もしかして……気に入らなかった?」
妹「……ううん」
妹「わたし……凄く、嬉しいですよ……」
妹「うん……本当に……」
妹「…………」
妹「ありがとう……お兄ちゃんっ」
男「さて、今日も一日、必死に汗をかかなければならないわけだが」
男「業務連絡の前に、皆に伝えておくことがある」
男「……よし、こっちに来てくれ」
?「……は、はい……」
男「本日づけで、われわれの部署に新しいメンバーが加わる」
男「主な業務は私専属の秘書みたいなものだが」
男「君らが忙しく困ったときにも、雑務などを手助けてしてくれるはずだ」
男「では、紹介しよう」
男「……新しい仲間、女さんだ。みんな拍手」
パチパチパチ……。
女「これから、よろしくお願いしますっ!」
男「これが、今週中の私の予定表だ」
女「は、はい」
男「それと、今後のスケジュール管理は君に一存する」
男「何か問題や重複があった際には、その都度、私に聞いてくれればいい」
女「分かりました」
男「初めのうちは不慣れなことが多いはずだ」
男「だから、少しでも疑問が生まれたときには、すぐに私に聞くように」
女「了解です」
男「今の段階で、分からない事は?」
女「特に……ないですね」
男「よし、あとアポ無しの面談希望は基本断っていいからな」
女「あ、はい」
男「最近、本当に多いんだよ」
男「こちらからすれば迷惑この上ないのでな」
女「そうですね……」
男「あまりにもしつこい場合は、そのときに言ってくれ」
男「私の方で対処しておくから」
女「はい」
男「ん、まあ、こんなところかな?」
男「あとはもう、やってみない限りは分からないだろう」
男「私に聞きたいことはあるか?」
女「その……」
男「ん?」
女「す、凄いですね」
男「何がだ?」
女「私と面接のときから、お会いしていたじゃないですか」
女「その時には、年齢も少し上ぐらいに見えましたし」
女「だから、ただの人事部の方だと思っていまして」
女「……まさか、部長さんだとは」
男「まぁ実際、かなり若いからな」
女「……その若さで部長ってことは、相当、やり手なんですね」
男「はは、違うよ。大きな声では言えないが……」
女「は、はい」
女「……え?」
男「具体的には、父がこの社の社長ってこと」
女「そ、そうなんですか?」
男「だからはっきり言うと、ただのボンボンってやつだな」
女「……は、はぁ」
男「不甲斐ないところが多少見受けられるかもしれないが」
男「その時は、そういうことなんだなって、受け流してくれよ?」
女「わ、分かりました」
男「ん、なら、雑談は終わりだ。仕事を始めようか」
女「はいっ」
男「さて、月に一度の病院での検査だ」
妹「はぁ……」
男「気乗りしないか?」
妹「……そうですね」
男「いつも言っているが、やはり万全を期さないとな」
男「それは、お前も分かってるはずだろ?」
妹「はい……」
男「ん、ならいい」
妹「……お兄ちゃんは嫌になりませんか?」
男「嫌になる?」
妹「わたしは、この日が来る度に……」
妹「自分が未だ病気のままなんだって、再確認させられます」
男「…………」
妹「だけど、やっぱり、今のわたしは本来の自分じゃなくて」
妹「……何年ぐらいになるんですか?」
男「ん?」
妹「わたしが昔の記憶を失ってから……合わせてどれくらいに?」
男「……約六年だ」
妹「六年……もですか」
男「…………」
妹「そんな長い事、思い出せなかった」
妹「何度繰り返しても、また、同じことの繰り返し」
妹「同じ場所を行ったり来たり……ただそれを永遠と」
男「違う。少しずつだけど、前進してる」
妹「そう思いますか?」
男「ああ」
妹「以前と確かに状況は違うみたいですけど」
妹「急激な変化があったわけでもないですし……それこそ」
男「考えすぎても駄目だぞ?」
妹「でも……」
男「ほら、俺があげた指輪」
妹「え?」
男「形にしたプレゼントを送ったのは初めてだ」
妹「…………」
男「そうやって、些細な変化が積み重ねって」
妹「……そう願ってます」
男「ん……」
妹「…………」
妹「最後に一つだけ」
男「……何だ?」
妹「わたしが今感じてる感情は……」
妹「……昔のわたしも抱いていたんでしょうか……?」
男「…………」
男「……すまん」
男「……俺には分からない……」
男「…………」
男「……なぁ、親友」
男「お前に語りかけるのは、久しぶりだな」
男「とっくの昔にお前は死んじまってるっていうのに」
男「形見のカメラに向かって、こうやって語りかけている」
男「未練がましいというより……」
男「正直、端から見ると異常だな」
男「……でも、少しだけ」
男「自分でも分からなくなったんだ……」
男「俺の前回の選択は、明らかに間違いだったのかもしれない」
男「仕方ないと言えば、それで話は終わりなんだが……」
男「妹がどんなに苦しくても、辛くても、悲しくても」
男「俺は、あの子の代わりをしてやることが出来ない……」
男「想像は出来ても、実際、どんなことを考えているのかは分からない……」
男「昔の、無駄に悩む癖に、決断はできなかった自分はとうに捨てたよ」
男「これが正しいと、例え、誤りでも前に進もうって」
男「この5年間、そう常に言い聞かせてきた」
男「けれど……」
男「……俺だけが苦しむだけなら、幾らでも構わないんだ」
男「けど、アイツが……」
男「…………」
男「……やめた」
男「こんなことやっていても、どうにもならない」
男「親友は……もう、死んだんだ」
男「この世界に、心を委ねられる友は……」
男「一人もいない」
男「……ふー」
コンコン……。
女「入ってもよろしいですか?」
男「ああ」
……ガチャ。
女「お茶を持ってきました」
男「気が利くね。ありがとう」
女「実はお茶とコーヒーで迷ったんです」
女「もしかして、後者の方が良かったですか?」
男「あー……うん、今度はそうして貰った方が嬉しいかな」
女「分かりました。お砂糖はいくつで?」
男「いらない。ブラックでいい」
女「了解です」
女「おかげさまで、一通りのことは何とか」
女「同僚の方もみなさん良い人たちばかりで、感謝してます」
男「そうか、それは良かった」
女「お仕事、大変そうですね」
男「ん……まあな」
女「今日、お昼休み取ってませんよね? 部屋から出てきませんでしたし」
男「ちょっと仕事の進行が遅れててな」
男「今後に支障をきたすから、早めにこなしておかないと」
女「そうですか? 部長は仕事が早いと、もっぱら噂ですよ?」
男「はは、これまた誰が持ち上げてくれたんだ?」
女「みんなです」
女「上が出来ると俺たち部下は大変だって」
男「そんなことも言ってるのか」
女「だから、聞かなかったことにして下さいね?」
男「ふむ……内緒の話なら仕方ない」
女「ふふっ」
男「……そうだ、少し時間をもらってもいいか」
女「何でしょうか? 仕事の話?」
男「いや、ものすごく私事の話」
女「私事……」
男「少し女性の意見が聞きたくてな」
男「もしもだぞ、本当に仮の話なんだが……」
女「はい」
男「理由は分からないが、落ち込んでいる女性がいる」
女「……へ?」
女「何かと思えば……ふふ、そうですねぇ……」
男「あくまでも、仮の話だからなっ」
女「その女性は部長とどんな関係なんですか?」
男「……まぁ、近しい関係であることは確かだ」
女「なら、何でもいいと思います」
男「おいおい、適当に流さないでくれ」
女「いや、本気で言ってますよ」
女「部長自身が励ましてやりたいって、元気にしてあげたいって」
女「そう思ってした行動なら、きっと」
女「彼女さんは、分かってくれるはずですから」
男「……そうなのか?」
女「女っていうのは、意外と単純なんですよ?」
女「男性の方の多くは、余り分かっていないようですけど」
男「…………」
女「それは、異性同性問わず一緒のことだと思いますよ」
男「……そうか」
女「少しでも参考になりましたか?」
男「ああ、胸の中の靄が消えたようだ」
女「それは良かったです。じゃあ、これで」
男「ん、ありがとう」
女「はい。では失礼します」
男「……あ、そうだ」
女「何ですか?」
男「『彼女さん』じゃないからな」
女「……ふふっ」
男「…………」
男「……よし」
コンコン……。
妹「はーい」
男「俺だけど、入ってもいいか?」
妹「お、お兄ちゃん? 何の用ですか?」
男「ちょっと二人で話をしたいなって思ってな」
妹「え、ええと……」
男「それとも今日はやめた方がいいか?」
妹「でも、ちょっとだけ待ってて下さいねっ!」
男「それはいいけど……」
妹「すぐに終わりますからっ!」
ガサゴソッ!ガタンッ!バタンッ!
男「…………」
……………。
妹「はぁ……はぁ……」
妹「もう入ってもいいですよ……」
男「う、うん」
妹「どうかしました……?」
男「凄くげっそりしてるけど、大丈夫か?」
妹「……色々、片付けたいものもありましたし」
妹「この際、良い機会でした」
男「そ、そうか……」
妹「はい。そこのベット座っていいですよ」
男「ありがとう」
妹「……で、話って何ですか?」
男「いや、特に決まった話題があるわけじゃないんだが」
男「少しお前と雑談でもしたいなぁって思ってさ」
男「二人だけじゃなかっただろ?」
妹「あ……はい」
男「どうだ、身体の調子は?」
妹「いたって健康です。お兄ちゃんも仕事の方はどうですか?」
男「順調……って、わけにはいかないなぁ」
妹「もしかしていじめられてたり……?」
男「はは、そんな学生時代じゃあるまいし」
男「ただここ最近は、仕事の量がいつになく多くてな」
妹「……大変そうですね」
男「楽しくはあるよ。充実してるっていう実感もある」
妹「流石、お兄ちゃんです」
男「ん、どうした?」
妹「お兄ちゃんに、わたしからも話がありました」
男「というと?」
妹「実は今日、久しぶりに服でも買いたいなって思って」
妹「日中、買い物をしに外に出てたんですけど」
男「ほう、いいじゃないか」
妹「それで、気に入った服が一つ見つかって」
妹「お店の方に『試着をなさいますか?』って聞かれたんです」
男「ああ」
妹「……その、この前の誕生日にお兄ちゃんから指輪貰いましたよね」
妹「だから、わたし、最近、いつも指輪をはめているんですけど」
妹「その時に、店員さんがわたしの指輪を見つけて……」
妹「『とても綺麗な指輪ですね。お似合いですよ』って」
妹「とっても、嬉しかったです」
妹「なんかここ最近、一番、幸せだった気がします」
男「そんなに喜んでもらえるとは、贈った俺も嬉しいよ」
妹「……お兄ちゃんは」
男「ん?」
妹「多分、わたしを励ましにきてくれたんですよね?」
男「……え?」
妹「大丈夫ですよ。わたしは、落ち込んだりしてませんから」
妹「今も毎日が、幸せですから」
男「お前……」
妹「『些細な変化が積み重なって』」
妹「『いつの日か、きっと前に進める日が来るはず』」
男「……そうなのか?」
妹「…………」
男「本当に、全く心配がないって言い切れるんだな?」
妹「……それは」
男「お前を見てるとさ、いつも頑張りすぎているような気がするんだ」
男「弱音を吐かずに、他人を心配させまいと必死になって」
男「端からは、何の問題もなく過ごしているようだけど」
男「でも……そんなわけ、ないじゃないか」
妹「……っ」
男「他の家族に言えない事でも」
男「俺は、お前の全てを受け入れてやりたい」
男「…………」
男「……そうだな」
妹「お兄ちゃん……?」
男「『悲しい時は、一緒に悲しんでやる』」
男「『泣きたい時は、一緒に泣いてやる』」
男「だから」
妹「……うん」
男「俺の前では隠さなくてもいいんだ。我慢しなくていいんだ」
男「……言うだけでも、少しは楽になるぞ?」
妹「……う……」
妹「…………」
妹「……あ、あのね……」
男「ああ」
妹「……本当は……怖い……」
妹「時には、気が狂っちゃうぐらい、恐ろしい」
男「……やはり……か」
妹「その中でも、寝る時が一番怖いかな?」
妹「朝起きて、もしもまた記憶を失ってたら……」
妹「そう考えたら、夜も眠れない……」
男「…………」
妹「ねぇ、お兄ちゃん……」
男「……ん?」
妹「もしも、明日」
妹「或いは、これから先」
妹「……記憶を失ったら、今のわたしはどうなるんですか?」
男「…………」
妹「死んじゃうの? 消えちゃうの?」
妹「怖いよ……本当に怖い……」
妹「今の自分がなくなっちゃうって……嫌だよ……」
妹「せっかく、指輪も貰ったのに……」
妹「こんなに毎日が楽しくて幸せなのに……」
妹「そうやって抱いた記憶も、感情も……」
妹「想いも……」
妹「全部、なくなっちゃうの……?」
男「……っ」
ぎゅっ……。
妹「お兄ちゃん……」
妹「明日が怖いよぉ……」
男「分かってるっ」
男「俺が側にいるからっ、守るからっ」
男「だから、だからっ!」
妹「……うん」
妹「……ありがとう、お兄ちゃん」
妹「…………」
妹「でも……」
妹「何となく、分かってる」
妹「……今回は、長く持った方だよね……」
男「……え……」
妹「わたしは……」
妹「もう……」
男「ああ……」
妹「…………」
男「……妹……?」
妹「……え?」
ぎゅっ!
妹「あの……」
男「いいんだ……」
男「……何も言わなくていいんだ……」
妹「……えっと……」
妹「すみません……」
妹「こんなこと、失礼かもしれませんが……」
妹「──あなた、誰ですか……?」
男「…………」
男「…………」
男「考えろ、考えろ考えろっ」
男「次の方法だ……次の……」
男「……っ」
男「くそっ!」
……ガンっ!
男「どうしてうまくいかないっ!」
男「何が悪かった? 何をミスしたっていうんだっ!」
男「……くそ、くそ……」
男「…………」
男「……ふぅー……」
男「落ち着け……落ち着くんだ……」
男「今度こそは失敗しないぞ……」
男「…………」
ガチャ……。
男「……ん」
男性「……大丈夫か?」
男「俺のことはいいです……彼女は?」
男性「今、先生が検査しているところだ」
男性「まあ、毎度のこと、同じ結果だろうがな」
男「…………」
男性「……しかし、何度経験しても辛いものだな」
男性「ああやって、急に初対面の対応をされると……」
男性「……胸を締め付けられるものがあるよ」
男「……七回目」
男性「ん?」
男性「…………」
男「初めてを入れれば、八回……」
男「……何も前に進む事が出来ていない」
男性「だが、今回はいつもより長かっただろ?」
男性「全く進んでいないとは、言い切れないんじゃないか」
男「そんなのたかが数ヶ月の違いですよ……」
男「しかも今回の場合、彼女を相当苦しませてしまった……」
男「……にもかかわらず、この結果です」
男性「……そんなに自分を責めるな」
男性「君がいたからこそ……あの子も約一年過ごせたんだ」
男「…………」
男「……あ……」
男性「どうした?」
男「…………」
男性「……何か、問題があったか?」
男「違います……もしかしたら」
男性「なんだ?」
男「……今までをもう一度、整理してみましょう」
男性「あ、ああ」
男「……彼女が二回目に記憶を失った時」
男「あれは俺のせいですが……妹は兄の死を知ってしまった」
男「そして、記憶を失った」
男性「そうだったな」
男「三回目から七回目までは、余り、変化もなく……」
男「一年も経たない程度で、まあ、長さに若干の違いはありましたが」
男「これまた、記憶を失いましたね」
男性「…………」
男「彼女が約一年周期で、記憶を失っていることを本人に伝えました」
男「あえてその事実を隠さずに、アイツに認識してもらったわけです」
男「そのせいで、妹は日々を悩み続けることになったわけですが……」
男性「その代わり、猶予が伸びた」
男「でも、結果は同じ」
男「俺にとっては、余り大差はないです」
男性「…………」
男「だから、今度」
男「次は今までと全く変わった手段を取りましょう」
男「それが『急激な変化』になる……」
男性「……どうする?」
男「俺は家を出ます」
男「兄を偽るという前提……」
男「それを一旦、やめてみませんか?」
男「兄という存在を、今回は、無かった事にするんです」
男性「しかし、君は一度、会っているんだろう?」
男「その辺りは、うまく誤摩化してもらうことにして……」
男「今後はしばらく病院で生活してもらうようにしましょう」
男「その間に親友の荷物は一旦、違う場所に移して」
男「兄の存在がない家にしてから、彼女に普段の生活を送らせるんです」
男「ん……そうすれば、うまくいく」
男性「…………」
男「どうかしました?」
男性「……本当に意味があるのか?」
男「今は、分かりません……もしかしたら、悪い方向に進むかもしれない」
男性「なら……」
男「いつまで経っても、同じことの繰り返しです」
男「永遠に、彼女は元の記憶を取り戻さない」
男性「……それは」
男「はい?」
男性「それは、そこまで必要なことなのだろうか……?」
男「……どういうことです?」
男性「確かに、昔の思い出も全て思い出せば」
男性「私としても嬉しい事だ……だが」
男性「結局、あの子は現実で兄の死を受け止められず」
男性「自殺未遂を謀ったんだぞ……?」
男「…………」
男性「もし仮に、今後、記憶が戻るとして……」
男性「けれど、その時には……」
男性「あの子が自殺してしまう可能性が生まれてしまう」
男「……しかし」
男性「君の気持ちは理解しているつもりだ」
男性「だが、最近、私は思う……」
男性「一年毎に娘が記憶を失ってしまったとしても」
男性「別段、何の問題もないのじゃないか、と」
男「……それを彼女本人に言えますか?」
男「一年しか……いや、一年も生きられない、あの子に?」
男性「……もちろん、言えんよ」
男性「だが、生きていることに変わりはないだろう?」
男「…………」
男性「幾ら記憶を失おうとも、親の子に対する愛は消えたりしない」
男性「それにな……最早、私は、あの子より君の方が心配だ」
男「……はい?」
男性「勝手な私の見解だが、君は人生をあの子にために犠牲にしている」
男「……何を言うかと思ったら」
男性「…………」
男「『犠牲』?」
男「俺が、あいつの為に人生を無駄にしてる?」
男「そんなことありませんよ」
男「……というより、逆です」
男性「……逆?」
男「アイツがいてくれているからこそ、今の俺がいる」
男「生き恥晒しながら、生きていられるんです」
男「……もしも、妹が今後、死んだりなんかしたら」
男「そのときこそ、俺の死ぬときですね」
男性「……今までも、薄々感じていたが」
男「……かもしれません」
男「けど、今の俺にはアイツしかいないんです」
男「父も、母も、親友も失った今」
男「アイツだけが、俺をこの世界に繋ぎ止めてくれる」
男「大切な人たちを無意味に奪っていった、汚いこの世界からね」
男性「…………」
男「俺は諦めません」
男「仮に誰もが匙を投げたとしても、俺だけは決して」
男「──諦めない」
男「…………」
男「……仕事が全く進まないな……」
男「あれからまだ一週間も経たないというのに、この調子か……」
男「アイツに会えないっていうのは……」
男「想像していた以上に辛い……」
男「……でも」
男「今度は、うまくいくような気がする」
男「今までとは違う、全く新しい試みだ」
男「……きっと、アイツも昔のように……」
男「根拠はないのに、そう信じてしまいそうだな……」
男「…………」
……………。
女「部長、失礼します」
男「……ああ」
……ガチャ。
女「コーヒーをお持ち……って、どうかしたんですか?」
男「……ん?」
女「その……」
男「……何だ?」
女「凄く辛そうな表情をしてましたよ……?」
男「……はは……そう見えたか?」
女「は、はい……」
男「……少しな、プライベードで色々あって」
女「もしかして……こないだ言っていた『彼女さん』のこと?」
女「うまくいきませんでしたか?」
男「……って……」
女「……妹?」
女「部長に妹がいたんですか?」
男「……話すつもりはなかったんだがな」
男「思わず、口走ってしまったみたいだ……」
男「……ほんと駄目だな……」
女「その……差し支えなければいいんですけど」
女「……少しお話を聞かせて貰えませんか?」
男「……それは」
女「私、思うんです」
女「時には、他人に話すってだけで」
女「気持ちが多少和らぐことが……誰にでもあるって」
男「……確かにそうだ」
女「……はい」
男「……実のところ」
男「私には……いや、俺には妹がいるんだ」
女「そうだったんですか」
男「ああ……で、こないだ話した、落ち込んでいる子っていうのが」
女「妹さんだったんですね……」
男「その通り」
女「どうやって、励まそうと?」
男「話を聞いてやって、悩みを受け止めて」
男「それで一緒にそれを背負ってやる……的なことを言った」
女「……私は、凄くいいと思いますよ」
男「でも、結果は駄目だったんだよ」
男「時には遠ざけたり、辛く当たってみることにもした」
女「……ええと」
男「でも、そんな些細な変化じゃ何も生まれなくて」
男「逆に、悪化させてしまうこともあった」
女「…………」
男「だから、今回こそはうまくいくって思ってたんだけどな」
男「アイツには辛い思いをさせちゃったけど、仕方なかった」
男「最早……手段がなかったんだ」
女「……はい」
男「でも、結末は変わらない」
男「何度やっても、同じ事の繰り返し」
男「……けど、今度こそは……もしかしたら、ってね」
男「思わずにはいられないんだ」
男「ん?」
女「途中から少し分からなくなってしまって……」
男「ああ、ごめん……後半、独り言のようになっちゃったな」
男「余り気にしないでくれ……今日の俺はどうかしてるから」
女「……でも、何となく分かりました」
女「部長は、その妹さんのことを凄く大切に感じていて」
女「掛け替えのない家族の一人だと思っているんですね」
男「……家族、か」
女「私にも、昔、一人の弟がいました」
男「弟?」
女「すっごく、やんちゃな子だったんですよ」
女「いつも帰ってくると、服を泥だらけにして」
女「そのまま廊下に上がるもんだから、よく母に怒られていました」
男「……そうか」
女「時には腹が立つこともされましたけど、今となってはいい思い出です」
女「怒られたときに、しゅんとする表情なんて」
女「とても愛らしくて……今でも懐かしくて……」
男「……君の家族は」
女「はい、死にました」
男「そうだった……面接の時にもそう言っていたな」
女「みんなで県境の山にキャンプに行く予定だったんです」
女「弟なんか、絶えず車内で、はしゃいでいて」
女「私は平常を装ってましたけど、内心は凄くわくわくしていました」
女「大好きな両親と愛らしい弟と」
女「テントを張って、近くの川で魚釣りをして」
女「夜はバーベキューでおいしいものを食べて、みんなで仲良く寝る」
女「そんな光景が、容易に想像できたから……」
男「…………」
女「居眠り運転をしていた対向車線の車がはみ出してきて……」
女「……一瞬でした」
女「大きな衝撃が一回……その後の記憶はありません」
女「気がついたときには、病院のベットで管という管に繋がれて」
女「……みんな、死んじゃったんです」
女「私だけを残して……そう、みんな……」
男「……ああ」
女「それから数年程、生きる気力が湧かない時期が続いて」
女「何度も、自分で命を断とうとも考えたんですけど」
女「その時に限って、弟の笑顔が浮かぶんです」
女「私より小さかった、あの子の笑い顔が頭から離れなくて……」
女「……それで思いました」
女「弟の分も生きよう。強く生きようって」
男「…………」
男「いや、いいんだ」
女「……余り他人に話したくない内容だったんだけどなぁ」
女「部長って、よく聞き上手って言われますか?」
男「はは、生憎、君が初めてだよ」
女「ならなんだろ……でも、部長と私って」
男「ん?」
女「もしかして、凄く似たもの同士なんじゃないですか?」
男「…………」
女「初めて会ったときから」
女「この人は……私と似てるな……って思ったんです」
男「……それはさ」
女「はい」
男「当たり前の話なのかもしれない」
女「……え?」
男「だからこそ、秘書に採用したわけだしね」
女「……でも、それって」
男「実のところさ……俺もな」
男「両親がいないんだよ……」
女「え?」
男「だから、共感できるのかもしれない」
男「二人とも家族を失っているから、かな?」
女「……えっと」
男「ん?」
女「でも、部長」
男「何だ?」
女「この会社の社長が……あなたの父親でしょ?」
男「…………」
男「……ぷ」
女「え?」
男「はははっ」
女「そ、その……」
男「駄目だなっ、今日の俺は本当にうっかりしてるよ」
女「……ええと、はい……」
男「この際だ。君に打ち明ける」
女「?」
男「社長と俺は血が繋がってない」
男「数年前に、養子縁組をしただけなんだ」
女「……妹さんが記憶喪失?」
男「誰にも言うなよ? バレると色々厄介なんだ」
女「それは分かってますが、何でですか?」
男「恐らくだが……」
男「兄の死に自責を感じて、現実から逃避しているんだと思う」
女「……あー、はい……」
男「その内容について詳しくは俺も聞いていない」
男「今更、彼女の両親に聞くのは躊躇うよ」
男「なんだか、辛い過去を抉っているように思えるし」
女「…………」
男「どうかしたか?」
女「……いや、気にしないで下さい」
男「それで、俺は親友の代わりをすることにした」
男「……そこからは話した通りだ」
男「昔はそう思ってたけどな……」
男「今は、アイツのためにやれることがあるだけ」
男「何もないより、随分気楽だと思えるようになった」
女「……そうですか」
男「俺にはもう何もないからさ」
男「大切な人はアイツを残してこの世にはいない」
男「でも、彼女がいるだけ、俺はマシなんだ」
女「……その」
男「どうした?」
女「部長の父親が亡くなって、お母さんが病に倒れて」
女「その間、部長は何をしていたんですか?」
男「……お袋が入院したのは、田舎に戻ってすぐだから」
男「同級生が高校に通い始めたぐらいから、ずっと働いていた」
男「ああ……初めのうちは大変だったよ」
女「……じゃあ、部長」
男「うん」
女「その時からずっとですか?」
男「何がだ?」
女「……誰かのために生きていることです」
男「それは……」
女「この長い人生の中で……」
女「部長が自分のためだけに、何も考えずに過ごしていた時期って」
女「中学までの、そのたった短い間だけだったんですか?」
男「…………」
女「それって……」
男「異常か?」
女「……はい」
男「『……君は少し異常だな……』ってね」
女「…………」
男「でも、俺には分からない」
男「それが当たり前だったし、今まで疑問を感じた事すらない」
男「自分のためだけに日々を過ごすっていうのは、俺の価値観にそぐわない」
女「……普通の人はみんな自分のために生きてますよ?」
男「そうなのか?」
女「え、ええと……」
女「それで……今、妹さんは?」
男「今度は、一旦、距離を置く事にした」
男「死んだ兄を偽っても無理ならば、存在自体なかった事にすればいい」
男「今回はそれでやってみる」
女「……その、一つ気になることがあるんですが」
男「何だ?」
男「……ん?」
女「妹さんは一年ぐらいの周期で記憶を失うんですよね」
男「そうだ」
女「今回の方法で、仮に妹さんがそうならなかったとします」
女「でも、前の記憶を取り戻さないままだったら……」
女「……部長、あなたは彼女と今後、会えませんよ?」
男「それが、何か問題か?」
女「…………」
女「……問題ですよ」
男「どうして?」
男「俺の中で、最優先なのは妹が過去を思い出す事」
男「けれど、それが叶わなくても」
男「記憶の存続が一年周期っていう縛りさえなくなれば」
男「かつてのアイツは戻らないが、彼女は第二の人生を始めることが出来る」
女「……部長が妹さんに会えなくても?」
男「そうだ」
女「…………」
女「……やっと分かってきました」
男「ん?」
女「常に誰かのために生きてきて」
女「他のことを考える暇もなく過ごしてきた、あなたは……」
女「自己犠牲なくしては、生きられない人間になっているんです」
男「……自己犠牲って……そんな大層もんじゃ……」
女「なら、妹さんが今後、亡くなったら?」
女「もしかして、その時は一緒に死のうなんて思ってませんか?」
男「……それは」
女「自分の生きる意味すら見失ってしまう」
男「………」
女「今日、私と部長は似たもの同士だと言いましたが」
女「……全く内面は違いますね」
男「……そうか」
女「こんなこと言うのは、大変失礼ですが……」
女「記憶を失い続けている妹さんのためにも言わせて下さい」
男「……アイツのため?」
女「中身が空っぽというか……空虚なんです」
女「だから──」
女「そんな部長は、彼女の近くにいてはいけない人間ですよ」
女「だって……そこまでして妹さんは救ってもらいたくないから」
女「自分を犠牲にしてまで助けて欲しい……なんて」
女「彼女は少しも望んでないはずですよ?」
女「妹さんを救うとか、救えないとか、その前に……」
女「……部長には今一番にやるべきことがあるんです」
女「自分の望みは何なのか」
男「…………」
女「それを確認しなければいけません」
女「……それも、無理なら……」
女「…………」
女「……きついことを言いますが……」
女「部長は妹さんの元を去った方がいいです」
女「そうすれば、きっと、誰も傷つきませんから……」
男「…………」
男「……痛いな」
男「……胸の奥が……痛い……」
男「俺は……」
男「間違っていたのだろうか……?」
男「……女の言う通り……」
男「誰かのために生きて、耐えて……」
男「……それは、独り善がりな生き方だったのか」
男「…………」
男「確かに……思うところはある」
男「……田舎にいる母さんの元を離れた」
男「そのとき、病院にいた母さん、俺を見て……なんて言ったっけ」
男「……そうだ」
男「『うん。なら、昔の親友を頼りにしなさい』」
男「嬉しそうに、笑って、そう言ってくれた」
男「俺が……母さんだけのためじゃなくて」
男「自分自身のために生きようとしてくれるのを信じて」
男「そんな息子の前向きな姿を……きっと喜んでくれたんだ」
男「……でも、俺は……それも嘘で」
男「ただ単に、手術費用の金が欲しいだけだった」
男「結局、母さんの死に際にも立ち会えなくて」
男「冷たくなった後の母さんを……ただ見つめることしか出来なかった」
男「……ああ」
男「ごめんな……母さん……」
男「これから……」
男「……俺は何をしたい?」
男「……何を望んでいる?」
男「…………」
男「……分からないよ」
男「もう、分からない……」
男「……何一つ、俺にはないから」
男「自分のために、生きる術を俺は知らない……」
男「…………」
男性「よく来てくれたな」
男「……はい」
男性「どうだ、元気にやってるか?」
男「そうですね……妹と会えないのは、少し寂しいですが」
男性「……ああ」
男「今日はまた、一体、何の用で?」
男性「そのだな……」
男「はい」
男性「会社の件だ」
男「…………」
男性「あれから時間が経ったと思うが、前向きに検討してくれたか?」
男「……それは」
男性「こんなことになってはいるが、私の思いは変わらない」
男性「君になら任せられる。そう、信じている」
男「…………」
男性「だが、既に君は私と養子縁組を結んでいることだし」
男性「他ならぬ、私の息子と言っても間違いではない」
男「……それは、もしものことを考えた保険という話だったですよね?」
男性「もちろん、初めはそのつもりだったよ」
男性「ただ、君の仕事ぶりを聞かせて貰っているうちに」
男性「或いは、我が家で家族皆で笑い合って……」
男性「食事を共にしている君を見ているうちに」
男性「そして……娘と本当の兄のように会話している姿を眺めて……」
男性「……そうしているうちにな、いつの間にか」
男性「君を、家族の一員のように思うようになった」
男「…………」
男性「いなくてはならない家族の一人だと」
男性「私の本当の息子なのだと」
男性「……思えてしまってならないのだ」
男性「そう、ただの勘違いだ」
男性「けれど、今となっては……」
男性「……こういう言い方はしたくないが」
男性「死んでしまった息子より、今を共にしている君の方が大切なんだ」
男「……社長……」
男性「君に、私が生涯を尽くして築き上げた会社を託したい」
男性「私の今までの人生の生き写しのような会社を……君に引き継がせたい」
男性「……その気持ちを、分かってくれないか?」
男「…………」
男性「まだ時間はある。けれど、有限ではない」
男性「私もそろそろ引退を考える歳に近づいている」
男性「そう遠くない未来……辞めざるをえないんだ」
男「……はい」
男性「その時になって、突然、君に任せるわけにはいかない」
男性「そうしなければ……下からの反発は相当なものだと思う」
男性「何か私は間違っているか?」
男「いえ……その通りです……」
男性「だから、早い段階で頼む」
男性「手遅れにならないうちに、君の返答を望むよ」
男「…………」
男性「……妹の話をしよう」
男性「あと数日で、あの子は家に戻る」
男性「君の言った通りの、兄の存在が全くない、我が家に」
男「……はい」
男性「どう転ぶかは私には分からない」
男性「……ただ一つ、これは君にとって、いい知らせかもしれないな」
男「いい知らせ?」
男性「指輪だよ」
男「……え?」
男性「なぜか分からないが、病院にいる間のあの子はずっと」
男性「それを片時も外さずに、時には、愛おしそうに撫でていたそうだ」
男「……あ、ああ……」
男性「もしかしたら、完全に記憶を失っている訳でもないのかもしれない」
男性「医者が言うには、本人にも分からない深層心理で」
男性「その指輪が、自分にとって大切なものだと」
男性「無意識のうちに理解しているのだそうだ」
男「…………」
男性「本当にいいのか?」
男「……何がです?」
男性「このままで。あの子と会わないままで」
男「…………」
男「……それしか、方法がないのなら」
男性「……男君……?」
男「それに、もしかしたら、俺は……」
男性「…………」
男「そうだ……社長は、敗者が抜け出す方法をご存知ですか?」
男性「……敗者?」
男「弱肉強食の社会で、いつも犠牲となっている人たちのことです」
男「彼らが、その場から抜け出す方法って、何だと思います?」
男性「…………」
男性「……そうだな」
男性「私は今まで、そうならないようにと努力してきたつもりだ」
男性「だから、抜け出せないとは言わないが……」
男性「……一度なってしまったものは」
男性「そう覆すことは難しいんじゃないだろうか?」
男「……そうですか」
男「いや……昔、そんな話を親友としたことがありましたね」
男性「……息子と?」
男「彼が言うには、簡単な方法があるんだそうです」
男「でも俺……そんな大事なことを忘れちゃって……」
男性「君が気にすることじゃない。敗者じゃないだろう?」
男「……俺は」
男性「君は地位も金も手にしている。それこそ、望めばその頂点までも、だ」
男「……はい」
男性「少し疲れているようだな……大丈夫か?」
男「…………」
男「……俺を、本当の息子だと思って下さっているのなら……」
男「……一つだけ不躾な質問をさせて下さい」
男性「ああ、構わない」
男「…………」
男性「ん?」
男「アイツは何で死んだんですか?」
男性「…………」
男「妹が、記憶を失った訳って、何なんですか?」
男性「……それは」
男「ずっと聞くまいとしてきましたが、それでも今日は……」
男性「……車の事故だ」
男「車?」
男性「息子が、大学にいる妹を迎えに行ったんだ」
男性「けれど、いつまでたっても、彼女の元にアイツは現れなかった」
男「…………」
男性「途中の道で、トラックとぶつかった」
男性「どうだ? 意外と、事実はあっけないものだろう?」
女「……失礼します」
男「ん?」
女「こちらの書類にサインをお願いできますか?」
男「分かった。そこに置いといてくれ」
女「その……すみません。今すぐに欲しいそうで……」
男「分かった、少し時間をくれ。今から読む」
女「ありがとうございます」
……………。
女「お手数おかけして、すみません」
男「気にするな。他人から頼まれた雑務のようだし、な?」
女「え、ええと……」
男「私がサインをしたんだ。何の書類であるかは理解している」
女「あ、はい……一人、現在進行中で修羅場の方がいて」
男「アイツは要領悪いからなぁ。手間をかけてすまない」
女「いえ、私も時間がありましたし」
男「そうか? はは、なら君の仕事を増やした方がいいのかもしれん」
女「……へ?」
男「冗談だ。そんな、悲しそうな顔するなよ」
女「あ、えっと……冗談?」
男「そうだ」
女「でも……部長」
男「ん?」
男「怒ってる? 一体、何の話だ?」
女「その……私がこないだ飲み屋で失礼なこと言ったから……」
男「ああ、そのことか」
女「は、はい」
男「気にしてないよ。いや……それは違うか」
女「えっと、どっちなんですか?」
男「怒ってないのは確かだ。でも、気にはしてる」
女「…………」
男「簡単に言えば、目下探索中だ」
男「自分自身のための、望むことをね」
女「……そうですか」
男「長い間ついてしまった習慣は、そう簡単には拭いきれないようだ」
女「頑張って下さいね……」
男「ん、分かってる。妹のためにもな……」
女「…………」
ピピピピッ……。
男「ん? 電話?」
女「あっ、すみません……」
女「席を外していたので、部長への電話は直通になってます」
女「とりあえず、私が出ましょうか?」
男「いや、営業からなら、私が直々にガツンと言ってやろう」
女「ふふっ」
……ガチャ。
?『……男君か?』
男「その声は……社長?」
女「……え?」
男「一体、どうしたんですか?」
男性『いや、そのだな……』
女「私……一旦、部屋から出た方がいいですか?」
男「いや、いい」
女「……あ、はい……」
男性『ん? 誰かいるのか?』
男「大丈夫です。それで、なぜ会社の電話に?」
男性『急いで出たものだから、携帯を持ち合わせていなくてな……』
男「……ちょっと待って下さい。だって、今日の朝は」
男性『あの子が家に来る予定だったな……ただそれが……っ』
男「……少し落ち着きましょう。まず、どうなったかを」
男性『……突然、あの子が倒れた』
男「倒れた?」
男性『初めは不思議そうに家の中を歩き回っていたんだが』
男性『……急に何かを呟いていたと思ったら、倒れた』
男「それで病院に戻ったわけですね……。今、アイツは?」
男性『それが……』
男「……?」
男性『──また記憶を失ったよ』
たったったった……。
男性「……来たか」
男「……はぁ……はぁ……」
男「……そ、それで……アイツは……っ」
男性「……今は寝ている」
男性「というより、医師は昏睡状態と言っている……」
男「……なっ」
男「ちょっと待って下さいっ、記憶を失ったって……」
男性「……倒れてから一度、家の中で目を覚ました」
男性「その時に、記憶を失っていたことに気付いたんだが……」
男性「その後、また再度、瞼を閉じてしまった……」
男「そ、そんな……」
男性「…………」
男「それに、昏睡状態? 一体……どういう……」
男性「分からん。だが、異常事態であることは確かだ」
男「…………」
男「……俺のせいだ……」
男性「…………」
男「俺が……兄の存在をなくすなんて行動を取ったから……」
男「アイツに……今まで以上の負荷を与えたから……」
男性「違う、君のせいじゃない」
男性「君はただ、必死にあの子を救おうとしただけじゃないか」
男「それが……この結果ですよ……?」
男性「それは……」
男「あなたが言ったように、止めた方が良かったんだ……」
男「アイツは今を……生きていられたんだから……」
男性「…………」
男「……それなのに俺は──」
男「少し期間が伸びたからといって、安易な発想を……」
男「……くそっ……なんて様だ……」
男「……どうしよう……どうすれば……」
男「あ、ああ……」
男性「……あの子に会うか?」
男「……え……?」
男性「今ならまだ眠っている。だから……」
男「…………」
男「……は、い……」
男「彼女に……アイツに……」
男「──……会わせて下さい……」
男「…………」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……寝顔はこんなに安らかなのにな……」
男「五日間も眠りっぱなしなんて……」
男「……昏睡状態なんて……誰が信じられる……?」
男「…………」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……っ」
男「……ごめん……ごめんっ……」
男「……俺が、俺が悪いんだ……」
男「……もう二度と、あんなことをしないから……」
男「頼むから……お願いだ……」
男「もう一度起きて……」
男「……優しい笑い顔を見せてくれ……」
男「……むすっとした怒り顔を見てくれよ……」
男「…………」
男「もう……いい……」
男「……俺のしたいことなんて、望む事なんて……」
男「そんなの最早どうだっていい……」
男「……俺がやる」
男「お前の大事な兄は……俺が演じるから……」
男「ずっと……ずっと、だ……」
男「……お前が必要とするなら、それこそ死ぬまで……」
男「演じきってやる……本当の兄にしか、思えない程に……」
男「…………」
男「俺の人生……?」
男「そんなの、初めからないようなものだ……」
男「自分のために生きるなんてことは、出来ないから……」
男「……だから」
男「だからっ」
男「……頼む……頼むからさ……」
男「目を覚まして……くれよ……?」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……指輪を、さ……」
男「……俺が……誕生日にあげただろ……?」
男「『女性になら、こんな可愛いのはどうですか』」
男「そう、お店の人に薦められて買ったんだ……」
男「…………」
男「……左、薬指……か……」
男「……なんでだ……」
男「何でなんだよ……」
男「……お前……意味分かってんのかよ……」
男「……こんなの……」
男「……こんな……」
男「……っ」
男「もう……」
男「……意味はないんだから……」
妹「──……ん……?」
妹「……あれ……ええと」
男「あ……」
男「……ああっ……」
妹「?」
男「……っ」
ぎゅっ!
妹「……あの……」
男「目を覚ましたのかっ……目をっ……」
妹「……すみません……ここは……」
男「病院だよっ……お前、五日間も眠りっぱなしでっ……」
男「…………」
男「……俺は……」
男「──お前の兄だっ」
男「……入るぞ」
妹「あっ……ええと……」
妹「お兄ちゃん、ですよね……?」
男「ああ……まだ覚えてないか?」
妹「いえ……その、起きてから頭がぼーっとしてて……」
妹「まだ今があやふやというか、現実じゃない気がして……」
妹「……記憶喪失……ですもんね……」
男「…………」
妹「すみません……」
妹「……あなたを心配させてちゃって……」
妹「こんなこと言ってたら……駄目ですよね……」
男「……いいんだよ」
妹「え……?」
男「お前の辛くて、苦しくて、悲しい事を全部……」
男「全てを受け入れるって」
男「そう、約束した」
妹「…………」
男「だから、気にするな。強がらなくていい」
男「言いたい事、聞きたい事を我慢しなくていいんだ」
妹「……は、はい……」
妹「……じゃあ、お兄ちゃん……」
妹「少しだけ話を聞いて下さい……」
男「うん……」
妹「今、わたし」
妹「この世界が夢なんじゃないかって思うんです……」
男「……夢?」
妹「深い深い夢の中」
妹「朝になったら、全てを忘れてしまいそうな……」
男「…………」
妹「もしかしたら、逃避なのかもしれません……」
妹「……ただ今を認めるのが恐ろしいだけなのかもしれない……」
妹「でも、これが現実なら……」
妹「……記憶を失ったわたしと……」
妹「……記憶がある以前の自分……」
妹「……それは同じだと言えるんでしょうか……?」
男「…………」
妹「過去を思い出せないわたしは、もう別物なんです……」
妹「……何が嬉しかったか、どんな感情を抱いていたのか」
妹「そんな些細なことさえ分からない……」
妹「……だから、今のわたしは空っぽ……なんですよね」
男「……『空っぽ』……か」
妹「…………」
男「え……?」
妹「ただ一つだけ……」
妹「……何故だかは、わたしにも分からないんですが……」
男「……ん?」
妹「……指輪」
男「あ……」
妹「左薬指にあるこの指輪を眺めていると……」
妹「……心が落ち着くんですよ」
妹「とっても、温かい気持ちになるんです……」
男「…………」
妹「お兄ちゃん……」
妹「……これは、誰からの贈りものですか?」
妹「わたしにとって、どんな意味があるんですか……?」
妹「きっと、これは……」
妹「昔のわたしと、今のわたしをつなぎ止める……」
妹「……たった一つの、証拠だから」
妹「この指輪の訳を」
妹「……この感情の意味を」
男「…………」
妹「……お兄ちゃん……?」
男「……そうだな」
男「お前は知るべきなのかもしれない」
妹「……え?」
男「それを贈った相手は、お前のことが好きだったんだ」
男「……それも、ずっと昔から、な」
妹「…………」
男「ただ、運命っていうのは残酷で……」
男「相手は、今を生きるだけで精一杯で」
男「……お前とは長い事、離れ離れだった」
妹「……それで……その人はっ……」
男「…………」
妹「……え?」
妹「それは……」
男「もちろん、死んだってことじゃないぞ?」
男「でも……近くにはいないんだ」
男「また、遠いどこかへ行ってしまった……」
男「……もう届かないどこかへ……」
妹「…………」
男「だから、忘れよう」
男「もう終わったことだからな……」
妹「……そう、ですか」
男「すまんな……辛い話をしてしまって……」
妹「……いえ」
妹「……訳が分かっただけでも嬉しいです」
男「そうか……」
妹「…………」
妹「いつか」
妹「……いつの日か……」
妹「また会える日がくるといいですね……」
男「…………」
妹「……その人と」
妹「過去を懐かしんで、今を笑え合えるような」
妹「そんな日が……くるといい、です……」
男「…………」
男「……そう、だな……」
男「…………」
男「…………」
女性「はい、これ。温かいうちに飲んで下さいね」
男「……ありがとうございます」
男性「しかし、君がこうやって家にくるのも久しぶりだ」
男性「以前は、この家で四人一緒に寝泊まりをしていたのにな」
男「……はい」
男性「どうだ? 戻る気はないか?」
男「……しばらくはあの部屋にいようと思います」
男「アパートとの契約がまだ残っていますし……」
男「でも、妹がこの家に戻れるようになったら、その時は……」
男性「……そうか」
男「……申し訳ないです」
男性「気にするな。それで、どうだった?」
男「…………」
男性「ひとまずは安心だが……今朝のあの子の様子は?」
男「……今は、大丈夫だと思います」
男「記憶がなくなった事実に納得できていないようですが」
男「それでも、少しすれば、落ち着くはずです」
男性「……ふむ」
男性「まあ、振り出しに戻ったと考えればいいか」
男「……はい」
男性「しかし、本当に良かったな」
男性「あのまま、寝たきり状態のままだったら……と」
男性「そんなことを考えると、身の凍る思いだ……」
男「……すみません」
男性「いや、君を責めるつもりがあったわけじゃないぞ?」
男性「それに、終わりよければ全てよし」
男性「紆余曲折はあったが、あの子は目を覚ました」
男「…………」
女性「……お父さん」
男性「ん?」
女性「その……あの話……」
男性「……ああ……」
男「話?」
男性「……そのだな、今後について昨日、二人で話し合った」
男性「それで……私たちは……」
男性「今回、あの子に会う機会を最小限にしようと思う」
男「……どういうことです?」
女性「そのね……前回のことを私たちもよく考えてみることにしたんです」
男「……つまり、妹が二週間で記憶を失った時のことですか?」
女性「そう、その時のこと」
女性「今一度考えると……」
女性「どうしても、あなただけに責任があったとは思えなくて……」
女性「あなたは死んだ息子を偽ることをやめて……」
女性「それで、前回は私たち二人であの子を支えることにした」
女性「でも、結果はあの通り……」
男「…………」
女性「それで思ったんです」
女性「もしかしたら、記憶喪失になる責任は私たちにあるんじゃないかって」
女性「家族という形が……あの子には苦痛になってるんじゃないかって」
男「……ええと」
男性「だから今回は、私たち二人は会うのを極力避けようと思う」
男性「けれど、いつまでも、という訳にはいかない」
男性「私たちだって、あの子に会いたい気持ちは君と同じように……」
男性「いや……親子であることを考慮すれば、それ以上のものだからな……」
男「……はい」
男性「娘の状態が安静して、家に戻って来れるようになってから」
男性「その時こそ、私たちが温かく迎えてやろうと、そう決めた」
女性「……どうかしら? 間違っていたら、教えて下さい」
男「……いえ」
男「お二人がそう言うのなら……分かりました」
男性「頼めるか?」
男「はい、任せて下さい」
男性「……すまんな、君に頼るばかりの私たちを許してくれ」
女性「本当に、ごめんなさいね……」
男「お気になさらずに……」
男「どちらにせよ、俺のやることは変わりませんから」
男性「……そう言ってもらえると心強いよ」
男性「あと、そうだ」
男「もしかして、会社のことですか?」
男性「あ、ああ……そうだが、もう少し時間が欲しいか?」
男「……いえ」
男性「……ん? それは……」
男「私でいいと仰るなら、自分の力を存分に揮いたいと思います」
男性「……本当か?」
男「既に、覚悟はできました」
男「だから、お願いできますか?」
男性「……もちろんだ」
男性「そうか……」
男性「君がついに……私の会社を率いていてくれるか……」
男性「ん……これで、やっと安心できるな……」
男「…………」
コンコン……。
女「失礼します」
男「……あっ、おはよう」
女「部長もお早うございます」
女「……で、妹さん、どうなりましたか?」
男「……目覚めたよ」
女「あぁ、そうですか……」
女「本当に良かったですっ!」
男「……あ、うん」
女「でも、元気ないみたいですね……?」
女「何か別の問題でも?」
男「……いや」
男「君に言ったことが守れそうもないなって、ね」
女「……言ったこと?」
男「したいこと、望むことを探すって」
女「……ああ、はい」
男「けど、最早、そうも言ってられなくなった」
男「時間がない……というより、これからは失敗できない」
女「…………」
男「本当はアイツが記憶を取り戻したり」
男「過去を失わないように、前に進むのが正しいのだけど」
女「……時には、その正しさが過ちになる場合もある」
女「そういうことですね?」
男「うん」
男「これからの俺の人生は、妹のために」
男「少しでも、繰り返す短い時間を支障なく生きてもらうために」
男「……俺は、また、誰かのための生を続ける」
女「……そうですか」
男「悪いな……君には心配かけた」
女「私はああ言いましたけど、自分の決断に自信を持てば」
女「何事も……或いは、どんな苦難でさえ、乗り切られるはずです」
男「ん……」
女「……でも、部長」
男「何だ?」
女「部長の人生って、波瀾万丈ですね」
男「はは、確かにそうだな……」
女「……だから」
男「?」
女「これから、きっと……」
女「必ず部長にも、いいことが訪れると思いますよ?」
男「…………」
男「ん……そう、願ってる」
男「……よし、今のところ、順調だ」
男「アイツも眠りから覚めたし、後はこのまま続けるだけ」
男「今まで同じように、兄になりきればいい」
男「一年毎にアイツは記憶を失うが……それはこの際、仕方ない」
男「何事も、全てを望んでいては台無しになってしまう」
男「どこかで諦めなければ、それこそ、終わりだ」
男「人のために生きて……ただ日々を暮らす……」
男「ずっとそうしてきた……そして、これからも」
男「…………」
男「……なのに、なぜだ……?」
男「この気持ち悪さ……違和感……」
男「……俺は……」
男「…………」
男「……何に気付いてしまったのだろう……?」
妹「ん……」
妹「あ……お兄ちゃん……」
男「……寝てたのか?」
妹「いや……最近、少し眠たくて……」
男「起こしてしまって悪いな……また出直そうか?」
妹「大丈夫です……ちょっとくらくらしますけど」
妹「それもすぐに治るはずですから……」
男「……ならいいが」
妹「でも、これって……」
男「ん?」
妹「ふふ……もしかしたら、まだ夢の中だったりして?」
男「……夢?」
妹「だったらいいですよね……」
妹「今は頭の中もふあふあしますし……気持ちいいです……」
妹「あれ……でも、本当に夢なのかも……?」
男「なら、つねってみようか?」
妹「いいですよ……つねって下さい」
男「よし」
ぎゅっ……。
妹「いたっ……」
男「残念だったな。どうやら、夢ではないようだ」
妹「……んー、そうみたいですね」
妹「ふふ、まだほっぺたが痛いです」
男「ちょっと強すぎたか?」
妹「いいです。現実だってはっきりと分かりましたから」
妹「やっぱり、逃避は駄目ですね。しっかり受け止めないと」
男「…………」
妹「そうだ、お兄ちゃん」
妹「実は……こういうと変なんですけど」
男「どうした?」
妹「このわたしの指輪って、誰からの贈り物でしたっけ?」
男「……この前も説明したよな?」
妹「それは分かってるんですけど、ちょっと忘れちゃって……」
男「…………」
妹「これを撫でていると、とっても温かい気持ちになるんです」
妹「でも時々、胸が苦しくなるときもあって……」
妹「あっ……この話も前にしましたよね……」
男「……ああ」
妹「駄目だなぁ……まだ、覚めきってないみたいです」
妹「でも、記憶を失ったはずのわたしが指輪に何かを感じるなんて……」
妹「……一体、どういう意味があるんでしょうね?」
男「さあな……俺には分からないよ」
妹「……お兄ちゃんなら、知ってくれていると思ったんですけど」
男「そんなことより……どうだ?」
男「病院の生活は慣れたか?」
妹「あ、はい、大体は。ご飯は、あまりおいしくないですけどね」
男「そうなのか?」
男「なら、お前の場合、食べ物の制限は余りないから」
男「もし欲しいものがあったら、俺に言ってくれ。買ってくるぞ?」
妹「……そうですね……食べたいもの……」
男「何かあるか?」
妹「……あっ」
妹「食べたいものというより、服を持ってきてもらえませんか?」
男「……服?」
妹「家にあるんですよね? わたしの服」
男「それはあるとは思うが……」
妹「お母さんが、こんど持ってきてくれるって言っていたんですけど」
妹「最近は……病院に来てくれないので……」
男「……ああ、そうか」
男「分かった。今から一度帰って、幾つか持ってくるな」
妹「えっ……今度、来てくれたときで構わないですよ?」
男「いや、こういうのは忘れないうちに行動するのに限る」
男「それより、いいのか? 男の俺が、下着とか見ても……」
妹「あー……ええとそうでした」
男「……やはり、母さんに頼もうか?」
妹「だから、お兄ちゃん、お願いできますか?」
男「お前がそういうなら……分かった」
妹「すみません、お願いしますね」
男「よし、ちょっと待ってろよ」
男「またすぐに戻ってくるから。じゃあ」
妹「はい、よろしくです」
ガラガラガラ……。
……………。
男「……先生」
医師「……あ、妹さんのお兄さん。こんばんは」
医師「ほぼ毎日のお見舞い、ご苦労さまです」
医師「こんな兄を持っている彼女は、本当に幸せですね」
男「あの……」
医師「はい?」
男「実は……お伺いしたことがあります。今、時間とれますか?」
医師「それは大丈夫ですが……何かありました?」
男「ここでは止めましょう。あの子に聞かれてしまう可能性がある」
医師「分かりました……では、歩きながらでも?」
男「大丈夫です。お手数をおかけしますね……」
医師「いえ……」
とことことこ……。
男「先生は、最近の妹の様態で気になることはありませんか?」
医師「いえ、昏睡から戻った後は、比較的安定していると考えています」
男「……そうですか」
医師「気になる事でも?」
男「記憶のことです」
医師「記憶……」
男「さきほど、あの子と喋っていて感じたんですが」
男「時たま……記憶の損失があったりしませんか?」
医師「……それはつまり、今現在、進行しているという意味ですね?」
男「はい。先日話した指輪のことを覚えていませんでした」
医師「ふむ……」
男「偶然だったらいいのですが、何か悪い兆候かもしれない……」
医師「しばらくの間、昔の記憶に整合性がとれない方がおられます」
男「……でも、あの子の場合はそもそも過去を覚えていない」
医師「起きてからの記憶が安定しないというのは、少し懸念要素ですね」
男「今までと違う……ということですか?」
医師「分かりません……とにかく」
男「はい……」
医師「私の方でも彼女の経過を注意深く観察してみることにします」
医師「それで、何か分かった時には、お話を」
男「なにとぞ、よろしくお願い致します」
ピンポーン……。
男「…………」
ピンポーン……。
男「……ん」
男「誰も……いないのか?」
男「……さて、どうするか……」
男「…………」
男「仕方ない。貰った合鍵で入ろう」
ガチャ……。
……………。
男「……静かだな」
男「親友の代わりに、妹の兄代わりに」
男「ここで数年間、暮らしてきた」
男「……この匂い」
男「もう、完全に慣れてしまった」
男「……本当の自分の家だと……錯覚してしまう」
男「それぐらい……」
男「この家での、数年は大きかった」
男「初めて感じた、家族の温もりだった」
男「……リビング」
男「いつもここで、四人で食事して」
男「おばさんの料理は毎日おいしくて……」
男「それで、アイツのために誕生日を祝った」
男「……あの日、俺が指輪をプレゼントした時の妹の顔」
男「……とても驚いていて、嬉しそうで」
男「でも、泣き出しそうに見えた表情を……」
男「今でも鮮明に覚えている……」
男「……きっと」
男「妹がここに戻ってこれば……」
男「あの頃の……楽しい時間が蘇るはずだ……」
男「……ん」
男「アイツの部屋に急ごう」
男「……ふぅー」
男「久しぶりにこの階段を上るなぁ……」
男「昔は感じなかったけど、久しぶりに上ると」
男「結構、この急な階段は辛いな……」
男「……はぁー……もしかして、俺」
男「体力落ちたか……?」
男「ん……あと一段……」
男「よし……上りきった……」
男「…………」
男「……親友の部屋の向かい側」
男「妹の部屋」
男「……開けるか」
ガチャ……。
ガサガサ……。
男「とりあえず、夏服を入れればいいのか……」
男「……しかし、多すぎて何を入れたらいいのか分からん……」
男「とりあえず、俺がいいなと思ったのをつめとくか……」
男「……これと」
男「これと……これ……」
男「ん、これは、昔、遊びに行った時に着てたやつだ」
男「それも入れて……あと……」
男「…………」
男「……こんなところだな」
男「後は……下着」
男「…………」
男「ここでおばさんとか、帰ってきたら」
男「あとで、色々問題にならないだろうか……」
男「…………」
男「急ごう……誤解されると後々面倒だ」
ガラッ……。
男「…………」
男「……す、すごいな……」
男「なんで……こんな丸まって整理されてんだ……?」
男「むむ……どうしたものか……」
男「……よし」
男「目を瞑って、幾つか取ろう……」
男「…………」
ガサガサ……。
男「……一枚、二枚……」
がたッ、がたッ……!
男「あっ……」
バタンッ!
男「……やっちまった……」
男「目なんか瞑るから、棚を落っことすんだ……」
男「……うわぁ……仕舞うの大変だな……」
男「……とりあえず、入れとくだけでいいかな……」
男「…………」
男「……ん?」
男「なんだこれ……」
男「……棚の裏に……」
男「これは……」
男「…………」
男「──日記……?」
……………。
………。
この日記は、記憶を失い続けているわたしが、
せめて自分の生きた証だけでも残したいと日々を記したもの。
望むべくは、これを読んでいるあなたが、
過去を知りたいと望む、もう一人の自分であらんことを。
今、わたしの胸に宿る思いを──
忘れず、あなたも抱いていることを祈る。
20×1年5月21日。自宅にて。
……………。
今日からこのノートに日記を書こうと思う。
今のわたしは、病院から退院して自宅の部屋で、
机に向かってこれを書いています。
そこで、まずは病院内での最初の記憶を遡って、
徐々に今現在のことを書く段階にいければいいかなって思う。
病院にいた時は、メモにちょこちょこっと記していたので、
それに付け加えながら、今度はきちんと書いていこう。
今日はもしかしたら徹夜になっちゃうかもしれないけど、
何とか頑張ります。既に眠いけどね。
拙いところはあると思うけど、長く続くといいなぁ。
わたしが知り得る、一番最初の記憶。
天気は晴れだったと思う。
目覚めたとき、窓から眩い光が差し込んでいたのを今も覚えていて、
この日、わたしは記憶を失って、新たなわたしになった。
過去を失い、目が覚めた私の目に写ったのは、
わたしを心配そうに見つめる、優しい顔立ちの一人の男性だった。
訳が分からずに、狼狽えるわたしを穏やかな口調で落ち着かせ、
その人は、自らのことをわたしの兄と説明してくれた。
『お兄ちゃん』──それが、この人との初めての出会い。
少し経つと、わたしも状況が理解できてきて、
記憶喪失になった事実に、とても悲しくなってしまった。
そんなわたしを、お兄ちゃんは励ましながら、
けれど、辛そうな顔でこう説明してくれた。
今までのわたしは、のべで七回も記憶を失っていること。
そして、その周期は、約一年であること。
時に詰まりながらも、
お兄ちゃんは分かりやすく何度も、教えてくれた。
今までのわたしには、あえて伝えなかったみたいだけど、
今度こそは現状を打破したい。そう、彼は強く言ってくれた。
けれど、お兄ちゃんが帰って一人になった時、
自分の生が短いことが急に怖くなった。
つまり、自分の記憶は一年だけという事実が、わたしの心を蝕んだ。
この日。
わたしは記憶を失うのが怖くて、
一度も眠れなかった。
記憶を失った二日目の朝。
今日は、お兄ちゃんが両親を連れてきてくれた。
少し険のある男性と、温和な表情の女性。
この二人が、わたしの父親と母親なのだそうだ。
ただ、そう言われても何も感じるものはなかった。
二人の顔立ちが、多少わたしと似てるかな?っと思うぐらいで、
記憶が思い出される気配すらない……。
どうしよう……これから、この二人とうまくやっていけるかな?
ぎこちない会話をお父さんお母さんとしていたら、
お兄ちゃんが笑って指摘してきた。
少し恥ずかしい……。
検査が終わって病室に戻ると、お兄ちゃんが椅子に座って、
わたしのことを待っていてくれた。
お兄ちゃんが来るのは、三日連続。
この人は、どうやらわたしのことを、
とても大切に思ってくれているみたいだ。
素直に嬉しい。
色々、雑談をしていたら、
看護婦さんに面談時間を大幅に過ぎていると怒られて、
しぶしぶ帰って行った。
このとき、記憶を失ってから初めて、わたしは笑った。
この日、久しぶりにぐっすり眠れる。
午前中は、お母さんが果物を持って、お見舞いにきてくれる。
やはり、未だ、ぎこちない会話だ。
でも、苺が一番おいしかったことを伝えると、
お母さんは、笑顔を見せてくれた。わたしも嬉しい。
検査が終わり、部屋に戻ってみると、
お兄ちゃんの姿はなかった。
昨日までは毎日来てくれたのに……どうしたんだろう?
結局、今日、お兄ちゃんは来なかった。
ちょっぴし残念だけど、明日は来てくれるよね?
今日は雨。
お兄ちゃんは今日も来なかった。
夜、お父さんが来てくれて、少し話をした。
お兄ちゃんのことを聞くと、今、仕事で忙しいそうだ。
あと、お父さんが会社の社長であることに驚いた。
久しぶりの日記。
今日もお兄ちゃんは来ないと半ば諦めていたけど、
面談時間ギリギリになって、駆け足で来てくれた。
とても嬉しい。
看護婦さんはお兄ちゃんに怒っていたけど、
わたしもお願いして、少し時間を延長してもらう。
けれど、話している時間はあっという間に過ぎて、
楽しい時はすぐに終わってしまった。
夜、今日も怖くてすぐに眠れなかったので、
どうして、お兄ちゃんがここまで話しやすいのかを考えてみた。
結論は、鳥の刷り込みのようなものだと判断。
記憶を失って初めて見たのがお兄ちゃんだったから。
うん、だから当然の話だ。
わたしの退院が、四日後の29日に決まった。
家族みんなが喜んでくれる。
まだ、お父さんお母さんとは、ぎこちないけど、
昔よりかは普通に喋れるようになった。
お兄ちゃんは、はしゃいで抱きついてきた。
何か言おうと思ったけれど、言葉が出てこなくて、
正直、びっくりしたんだと思う。
後で、お兄ちゃんはお母さんに怒られていた。
けれど、なぜだか、その光景は温かかった。
早く、わたしもあの一員になれるといいなぁ。
そして、この日記を書いている今日。
初めて、自分の家に入った記念すべき日。
わたしがこの家族の一人として、
新たな日々を送る、第一歩である。
想定していた以上に、筆が進んだので、
徹夜しないですみそうだ。
でも、明日の朝はちょっと辛いかな。
ではまた今度。
追記:さっき隣の部屋を覗いたら、
静かな寝息を立てて、お兄ちゃんが眠っていた。
カメラを手に持っていたから、もしかして写真好きなのかな?
……………。
………。
男「…………」
男「……やめよう」
男「これ以上は、俺が見ていいものじゃない……」
男「……けど」
男「妹……日記なんて、書いていたのか……」
男「…………」
男「……んっ……」
ごくごく……。
女「部長、飲み過ぎですよ……」
男「……そうか?」
女「何杯目ですか? 明日も仕事なのに、二日酔いになりますよ?」
男「……別に構わないさ」
男「最悪、休んだっていいしな」
女「……部長?」
男「ん?」
女「……仕事には中途半端を許さない部長が」
女「そんなこと言ってもいいんですか?」
男「……他の部下に告げ口するか?」
女「……そんなこと……」
女「するわけないじゃないですか……」
女「…………」
男「次は芋ロックにするか……よし」
パンッ……。
男「いて……」
女「もう、店員を呼ぶボタンは押させません」
男「一体、何だって言うんだ……」
男「酒ぐらい、好きに飲ませてくれ」
女「いけません。悔やむのなら、私を誘った自分をです」
男「…………」
女「……昏睡状態だった妹さんも目を覚まして」
女「仕事も至って順調。なのに、今の部長が悩む理由が分かりません」
男「……それは」
女「お願いですから……」
男「…………」
女「それとも、まだ何か問題でも?」
男「……違和感が消えないんだ」
女「え?」
男「胸の奥にある、違和感が日に日に大きくなっていく」
男「何かを見逃している……そんな気がしてならない」
女「……部長」
男「なぁ、こないだ俺に足りない物を指摘してくれた君なら」
男「この訳も、実は、分かるんじゃないのか……?」
女「…………」
男「教えてくれ」
男「頼む……俺は一体、何を見落としている?」
女「それは……妹さんのことで?」
男「……ああ」
女「妹さんと、親しくない私には……」
男「…………」
男「……昨日、日記を見つけた」
女「日記?」
男「アイツの服を取りに家へ戻ったんだ」
男「そしたら偶然……前々回の妹が書いた日記を見つけてしまった」
女「……中は?」
男「最初の数頁だけ読んだよ」
女「…………」
男「けれど、その後は読めなかった」
男「妹の物を勝手に読む行為に、引け目を感じたのも確かだ」
男「……だが、本当の訳は違う」
女「……え?」
男「俺は、怖かったんだ」
男「知ってはいけないこと、内心は気付いていた事実を」
男「それを正面から受け止める勇気が……俺にはない……」
女「…………」
男「どうだ? その実、ちっぽけな人間だろ?」
女「……部長は……」
女「もしかして、気付いているんじゃないですか?」
男「……ん?」
女「胸に残る違和感の存在を」
女「それが一体、どんなものなのかを」
男「…………」
女「なら、いつも部長が仕事で言っているように……」
女「……そう……」
女「──『前に』進みましょうよ」
男「……っ」
女「部長?」
男「……ああ」
男「気付かない振りは、もう終わりだな……」
女「…………」
男「ずっと気がかりなことがあった」
男「初めから……五年前、いや、六年前のあの日から」
男「親友を偽ることを決意した、あの時から」
女「……部長……」
男「なぜ……」
男「妹は記憶を失った?」
女「……あ……」
男「自殺までして、この世界から消えようとした?」
男「何かが欠けている。それも、とても重要なピースが」
女「でも、親友さんは彼女を車で迎える途中の……」
女「……車の事故って……」
男「そうだ……社長が言った」
男「『どうだ? 意外と、事実はあっけないものだろう?』」
男「けれど……そんなことがありえるのか?」
女「え……?」
男「自殺しようとまで」
男「今までの記憶全てを失ってまで」
男「……そこまでしなければならない程」
男「その現実は、アイツを苦しめていたのか?」
女「…………」
男「社長は何かを隠したんだ」
男「……俺には知ってもらいたくない何かを」
男「もしかしたら……妹を守る為に、家族を守る為に……」
男「今は、ただ、その確信が欲しい」
女「……その後は?」
男「まだ、分からない……」
男「けれど、知らない振りをし続けるのは」
男「……もう、やめだ」
ガラガラガラ……。
男「…………」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……寝てるか」
男「よいしょっと……」
パタン……。
男「実は今日……図書館に行ってきたんだ」
男「少し調べ物があってな……」
男「残念ながら……予感は的中してしまったよ」
男「でも……これから、一体どうするのか」
男「正直、今の俺には分からない……」
男「…………」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……もしかしたら」
男「また……お前を傷つけることをしているのかもしれない」
男「……俺の今までは」
男「過ちだらけの人生だったから……」
男「……だから、今回もきっと」
男「どこかで重要なミスをしているはずだよ……」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……でも」
男「……やっぱり、駄目だ」
男「無視できない。捨て去ることはできない……」
男「…………」
男「……初めに謝っておくな」
男「もしや……」
男「これから俺がやろうとしていることは……」
男「記憶から忘れ去りたいこと……」
男「……それを暴くことになるかもしれない」
男「…………」
男「……ごめん」
男「……でも、俺は止まらない」
男「ここまで来てしまったものは……もう止められない」
男「もう気付いてしまったから……」
男「…………」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「…………」
男「だから……」
男「……敗者の抜け出し方」
男「後は、それを思い出すだけだ……」
女「……そうですか」
男「ああ」
女「なら、これから、どうします?」
男「…………」
男「……君の知り合いに、関係者はいないか?」
女「情報通の人間ということですね?」
男「その通りだ」
女「……一人」
女「かつての友人に、顔が広い人間がいます」
男「…………」
女「ただ、しばらく連絡を取っていないもので」
女「もしかしたら、連絡先が変更していることも考えられます」
女「ですので、少し時間はかかると思いますが……」
男「頼めるか?」
男「……何がだ?」
女「もし、部長が言う通りの展開だったら」
女「……妹さんにとっては、厳しい結末になりますけど……」
男「…………」
男「……それも十分考慮した上だ」
男「けれど、躊躇うわけにはいかない」
女「…………」
男「さきほどの問いの返事が欲しい。今すぐに」
男「君に、任せても良いのか?」
女「……分かりました」
男「本当に頼む……今の俺には、君だけが頼りだ……」
女「……はい」
男「……しかし」
女「部長……?」
男「やる前から、過ちだと気付いて進むのは……」
男「実のところ、今回が初めてなんだ」
女「…………」
男「意外と、気楽なものだよ」
男「全てを覚悟して……前に進められるのだから」
妹「……ん?」
男「……あ」
妹「……お兄ちゃん……?」
男「すまん……いつもタイミングが悪いな……」
妹「いいんです……最近、眠ってばかりいるから」
妹「本当は昨日も来てくれたんですね、先生が言ってました」
妹「でも、ごめんなさい……きちんと起きていられなくて……」
男「そんなこと気にしなくていい」
妹「……でも、近頃、睡魔がずっと襲ってきてて……」
妹「こうしてる今も、とっても眠たいんです……」
男「……妹……」
男「無理しなくていいから、また今度来るよ」
妹「……あ、お兄ちゃんっ……」
ぎゅっ……。
妹「行かないで……今日はお話しましょ?」
男「……でも」
妹「わたしは大丈夫です……眠気なんて、我慢できますから」
男「本当か? ……なら」
妹「はい」
男「お前は、何の話がしたい?」
妹「そうですね……」
男「ああ」
妹「……昔のこと」
妹「お兄ちゃんとわたしが、まだ小さかった頃の話を」
妹「……聞かせて下さい」
男「…………」
男「……そうだなぁ……」
妹「……うん」
妹「……とっておきの話?」
男「小さい頃、俺と俺の友達はよく河原で遊んでいた」
男「そんなとき、お前もなぜか、俺たちの後をついてきたんだ」
妹「わたしが、男子の遊びにですか?」
男「ああ、昔のお前はすごく積極的だったんだぞ?」
妹「へぇー……わたしが……」
男「河原では、決まった遊びがあったわけじゃなかった」
男「時には、追いかけっこ、隠れんぼ」
男「色々やったもんだが……あの日は確か、『てんか』だったなぁ」
妹「『てんか』? それはどんな遊びです?」
男「簡単に言うとな、ボール当てゲームみたいなもんだ」
男「一人がボールを持って、誰かに当てる」
男「でも、歩ける歩数はボールを拾った時から三歩だけ」
男「本当はある程度の人数がいて楽しいゲームなんだが」
妹「……じゃあ、わたしもその中に?」
男「そう、俺は怪我するからやめとけって言ったんだけどな」
男「でも、入れてみると意外や意外」
男「四歳年下だったくせに、ボールをよけるのが神懸かり的にうまかった」
妹「ふふ……多分、わたし、得意げな表情をしてませんでした?」
男「その通り。ダチの奴は、当たらないもんだから、ムキになってたよ」
妹「そんなことがあったんですね……」
男「それで……あるとき、ボールが川の草むらの方にいってしまった」
男「俺の友達はそのボールを探しに向かって……」
男「河原には、俺とお前、二人だけが残された」
妹「……はい」
男「そしたら、お前が俺の身体に傷があるのを見つけてな」
男「傷を無視しようとする俺を無理やり土手につれてって」
男「一通り、消毒をした後、可愛いキャラクターのバンドエイドを取り出した」
男「貼ってくれたよ。俺は女物だから嫌がったけど」
妹「……ふふ、お兄ちゃんも子供だったんですね」
男「そう、子供だった」
男「まだ人生の意味も、目的も、何一つ知らなかったガキだった」
男「……けど、その幼心でも気付いたんだ」
妹「え……?」
男「お前がそのキャラのグッズが大好きだったこと」
男「恐らく、そのバンドエイドも使わないで大事に取っていたんだってな」
妹「…………」
男「なのに、お前は躊躇いも見せずに、それを貼ってくれた」
男「……あの時かな」
男「うん……確かに、あの時だ……」
妹「……うん」
男「それこそ今以上に……な」
男「そう、思ったんだ」
妹「……っ」
男「どうだ? 良い話だったろ?」
妹「……はい……とっても……」
男「なら、良かったよ」
妹「……お兄ちゃんは……」
妹「昔も今も、変わっていないんですね……」
男「……え?」
妹「今も、わたしのことを大事に、大切に、思い続けてくれている」
妹「お兄ちゃんは……本当に、わたしの自慢です」
男「…………」
妹「……ふぅー……そろそろ本格的に眠くなってきました」
男「……そうか」
妹「ごめんなさい……せっかく、来てもらったのに」
妹「ありがとう……お兄ちゃん」
妹「本当に……本当に……」
男「…………」
妹「……そうだ」
妹「最後に一つだけ……聞いてもいいですか?」
男「何でもいいぞ。気になることがあるなら……」
妹「……あの」
男「ん?」
妹「わたしのこの指輪って……」
妹「──一体、誰からの贈りものだったんですか……?」
男「…………」
……………。
医師「妹さんには、最近の記憶の喪失が所々見られます」
男「…………」
医師「今日、詳細な検査を行った結果」
医師「一昨日以前ぐらいの記憶が、非常に曖昧だということが分かりました」
男「……これから、どうなるんです?」
医師「それは私にも分かりません……ただ」
男「……何ですか?」
医師「それよりも、早急に話さねばならない深刻な問題があります……」
医師「……これを見て頂けませんか」
男「…………」
男「……グラフ?」
医師「日ごとに、綺麗に上がっていますよね」
男「……どういうことです?」
男「……睡眠……」
医師「たびたび彼女が眠たいというので、調べてみたら」
医師「……このような結果が出てしまいました」
男「……ちょっと、ちょっと待って下さい」
医師「……はい」
男「つまり……ですよ」
男「アイツの、寝ている時間が日に日に長くなっている?」
男「昏睡状態から覚めてから、今日まで、ずっと?」
医師「……申し訳ない。もっと早めに気付く事ができなくて」
男「……ッ」
男「今は、謝罪が聞きたいわけじゃないっ!」
医師「…………」
男「これは……これが意味するのはっ!」
男「このグラフが、一番上まで行った時……」
医師「……その可能性は十分にあります」
男「……可能性だと……?」
バンッ!
男「あんたも気付いているはずだっ!」
男「このままだとアイツは、確実に眠ったままの状態に戻ってしまうっ!」
医師「……お兄さん」
男「……どうするんだ……一体、どうすれば……」
男「くそっ……何でだっ……何で、またこうなるっ……」
医師「お兄さんっ」
男「何度やっても、形を変えた同じ悲劇が繰り返すだけ……」
男「……そして、今度はまた眠り続けるだと……?」
男「今まで必死に耐えてきたが……いい加減にしろっ……」
男「……もう俺は、こんな仕打ち我慢できないっ!」
医師「お、お兄さんっ! 落ち着いて下さ……」
医師「……っ」
男「今まで俺がどんなに我慢してきたかっ!」
男「それでも、必死に生きて……耐えてっ!」
男「……その結果がこれか?」
男「これが、俺とアイツの最後だっていうのかっ!?」
医師「…………」
男「あんたには決して分からないよ……」
男「俺の気持ちも、妹の気持ちも……何一つ……」
男「……駄目だ……」
男「もう、どうしていいのか分からない……」
男「……今度こそ、終わった……」
男「終わりだ……」
男「…………」
医師「……お兄さん、聞いて下さい」
男「……大事? この状況で、か……?」
医師「はい」
医師「……私が推測するに」
医師「今回の結果と、記憶が失われている事実には……」
医師「何らかの強い繋がりがあると思うのです」
男「……強い、繋がり……?」
医師「しかし、あくまでも、私の考えということに留めておいて下さい」
医師「それでも良いというなら、お伝え致します」
男「……分かった……」
医師「もちろん、さきほど言った最悪の可能性だって考えられます」
男「御託はいい……その考えとやらを早く言ってくれ……」
医師「……リセットですよ」
男「『リセット』……?」
医師「もう、既に限界値まできていることは周知の事実ですよね?」
医師「こないだの昏睡状態も、それを明らかに意味しています」
男「…………」
医師「……けれど、未だに彼女は過去を捨て去る事が出来ない」
男「待ってくれ……アイツの記憶は未だ戻っていないぞ?」
医師「それは思い出せないだけで、確実に頭のどこかにはあるんです」
医師「何らかのきっかけ……それも、特に強いきっかけですが」
医師「それさえあれば、彼女は今でも過去を思い出すことは可能なんです」
男「……ん」
医師「けれど、彼女にとって、その過去は堪え難いもので……」
医師「今の妹さんには、百害あって一利ない……」
医師「……だから、今回の二つの現象は」
医師「本当の意味で、過去を消し去るまでの準備期間と推測できるでしょう」
男「……じゃあ、グラフが上限へ到達したら……」
医師「再び、目を覚ますはずです」
医師「だって、身体のどこにも異常はないんですからね」
男「……でも……それは……」
医師「……はい」
医師「同時に、かつての記憶を蘇らす機会が」
医師「今後、永久に失われることを意味します……」
男「…………」
男「……あとどれくらい」
男「……どれくらいで、アイツは眠りにつく……?」
医師「このまま進行が続けば……」
医師「あと七日」
医師「……それだけしか、持ちません」
男性「…………」
女性「……そんな、そんなこと……」
男「認めたくはありませんが、これが現実です……」
男性「……七日といったな?」
男「はい」
男性「……たったそれだけしかないということか……」
女性「うぅ……なんで……なん……で……」
女性「あの子が……あの子が一体、何をしたって……」
男性「……気をしっかりと持て」
男性「今はまだ、泣いている場合ではない」
女性「で、でも……」
男「先生が言うには、全く違う可能性もあると」
男性「つまり、再度、昏睡状態になって……また目覚めるというのか?」
男「……はい」
男性「しかし、それは医者の個人的見解にすぎないだろ?」
男性「…………」
男「どうしますか……?」
男性「……もし」
男「はい……」
男性「その医者の言うことが正しかったとしたら」
男性「……今後、あの子は記憶を失うことはないということだな?」
男性「一年という縛りに苦しまずにすむということだな……?」
男「そうなりますね……」
男「ただ、昔の記憶を思い出す機会を完全に失いますが……」
男性「…………」
男性「……なら、後は待つだけだ」
男「待つだけ?」
男性「もう私たちに出来る事はない」
男性「ただひたすら、あの子が目覚めるのを待つだけ」
男性「意外と……悪くない話だと思う」
男「……本気で……」
男「それは、本気で言っていますか?」
男性「……どういう意味だ?」
男「アイツが記憶を失ってもいいと?」
男「もう、昔の彼女に戻らなくてもいいって言うですか?」
男性「……君こそ、今更、何を言ってるんだ」
男性「前々から言っていただろう」
男性「あの子にとって辛過ぎる過去なら……」
男性「……それを、無理して思い出す必要はない、と」
男「それは……」
男「アイツが……自殺を試みようとするからですか?」
男性「そうだ」
男「どうしてです……?」
男性「……ん?」
男「その行為を食い止める未来だって、あるはずですよ……」
男性「…………」
男「……なのに、社長は分かりきっているみたいですね」
男「記憶が戻ったアイツの行く先は、『死』があるのみって……」
男性「……血を分けた親子だからな」
男「…………」
男性「幼い頃から、ずっと……」
男性「共に暮らし、今までを歩んできたんだ」
男性「あの子のことは、どこの誰よりも」
男性「私たちが一番知っていると、胸を張って言い切れる」
男「……それは」
男性「では聞こう」
男性「君があの子といた時間はどれほどだ?」
男性「高校に入る前にこの街を去った君は……」
男性「成長したあの子のことを、何一つ知らないだろう」
男「…………」
男性「これからの将来をどう考えて」
男性「些細かもしれないが、そういった積み重ねが我々にはある」
男性「……君には、厳しいことを言うかもしれないが」
男性「男君、君に、あの子の何が分かるんだ?」
男「……っ」
男性「今のままでいい」
男性「……私たちには、どうせ、待つ事しかできないのだから」
男性「あとの七日間、普通に過ごすことが……」
男性「今の私たちに出来る、唯一のことなんだ」
男「…………」
男性「分かってくれたか?」
男「……はい」
男「……社長の気持ちは理解できました……」
男性「そうか……」
男「…………」
男性「皆で、乗り切ろう」
男性「……最後の山を、困難を」
男性「そうすれば、きっと」
男性「その先には輝かしい未来が待っているはずだ」
男「……未来……」
男「…………」
男性「今日はもう遅い」
男性「君も、今夜はうちに泊まっていきなさい」
男性「息子の部屋は、前と元通りにしてあるからな」
男「……分かりました」
男「…………」
男「……この部屋も久しぶりだ……」
男「カメラもちゃんとあるし、懐かしいものばかり……」
男「……なぁ、親友」
男「お前の親父さんに……」
男「『成長した妹の何を知っている?』って聞かれた時」
男「俺……何一つ、答えられなかったよ……」
男「俺が覚えているのは……」
男「小さい頃の妹……記憶を失い続けているアイツで……」
男「だから……成長した後の彼女を俺は知らない」
男「どんな子に育ったんだろうな?」
男「頭は良かったか? 優しい女性になったか?」
男「……はは、お前は知ってるか」
男「でも俺は、まがい物……」
男「……いないはずの、人間」
男「…………」
男「……何も出来ない自分がもどかしい」
男「その実、無力な自分が腹立たしい……」
男「…………」
男「……親友」
男「……お前だけには、本音で話す……」
男「今更になって、気付いてしまったよ……」
男「自分が望んでいること」
男「それが……やっと、分かったんだ」
男「……アイツの日記を読んじまった時から……」
男「もう、その想いは消えることがない」
男「……胸に宿る違和感の存在に気付いてしまった……」
男「今までの俺が……いかに馬鹿だってことがな……」
男「…………」
男「……それと、ごめんな」
男「……これからすることを、最初に謝っておくよ……」
男「お前の私物を漁る俺を許してくれ……」
男「……きっと」
男「……悪いようにはしないから……」
男「…………」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……また寝てるみたいだな……」
妹「……すぅ……」
妹「……んん……」
男「…………」
妹「あ……お兄ちゃん……」
男「起きたか?」
妹「……は、い……」
妹「ごめんなさい……来てもらってたのに……」
男「……いいんだ」
妹「なんか最近、ずっと眠ってて……」
妹「……正直、こっちが本当なのか、夢が本当なのか……分からないんです」
妹「今……これは、現実ですか?」
男「ああ……」
男「……確実に、お前の側にいる」
妹「……はい……」
妹「それは良かったです……」
男「……どうだ、また眠るか?」
妹「ん……」
妹「……そうですね……」
妹「お兄ちゃんには申し訳ないですが……」
妹「今、起きているのはちょっと辛いかも……」
男「…………」
妹「実は、さっきまで……」
妹「……何か、とても幸せな夢を見ていた気がするんですよ……」
妹「わたしのとって、本当に幸せな……そんな夢を……」
妹「もしかして、それは……」
男「……そうか」
妹「……ごめん、なさい……」
妹「もう寝ちゃいそうです……すみません……」
妹「……ん……」
妹「……お、兄ちゃん……」
男「…………」
妹「…………」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……寝たか」
男「…………」
男「いいか……待ってろよ」
男「もう少し……後少しだから……」
男「俺が……」
男「……大事なお前を守るから……」
男「…………」
男「……あ」
店員「ごめん、仕事が長引いちゃって……」
男「……気にしないで下さい。どうぞ座って」
店員「ん、ありがとう」
店員「でも、そんな他人行儀な喋り方じゃなくていいんだよ?」
店員「私と君って、同い年でしょ?」
男「……ですが」
店員「ほら、気にしない気にしない」
店員「そんな話し方だと、肩こっちゃうからさ」
男「分かった……これでいいか?」
店員「ん、それでオッケー」
店員「……しかし、ほんと困っちゃうよね」
店員「この歳にまでなって、こんな店に働いてるって……」
店員「……今までの人生、適当にしてきたからなぁ」
店員「まあ、仕方ないと言っちゃ仕方ない」
店員「それで、君は?」
男「……ん?」
店員「そんな高そうなスーツ着てるけど……」
店員「なんの仕事してるの?」
男「……親友の、親父さんの会社で働いている」
店員「……あー、そうなんだ」
男「意外か?」
店員「ん……まぁ、意外ちゃ意外だね」
男「…………」
店員「それより、何か食べ物頼まないかな?」
店員「私、ずっと働きっぱなしだったから、お腹すいちゃった」
店員「君は夕飯もう食べた?」
男「……んー、まだ」
男「あっ……もちろん、今日はおごるから」
店員「ほぉー……流石高給取り」
店員「しかし、本日はそれに甘えさせて貰おうっ」
男「ああ」
店員「さて、ボタンを連打してやろうか」
ピンポーンピンポーンピンポーンッ!
男「お、おい」
店員「いいのいいの、私の勤めるお店だし」
店員「どうせ、彼氏が来たとか…何とか」
店員「あることないこと、お喋りしてるんだから」
男「そ、そうなのか……」
店員「まぁ、従業員の裏の顔ってそういうもんでしょ?」
店員「嫌いな客がくれば、みんなで悪口言い合うし」
男「……ほー」
店員「さて……」
男「……ん?」
店員「雑談はこの辺にしておいて……」
店員「何が聞きたい? 私から」
男「…………」
店員「知らない番号から電話がかかってきた時は」
店員「本当、何だろうって思ってたけど」
店員「……まさか、相手が噂の男君だとわね」
男「……ああ」
男「…………」
男「……当時、彼と付き合っていた君に」
男「大学時代から親友の彼女だった君に、聞きたい」
店員「…………」
男「──あの日、一体、何があった?」
……………。
店員「とても悲しかったけど、時間が解決してくれたよ」
店員「ん……これ、おいし」
もぐもぐ……。
男「それで?」
店員「死因は結局、教えてもらえなかった」
男「葬式でも、か?」
店員「うん、なんか言えないやつなのかなって、思ってた」
店員「それに、私は親友の家族と余り仲良くなかったし」
店員「もちろん妹ちゃんは除いてだけど」
店員「でも、だから、あえて聞こうともしなかったなぁー」
男「ああ……」
店員「それより、彼氏が死んじゃったって事実の方が堪えてね……」
店員「しばらくの間は、何もやる気がおきない時間が続いた」
男「…………」
男「いや……」
店員「もしかして、なにか、あった?」
男「……分からない。ただ、それを調べたいと思ってる」
店員「そうかー……あんまり、言いたくはないけど」
店員「それをして、誰か得する人っている?」
男「……いない、な」
店員「だよね……ずっと前の話だし」
店員「無駄に墓荒らしみたいな真似すると」
店員「いろんな人から、恨まれるかもしれないよ?」
男「……それでも」
店員「…………」
男「俺は……もう見過ごすことができないんだ」
男「……たとえ、その先に、どんな結末があったとしても……」
店員「……ふーん」
店員「これ以上、私がとやかく言うことじゃないね。ごめん」
男「気にしなくていい……あと、聞いてもいいか?」
店員「ん? 何かな?」
男「……その当時の妹と親友の関係って、どうだった?」
店員「とても仲良かったよ?」
店員「昔からって聞いてたけど、違った?」
男「……なら、いいんだが」
店員「…………」
店員「……んー、でも」
店員「もしかしたら、君が聞きたいのって、あのことなのかも」
男「……あのこと? それは一体……」
店員「その前に……」
男「……ん?」
男「はは、いいよ」
店員「ん、ありがとっ」
ピンポーン!
男「それで?」
店員「……凄く仲良かった二人だったけど……」
店員「時には、大きな喧嘩することもあってね」
男「……あの仲良かった二人がか?」
店員「そりゃそうだよ」
店員「幾ら仲いいって言っても、家族ってだけで」
店員「実際は、別の人間なんだから……意見が食い違うこともある」
店員「もちろん、怒鳴り合いの喧嘩だって、ね」
男「…………」
店員「家族って、そういうもんじゃないかな?」
店員「違う?」
男「……そう、だな」
店員「だから、あの二人もしばしば喧嘩してた」
店員「あんまり深くは聞かなかったけど……」
店員「……その時の親友は結構、悩んでたなぁ……」
男「……悩んでた?」
店員「ほら、アイツって写真大好きっ子だったでしょ?」
店員「だから、頭がいい癖に、写真家になるってずっと言ってて」
店員「私は馬鹿だったから、何言ってんだろ……的な感じだったんだけど」
店員「やっぱり、それは家族の人たちも同じだったみたい」
男「それは、どういう……」
店員「親友の父親って、大企業の社長でしょ?」
店員「ワンマン社長でも有名だったから、親としては子に引き継がせたくて」
男「……ああ」
店員「でも、親友は大学を卒業して、すぐに海外に飛んだりしてた」
男「……妹もか?」
店員「うん、初めは応援してたらしいけど」
店員「ほら、写真家って危険な地域にも行くことあるでしょ?」
店員「それを知って、妹ちゃん、顔真っ青になっちゃったらしくて……」
男「そこから……喧嘩か」
店員「妹ちゃんは、親友に……」
店員「お父さんの会社を継いで欲しい、的なことを言ってたみたい」
店員「両親に言われても、それこそ、全く相手にしなかったみたいだけど」
店員「アイツも妹のことはとても大事に思ってたから……」
店員「だから、彼女の話を無視することは出来なかった」
店員「でも、自分は写真家の夢を追い続けたい……」
店員「ね? 話は平行線でしょ?」
男「…………」
店員「結構、きつい喧嘩の時もあったみたいよ」
店員「親友も頭に血が上ると、冷静じゃなくなる時があったから……」
店員「……まあ、何となく、想像はつくかな」
男「……そうか」
店員「参考になった?」
男「ん……」
男「何となく、掴めてきたかもしれない」
店員「そう……それなら、私も良かった」
男「……今日は、本当にありがと……」
店員「いえいえ、どう致しまして」
男「…………」
女「おはようございます、部長」
男「おはよう」
女「……どうでしたか?」
男「ああ、話を聞かせて貰った」
女「それで……」
男「はっきりとしたことは分からなかった」
男「けれど……何か、ヒントが手に入った気もする」
女「……そうですか」
女「なら……」
男「ああ、ただ……もう少し待ってくれないか?」
男「まだ全てを受け止める……覚悟が決まらない」
女「……分かりました。言っておきますね」
男「ん……ありがとう」
女「あと……さきほど、社長から連絡がありまして」
男「……社長?」
女「部長に内密な話があるから」
女「今すぐ、部屋まで来て欲しいとのことです」
男「……分かった」
男「行ってくるよ」
女「……はい」
コンコン……。
男「私です、失礼します」
ガチャ……。
男性「すまないな。わざわざ、部屋まで来てもらって」
男「いえ別に……ただ」
男「『内密な話』とは、一体……?」
男性「その前に……少し、昔の話をさせてくれ」
男「……え?」
男性「私の両親のことを君には話していなかっただろ?」
男「……社長のご両親のことですか?」
男性「ああ。私は今でこそ、こうして優雅な生活をしている」
男性「愛すべき妻もいて、家を持ち、子供もいる」
男性「けれど、昔の私は、とても貧しい家庭の子供だった」
男「…………」
男性「両親も入れて、9人家族」
男性「だから、毎日の生活は本当に苦しいものだった」
男「……そうでしたか」
男性「そして、私だけは晩婚の子であったから」
男性「兄たちが働きに家を出て、姉たちは他所の家に嫁ぎ」
男性「そうしているうちに……」
男性「中学の時にはもう、家には私と両親の三人だけで」
男性「あれだけいた家族が……いつの間にか、そこまで減った」
男「…………」
男性「大半の子供を育て上げた事で、父が抱く重圧は消え」
男性「仕事に対して覇気がなくなるようになった」
男性「……気がつけば、勤めていた町工場をクビになり」
男性「そして、毎日、家の中に居続けるように……」
男「……それは」
男性「どうだ? 君が前に話してくれた家庭の状況と似ているだろ?」
男性「実は、君と私、恵まれていない家庭に生まれたのは同じだ」
男性「……ただ、私の父は自分の姿を恥じ」
男性「自殺をするような度胸があるような人間ではなかった」
男性「それが君と私の絶対的な違いだな」
男「……はい」
男性「母はそんな父を蔑み、逆に家にいる機会が少なくなっていった」
男性「家で、だらしない姿で横になり、酔いつぶれた父を見て育った」
男性「もちろん、父を嫌いだったわけではない」
男性「けれど……こんな人間には絶対になるものかと誓った」
男性「君が、母を守ろうと誓ったように、な……」
男「…………」
男性「そして、やっと私は全てを手に入れた」
男性「……それを、今度は君に託す」
男性「その意味が……理解できるか?」
男「……っ」
男性「誰でもいいわけじゃない」
男性「私の後釜を狙っているいやしい重役たちではなく」
男性「君だからこそ……私と似通った君だから」
男性「私の後を継いでもらいたいと思ったのだ」
男「…………」
男性「……根回しは済んだ」
男性「少し強引な手段を使ったことは否めない」
男性「だが、今となっては最早どうだっていいんだ」
男「……はい」
男性「来週……」
男性「会社全体に内示しようと考えている」
男「…………」
男性「……話は以上」
男性「これまでよりもさらに、仕事に励んで欲しい」
男「…………」
男「……あの」
男性「なんだ? 質問か?」
男「…………」
男「一つだけ選べるとしたら……」
男「……社長は……人生で一体、何を得られましたか?」
男「どんな大切なものを手に入れられたと思いますか……?」
男性「………それは」
男「…………」
男「……分かりました」
男「伺った話……しかと頭に焼き付けて」
男「今後も、精一杯の努力を続けていきたいと思います」
男性「ん……願っている」
男「はい。では、失礼致します」
男性「ああ」
男「…………」
……ガチャ。
……………。
男「……ん?」
女「どういった話だったんですか?」
男「俺が次期社長に決まったって話」
女「……へ?」
男「社長だよ社長。この会社のトップ」
女「う、嘘……ええと……冗談ですか?」
男「違う違う。そんな冗談言って、誰が得をするんだ」
女「で、でもそんな……じゃあ、今の社長は?」
男「創業者だし、恐らく会長職を新設して、そこに収まるんじゃないか」
男「ただ、最前線の仕事は俺がやるってことになる」
女「す、すごいじゃないですかっ!」
男「……まあな」
女「でも、部長、嬉しそうじゃないですね……」
男「気付かされた事があってな」
女「……部長?」
男「……確かに、そうなのかもしれない」
男「幼少の頃の環境のせいで……」
男「俺は自己を犠牲にして、生きるようになった」
男「社長は自己の目的のためだけに、生きるようになった」
男「……その意味は真逆だが、歪さは瓜二つだ」
男「きっと……そう」
男「俺があの人に共感したのも……」
男「……息子になってもいいって思ったのも」
男「そういうことだったんだな……」
女「…………」
男「……でも」
男「もう、俺は違う」
女「……え?」
女「……部長?」
男「……確かに、そうなのかもしれない」
男「幼少の頃の環境のせいで……」
男「俺は自己を犠牲にして、生きるようになった」
男「社長は自己の目的のためだけに、生きるようになった」
男「……その意味は真逆だが、歪さは瓜二つだ」
男「きっと……そう」
男「俺があの人に共感したのも……」
男「……息子になってもいいって思ったのも」
男「そういうことだったんだな……」
女「…………」
男「……でも」
男「もう、俺は違う」
女「……え?」
男「……今日の夜、駅近くの喫茶店で」
男「細かい指定は、そちら様の都合に合わせる」
女「じゃあ……覚悟を決めたんですね」
男「ああ」
男「俺は大丈夫だ」
女「……そうですか」
男「本当にありがとうな……」
男「……君には、何度も助けられた」
男「もしも君がいなければ、今の俺は永遠に変わらなかったかもしれない」
男「今まで通り、運命に翻弄され、諦めていたかもしれない」
女「はい……」
女「……でもね、部長」
男「ん?」
男「……え?」
女「就職先に困っていた私を、秘書に採用してくれた」
女「思えば……全ての始まりはあの瞬間だったから」
男「……ん」
女「だから、あの時にはきちんと言えなかった言葉を」
女「……今度こそは伝えたいと思います」
男「…………」
女「部長、本当にありがとうございました」
女「あなたのおかげで……私は救われた……」
女「……そして」
女「今度は、あの人を救って下さい」
女「……大事な妹さん……いえ、あなたの」
女「──大切な『彼女さん』を」
男「……っ」
女「きっとやれますよ、部長なら」
女「私……そう信じてますから」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「……また寝てるんだな……」
男「ごめんな……」
男「本当は、もっとお前に付きっきりにならなきゃいけないのに……」
男「……今日もこの後、人と会う約束がある」
男「でも、それは必要なことなんだ……」
男「……そうしないと、前には進めないから」
男「だから……」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「…………」
男「今日入れて、あと二日……か」
男「……明日で全てが──」
男「……終わる」
医師「……はい」
男「少しだけ、頼みを聞いて頂けませんか?」
医師「それは……」
男「もし良ければ、明日」
男「この子が目を覚ましたとき、連絡を頂けますか?」
医師「……もちろんです」
医師「ただ、もしかしたら明け方になるかもしれませんよ?」
男「それでもその時には、よろしくお願います」
男「……それと、すみません」
男「こないだは取り乱してしまって……」
医師「いえ……お気持ちは十分に理解できますから」
男「ほんと……駄目なんですよね」
男「急な展開には耐性がついたつもりだったんですけど」
医師「…………」
男「弱い人間なんです、俺は」
男「……だけど、今回は」
男「今回だけは、失敗が許されない……」
医師「……はい」
男「実は、最近、震えるんですよ……」
男「……夜、寝ようと思った時に」
男「本当に自分は正しいのかって」
男「間違ってるんじゃないかって」
男「ただ彼女を傷つけるだけなんじゃないかって」
男「そう考えると怖くて、恐ろしくて……ただ震えます……」
医師「睡眠は取っていますか……?」
男「…………」
医師「妹さんの話以前に、あなたがおかしくなってしまう」
男「……でも、あと一日だから」
男「あと一日……」
男「……それさえ過ぎれば、幾らでも熟睡してやりますよ」
男「だから、俺は大丈夫です……」
医師「…………」
男「……そろそろ時間か……」
妹「……すぅ……すぅ……」
男「じゃあな、妹」
男「行ってくるよ……」
男「…………」
男「……今度会う時は……」
男「互いに、今を笑え合えるような二人でいたいな……」
男「……今日は、お時間をとって頂いて」
男「本当にありがとうございます」
初老「いえ……記者の方とお知り合いだとは」
初老「あなたも、なかなかの人脈を持っていますな」
男「……会社の秘書に頼んだんです」
男「ですから、彼女の友人のご紹介ということになります」
男「決して、私の力ではありません……」
初老「そんなことはありませんよ」
初老「こういった時に頼める知人というのも」
初老「それこそ、あなたの日々の積み重ねですから」
男「…………」
初老「さて……早速ですが、本題に入りましょうか」
男「……分かりました」
男「……はい」
初老「覚えていますよ」
初老「当時は、この地区の警察署に勤務していましたので」
初老「今は引退して、このように探偵業をしていますがね」
男「……それで、彼は……」
初老「車の事故と彼の父親はおっしゃったようですが」
初老「あなたが調べたように、その日、そのような交通事故はありません」
男「…………」
初老「図書館で、地元の新聞記事を探したそうですが」
初老「非常にいい方法でした。素人にしては、よく考えたものです」
男「……ただ、そこからが」
初老「はい、ここからはそう簡単に真相へたどり着けない」
初老「けれど、今回の場合は、偶然、私が当たっていた事件だったので」
初老「すぐに分かりましたよ」
男「…………」
男「……階段?」
初老「あなたが、想像していたものと違いました?」
男「いえ……続けて下さい」
初老「事件があったのは、ちょうど冬の夜のことで」
初老「一度、親友さんは救急車に乗って運ばれましたが」
初老「まもなく病院で死亡が確認されました」
男「…………」
初老「そこで、調査に当たったわけですが」
初老「事件現場は、自宅の階段」
男「……あの急な階段ですか」
初老「ご存知ですか? 彼は二階から転がり落ちてしまった訳です」
男「……もちろん、事故ですよね?」
初老「そうです。そのように処理致しました」
初老「身体に外傷もありませんでしたし」
初老「彼はその日、酔っていたことが分かりましたので」
男「そうですか……」
初老「ただ……」
男「……え?」
初老「一つ、私は気になることがありまして……」
初老「……こういってしまうと何ですが」
初老「時に警察は、事件を典型例に当てはめて、流してしまう傾向があります」
男「……今回は、そうだと?」
初老「いや、断定は出来ませんし、もう六年も前のことです」
「……ですが、当時の私が不審に思った点を話させて頂きます」
男「……それは……」
初老「──────」
男「…………」
男「……父親が自殺した時」
男「糞尿の臭いに吐き気を催しながら、俺は父に約束した」
男「絶対に強い男になるって」
男「母を守れるようになるって」
男「……結局、母さんは肺がんで死んでしまい」
男「俺は父との約束を守ることが出来なかった」
男「……なあ、父さん」
男「あんたは家庭をいつも蔑ろにして」
男「……酒は飲むは煙草を吸うは、最低の親だった」
男「……だって、父さんは、俺には優しかったから」
男「一度だって、俺に暴力を振るったことはなかったから」
男「会社をクビになって、酒に溺れたあの日も」
男「……寸前のところで留まってくれた」
男「だから、今の俺がいる……」
男「……相手のことを考えられる人間になれたんだ」
男「これは、父さんのお陰だよ」
男「……そして、母さん」
男「最後の死に際に、顔を見せてあげられなくて、ごめん」
男「謝るのは、これで、何度目かだけど……」
男「今後は……もう謝らないから……だから……」
男「守れなくて、本当にごめんなさい……」
男「ん……これで終わり」
男「でも、その代わり……言いたいこともあるんだ」
男「……あなたは、俺の根本を作ってくれた」
男「常に温かく、俺を包んでくれた」
男「……人を愛するということを、教えてくれた」
男「母さんには、ほんと頭が上がらないなぁ」
男「そんな……俺の誇れる母さんには、この言葉を」
男「ありがとう、母さん」
男「……本当にありがとうね……」
男「じゃあ……二人とも、あの世では仲良くやってくれよ?」
男「今まで見苦しい姿を見せて、二人には心配させたと思う」
男「でも、もういいんだ」
男「……俺を見守る必要はないから」
男「自分のやるべきことは……分かってる」
男「だけど……ただ一つだけ」
男「俺がそっちに行った時に聞かせて欲しいな……」
男「俺は……」
男「強い男になれたかな……?」
男「二人が自慢できるような、立派な息子になれた?」
男「……もう一つの約束を守れたかどうか」
男「聞きかせてくれ……」
男「…………」
男「じゃあ、二人とも」
男「全てが終わったら、また来るからさ」
ガチャ……。
男「……お疲れさまです」
男性「来るが遅かったな……もう、妻も寝たぞ?」
男「すみません、無理いって起きてもらって」
男性「それは構わないが……どうした?」
男「はい?」
男性「……最近の君は、いつも、どんよりとした表情だったが」
男性「今は、随分、清々しい顔をしてるんじゃないか」
男「そう見えますか?」
男性「ああ、心配していたから、安心した」
男「それは、ありがとうございます」
男性「ほら、君も飲みなさい」
男「あっ、いえ、俺は結構です」
男性「ん? 遠慮しなくていいんだぞ?」
男「まだ頭を動かさないといけないんで……やめておきます」
男性「……で、妹のところに行ったから遅れたのか?」
男「いえ、彼女のところには夕方行きました」
男「案の定、眠っていて、話は出来ませんでしたが……」
男「……それでも、顔が見られただけ、満足です」
男性「そうか……」
男「明日ですね」
男性「ああ……明日だ」
男性「……あと、数十分で零時を回るな」
男「そして明日……」
男「彼女が一度だけ目をさまして……」
男「再度、深い眠りにつきます」
男性「……ん」
男「先生に、どれくらい起きていられるか聞いたんですが」
男「約三十分しかないだそうです」
男「はい。それに……」
男「記憶をほとんど失っている状態であると予想されるので」
男「満足のいく会話は出来ないかもしれません」
男性「…………」
男「それでも俺はアイツの元に行くつもりです」
男「お二人はどうします?」
男性「……私たちは遠慮しておく」
男性「そんな姿のあの子を見るのは、辛過ぎるからな」
男「……そうですか」
男性「すまん……君に任せっぱなしで」
男「いえ……俺が好きでやっていることですから」
男性「……ありがとう」
男「実は、今日」
男性「……ん?」
男「久しぶりに自分の家の墓を掃除してきたんです」
男「……胸が晴れました」
男性「…………」
男「死んだ父は最低な人でしたし」
男「俺の家庭は恵まれていなかった」
男「……けど、今、考えると……」
男「それはそれで……仕方なかったことなのかなって」
男「今の自分がいるのも……」
男「そういったものを乗り越えてきた証なんだって」
男「思えるようになった自分に、驚きました」
男性「……それは、良かった」
男「今まで、俺は自分のためではなく」
男「誰かの為に、誰かの犠牲になって、生きてきました」
男「……だけど」
男性「……ん?」
男「初めに謝っておきますね」
男「俺は……昔のアイツが消えるのを放っておくことができない」
男「最後まで諦めずに、彼女の記憶が戻るために必死になります」
男性「……ちょ、ちょっと待て………」
男「それは、もちろん、彼女のためでもあります」
男「無意味に消えていった彼女『たち』のためでもあります」
男性「なら……」
男性「それは、今までの君のままじゃないか……」
男「……違うんですよ」
男「アイツが過去を取り戻すことは、俺の望みにもなりうる」
男「記憶を戻した暁に……」
男「俺には伝えたいことが山ほどあるから……」
男性「…………」
男「だから、あなたに、もう一度聞きますね」
男性「…………」
男性「……それは、前に説明したはずだ」
男性「妹を迎えるための……車で……」
男「──事故にあった」
男性「……その通りだ」
男「でも……事実は違った」
男性「……どういう意味だ?」
男「…………」
男「階段から……」
男性「……なっ」
男「……階段から、転げ落ちてしまったそうですね」
男性「…………」
男「葬式でさえ、それを公表しなかった」
男「どうしてですか?」
男性「……それは」
男「家族を守るためですか?」
男「死んだ息子の名誉守るため?」
男「……それとも」
男「──妹を守るためですか?」
男性「……っ」
男「……当時、警察署に勤めていた方に話を伺うことが出来ました」
男性「君は……」
男「その方が言うには、不審に思える点が一つあったそうです」
男「あなたには、推測できますか?」
男性「…………」
男性「……それが、何か問題か?」
男「通常、階段を滑り落ちるなどして転落死した場合」
男「身体のあちこちに打撲が見られ」
男「頭部のどこかを打ち付けて、死ぬことが多いそうです」
男「だから、後頭部に傷があるのは当たり前だと」
男性「なら、何の問題もないじゃないか」
男「……親友の身体は」
男「背中や腕……特に腰に強い衝撃の後がみられ……」
男「……頭は後頭部の一カ所しか打っていません」
男「ただ……その衝撃が、異常なほどのものだっただけ」
男性「…………」
男「転がり落ちたというより……」
男「『天を仰ぐように、仰向きで、下に叩き付けられた』」
男「そんな……衝撃だそうです」
男「アルコール成分が検出されたことから、事故と判断した」
男「けれど、その場にいた一人の警官は思ったそうです」
男「──『誰かに突き落とされた可能性もあるのではないか』と」
男性「……言いがかりだ」
男「その当時の妹は……話によると」
男「親友とよく口論になっていたそうですね」
男「危険な土地に行く、写真家を目指していた兄を心配して」
男「あなたの会社で働くことを強く勧めていたようで」
男「けれど、親友としては、昔からの夢を諦めることは出来ない」
男「違いますか?」
男性「君は……一体、何をしたいんだ?」
男「…………」
男性「真犯人でも見つけて、探偵気取りで、警察に突き出すつもりか?」
男性「それが、君の見つけたやりたいことなのか?」
男「……俺はただ」
男「真実を知りたいだけです」
男「アイツが記憶を失った訳を……理由を」
男「それを知らないままだったら、前には進めないから」
男性「……そこまで言うなら」
男性「ここからは、君の質問には正しく答えることする」
男性「ただし……結末は保証せんぞ?」
男「…………」
男性「君の言う通り、うまくいっても」
男性「……あの子は自殺するに決まっている」
男性「……そう」
男性「……自責の念にかられて……」
男「……自責ですか?」
男「兄の死に、アイツは自殺するまで追い込まれていた」
男「今までの仮定を全て考慮して、分かった事は一つ」
男性「…………」
男「では、聞かせて貰います」
男「あなたは正しく答えると言ってくれたから」
男「……だから、その言葉を俺は信じますよ」
男性「…………」
男「……恐らく、本当に事故だったんだと」
男「でも、偶然に……親友を階段から突き落としてしまった……」
男性「……ああ」
男「……妹……」
男「──ではなく、あなたですね?」
男性「…………」
男「そこまでして、彼女が記憶を取り戻す事に抵抗しなくても、と」
男「それも……見知らない第三者を兄に仕立てあげるまでして……」
男性「……自分をそこまで言うのか……」
男「だって、幼少の頃、俺はあなたと一度も会ったことはない」
男「仕事が命だったあなたが、家族と食事を共にするようになったのは」
男「ごく最近の話なんじゃないですか?」
男性「……それは」
男「妹が親友を……とは全く思いませんでした」
男「死ぬ直前に、結構な量の酒を飲んでいた親友です」
男「普通に考えれば、あなたと飲んでいたと考えるのが正しい」
男性「…………」
男「……教えて下さい」
男「……事故だったんですよね?」
男性「…………」
男性「……君の言う通りだよ」
男「え?」
男性「私は今まで家族のことを大切にしてこなかった」
男性「今のように早く帰るようになったのは……」
男性「息子が死に……あの子が記憶を失ってからだ……」
男性「……それまで、仕事だけに人生をかけてきた私は」
男性「子供たちの成長をほとんど見守ることもなく……」
男「…………」
男性「……初めて、自分が引退することを考えたとき」
男性「息子に継がせたいと思った……けれど」
男性「遅かったんだ……それは……」
男性「そう……そんなことすら知らずに……」
男性「当然と継ぐものだと考えていた私は愚かだ」
男性「そしてあの日……」
男性「久しぶりに外国から帰ってきた息子が家にいて」
男性「夕飯を食べた後……アイツの部屋に行った」
男「お酒を持って……」
男性「初めは最近のことなど笑って聞いていてくれたんだが……」
男性「……私が段々、話を仕事に方向を変えると」
男性「アイツは失望するように、部屋を出て行こうとした」
男性「それを……私は服を掴んで、行かせまいとして……」
男性「それで二階の廊下で、押し問答をしていた」
男性「ただ成長したアイツの力は思った以上に強く」
男性「……すぐに階段の前まで来てしまう」
男「…………」
男性「その時……確かに、その時だった……」
男性「そして………」
男性「娘に、喧嘩している姿を見せたくなかった私は……」
男性「瞬間的に、息子を突き放してしまった」
男「……はい」
男性「全て君の言った通りだ……」
男性「……私が、あの子を殺した……」
男「違いますよ……事故です」
男「事故なんですから……」
男性「本当はな、警察が調査に来た時、自首していれば良かったんだ」
男性「けれど、私は……今の家族が崩壊する事を恐れ」
男性「会社の失墜を考え……それをしなかった」
男性「……口止めをされた娘は……」
男性「兄の死と、それを我慢しなければならない重責に耐えかけて」
男性「風呂場で手首を切って、自殺を謀った」
男「…………」
男性「こうなってしまったのは……私の……」
男「……社長」
男性「すまん……君に真実を話さなくて……」
男性「もう少し経ったら言おうと……常に考えて」
男性「けれど、いつの間にか、君を本当の息子と思ってしまった」
男性「アイツと出来なかった、仲の良い親子の関係を……君に求めた……」
男性「……君に、失望されるのが、怖かったんだな……」
男「…………」
男性「すまない……本当にすまない……」
男性「私は……世界で一番、大切にしなければいけない子供たちに」
男性「なんてことをしてしまったんだっ……」
男性「これが……仕事に命をかけて……」
男性「父のようになるまいとした……結末なのか……」
男「…………」
男性「これから、何をすれば、償えるんだろうか?」
男「……絶対に」
男性「え……?」
男「死のうなんて、考えないで下さいね」
男性「…………」
男「それは逃げですよ? 親友への償いではなく冒涜です」
男「……残された人間のことを、考えなくてはいけません」
男性「……っ」
男「何をすべきか、どうすればいいのか」
男「それを話し合ってこその家族だから……」
男「もちろん、妹も入れてですよ?」
男性「……あ……ああ……」
男「……だから」
男「アイツは俺が救う」
男「……俺が、なんとかして、記憶を取り戻させる」
男「そうしないと、いつまで経っても」
男「──この家族は……前に進めないのだから」
男「…………」
男「……本当は」
男「俺が読んでいいものじゃないはずだけど……」
男「……でも」
男「今、俺の胸に抱く想いが……」
男「確かなものだって、確認させてくれ……」
男「……ごめん」
男「…………」
男「……20×1年4月……」
男「……あれは……確か……」
男「…………」
ぺらっ……ぺらっ……。
男「……これだ」
男「……アイツが誕生日だった、あの日……」
……………。
………。
今日は、わたしの誕生日。
今までの記憶はないけれど、
確かにこの日、わたしはこの世界に誕生した。
そんな記念すべき今日を祝うために、
いつもより詳細な日記を書こうと思う。
……………。
朝、とても気持ちよく目覚める事が出来た。
部屋の窓を開けると、向かい側に見える桜の木が、
風に吹かれて、花びらを舞い散らせている。
小鳥が可愛い鳴き声で、二、三、囁く。
そんな綺麗な光景を、ただ、笑みを浮かべて眺めていた。
新しい自分になってから、もうすぐ一年経つけれど、
まだ記憶を失わず、今を生きていられる。
他人から見れば、そんな些細な事実が、
わたしにとっては、とても嬉しかった。
うん、今日も頑張ろう。
……………。
いつものように、みんなで朝食を食べる。
けれど、自分は少しドキドキしていた。
もちろん、プレゼントを貰えるんじゃないかって、
そんな図々しい期待からじゃない。
隣に座る、お兄ちゃんの方をバレないように横目で伺いながら、
彼が、だし巻き卵を箸で掴んだとき……一瞬、びくってなった。
お母さんだけが知っていることだけど、
わたしも毎日、一品作る事にしていた。みんなには内緒で。
もぐもぐとお兄ちゃんが食べてくれている間、
胸の鼓動はずっと高まっている。
それを必死で気付かれないように、ご飯の茶碗で顔を隠したりして……。
すると、お兄ちゃんが言ってくれた。
『このだし巻き、おいしいな』って……。
お世辞じゃない、本当の褒め言葉。
こんなに嬉しいことはない。
一人で、ニコニコしていると、
向かい側のお母さんがウインクしてくれた。
やりましたよ、お母さん。
……でも、何でなんだろう。
お兄ちゃんとは、ただの兄妹なのに、
こんなに、気にしちゃうなんて……やっぱり、わたしが病気だからかな?
よし、洗濯物を干さないと。
……………。
凄い凄いっ!
今、とっても最高の気分っ!
ないと思っていた誕生日プレゼントが、
まさか家族のみんなから貰えるなんてっ!
お父さんは、ちょっと可愛過ぎる腕時計。
お母さんは、なんと、赤色のフードプロセッサーをくれたっ!
ナイスチョイスですねっ! 二人とも、本当にありがとうっ!
そして……お兄ちゃんもくれた。
指輪。
キラキラする宝石はついてない、とてもシンプルなやつだけど、
裏側に文字が書かれている。
正直なところ、貰った時、泣きそうになった。
自分でも分からないぐらい、嬉しさと……
でも、なぜか悲しみが沸き起こった。
なんでだろう……なんで悲しいんだろう?
これは多分……昔のわたしが泣いているんだ。
根拠はないけど、ただそう思う。
お兄ちゃん……あなたは一体……。
最近、お兄ちゃんの顔が正面から見れない。
前よりも胸が熱くなって、苦しくなる。
指輪を貰ってからだ。
きっとこれは……右の薬指にある指輪のせい。
お兄ちゃんは気付いているのかな?
わたしの気持ちに……気付いてないのかな?
この日、なぜか怖くて寝付けなかった。
お兄ちゃんとお父さんが会社に向かって、
お母さんが買い物へ行った時。
わたしは家を探索することにした。
今更になってだけれど、昔の思い出を探したかった。
昔のわたしとお兄ちゃんが、
どんな関係だったかを知りたい。
勝手にお母さんの部屋に入る。
ごめんなさい……。
色々、探していると机の下から、アルバムが出てきた。
急いで開いてみると、
そこには小さかった頃の自分がいた。
時には泣いていたり、笑っていたり……
とても生き生きとしている。
けれど、お兄ちゃんの写真が一枚もない。
アルバムの大半が、なぜか抜き取られていた。
分からない。
一体、どういうことなんだろう。
……もしかして。
いや……でも。
一週間、こないだのアルバムのことを考えていた。
どうして、お兄ちゃんの写真がないのか。
その不自然な事実に、頭を悩ませていた。
……でも、何となく、気付いている。
多分、お兄ちゃんは……わたしの本当の兄じゃないんだ。
何らかの理由で家族の一員として、
わたしの兄を偽っているけど、実は、血の繋がりはない。
そう思うと、本当は怖くならなきゃいけないのに、
凄く気楽になれた。胸の痛みが取れるようだった。
その時に、はっきりと分かる。
わたし、お兄ちゃんが好きなんだ。
異性の対象として、あの人を愛している。
どうして今まで気付かなかったんだろう?
こんな大事な自分の気持ちに……。
うん、わたしはあの人が好き。
今日は、嫌な日。
月に一度に行かなきゃいけない、検査の日だ。
この日は嫌いだ。
だって、わたしが病人なんだって、
否応にも気付かされてしまうから。
車の中で、どんよりとしてたら、
お兄ちゃんが気を使って、話しかけてくれた。
優しい言葉をかけられて、
本音をぶつけてしまう。
六年か……わたしが、記憶を失ってから。
その間、何度も初めてを繰り返して、
それをお兄ちゃんは横で見守っててくれたんだと思う。
『今度も駄目だと思う』と、伝えたら……
お兄ちゃん、凄く悲しそうな顔をした。
すると、お兄ちゃんが指輪の話題を振ってきた。
内心、自分の気持ちに気付かれたと思って、
凄く焦ったけど、違ったみたい。
前に進む、か。
よく、お兄ちゃんは、そう言っている。
口癖みたいなものだ。
でも、わたしはそんな前向きなお兄ちゃんが大好き。
けれど、少し不安に思う事もある。
昔のわたしは、同じように、
この人を好きなったのだろうか。
そうだったら嬉しいけど……どうなんだろう?
最近、頭が痛いときがある。
多分、今も残っている昔の記憶が疼くのかな?
けれど、思い出す事はできない。
いっそ、全て分かれば、楽なのになぁ……。
一年を越えて……もうすぐ一ヶ月?
少し嫌な予感がする。
日に日に、頭の痛みが繰り返される。
これは恐らく、まずい兆候なのだと思う。
今までは、何事もなく過ごしていたから、
記憶を失う恐怖を忘れていた。
でも、ここにきて、眠れない日が続いている。
忘れたくない。
忘れたくないよ……。
せっかく、楽しい日々が続いていたのに、
これが全部、なかった事になるなんて……
そんなの耐えられない……。
この想いは?
今の、この気持ちはどこにいくの?
あの人が好きなのに……。
こんな大事なことも、忘れてしまうのだろうか。
嫌だ……もう嫌だ。
こんなのって、ないよ……。
今日で日記を終えよう。
理由は、正直、もう限界だと思うから。
いつ、記憶を失ってもおかしくない状態だ。
何故分かるかは分からないけど、
これも経験から来る予感なのかもしれない。
とにかく、この日記を今まで続けた自分を褒めてやりたい。
だって、これさえ読めば、
次のわたしも、同じように、あの人を好きになるはずだから。
忘れないで、わたし。
あの指輪が、あなたを次へと結びつけるはず。
だから……諦めないで。
指輪は左薬指に填めることにする。
だって、その方が意味深だから。
次のわたし、疑問に思ってね。
その指輪が誰の贈り物なのか、悩んで。
そうすれば、きっと。
答えにたどり着くはずだから。
……………。
………。
男「……ッ」
男「……うっ……」
男「……ううっ、ああっ……」
男「……駄目だ……」
男「泣くんじゃ……ない……」
男「…………」
男「……気付いてたんだな?」
男「俺が……本当の兄じゃない事……」
男「それも全部……」
男「……待ってろ」
男「すぐに、助けてやるから」
男「……絶対に」
男「絶対に救ってみせるっ!」
──ピピピピピピッ!
男「…………」
男「……時間だ」
たったったった……。
男「……はぁ……はぁ……」
男「……はぁ……」
医師「お兄さん……来ましたね」
男「アイツは……妹は……」
医師「電話で話した通り、さきほど目覚めました」
医師「しかし……まさか、こんな早くなるとは」
男「あと、あと何分あります……?」
医師「十分……それが、限界だと思います」
男「……十分?」
男「くそっ、時間がない……」
医師「…………」
男「……あ」
妹「……ん?」
男「…………」
妹「……ええと……」
妹「……どなたで……」
妹「──違う……違う……」
男「……え?」
妹「お兄ちゃん……この人は……」
妹「……お兄ちゃん……」
男「ああ……」
妹「……来てくれて、ありがとう……」
妹「でも、ごめんなさい……わたし、頭がぼーっとしてて」
妹「何にも浮かばないんです……何も……」
男「…………」
妹「……指輪……」
妹「この指輪……誰から……」
男「……っ」
男「……俺がっ」
男「俺がお前の誕生日に贈ったっ!」
妹「……お兄ちゃん……が?」
男「違う……俺は……」
男「……違うんだ……」
妹「……え? でも……」
男「……くそっ、どうすれば……」
男「……どう言うのが正解なんだよっ……」
男「…………」
男「落ち着け……一旦、落ち着くんだ……」
男「……ふぅー……」
男「……いいか」
男「これから俺が話すことを、注意深く聞いて欲しい」
男「……頭が回らないかもしれないけど、本当に頼む」
妹「……はい、頑張ります……」
男「……まず」
男「俺は……お前の兄じゃない」
妹「……え?」
男「『お兄ちゃん』じゃない」
妹「……お兄ちゃんじゃ、ない……?」
男「ごめん……今まで騙してて……」
男「ずっと、六年間も、お前に嘘ついてて……」
妹「…………」
男「……俺は……」
男「お前の本当の兄である親友の友人で……」
男「……覚えてないか?」
妹「……すみません……」
男「……っ」
妹「あの……」
妹「その当時の、わたしは、なんて?」
男「ん……?」
妹「あなたのことを、なんて呼んでたんですか?」
男「……『兄さん』」
妹「……兄さん……」
男「親友の後ろの隠れる、小さな女の子が可愛くて」
男「自分の妹にしたいなって、考えた」
男「……だから、『兄さん』」
男「そう君に……呼ばせてた」
妹「……兄さん……兄さん……」
男「どうだ? 思い出さないか?」
妹「ん……何か、頭にひっかかります……」
妹「……とても大事なことを……わたしは……」
妹「……うっ……」
妹「痛い……頭が痛いっ……」
男「だ、大丈夫か?」
妹「…わたしのことはいいですから……」
妹「……もっと聞かせて下さい……二人のことを……」
妹「……本当のわたしと、兄さんの関係を……」
男「……ああ」
男「いつも大の仲良しで……何をするにしても、三人だった」
男「外で遊んだり、家でゲームをしたり」
男「そうやっていられる仲だったんだ……」
妹「……は、はい……」
男「でも、ある時、気付いちまった」
男「……自分が、抱いてはいけない想いを持ってるって……」
男「それで……」
妹「……あ……」
男「いつからか、疎遠になった……」
男「俺は……お前を遠ざけようとしたんだ」
男「妹として見なきゃいけないお前に」
男「……違った感情を覚えた自分を嫌った」
妹「……ん……」
男「変化することは、何かを壊してしまうことなのだと」
男「……そう、勘違いしていた」
男「本当に馬鹿だよな……」
妹「……それで……?」
男「結局、お前の本当の兄に怒られたけど……」
男「……俺の家族に悲しいことが起こってしまって」
男「離れ離れになってしまった……」
男「……別れも言えないまま、な……」
妹「…………」
男「覚えていないか? 俺のこと……」
男「『兄さん』って呼んでいた少年のこと」
男「……君は……」
妹「……すみ、ません……」
男「…………」
男「……そうか」
男「なら、仕方ないな……」
男「いいんだ」
男「まあ、こうなってしまったら」
男「……もう、俺に残された切り札はない」
男「だから……」
男「昔のお前に言えないのなら……」
男「……今、伝えてもいいか?」
妹「……え?」
男「俺の想い……聞いてもらっても良いか?」
妹「……それは……」
妹「……ん……あ、眠い……」
男「──好きだよ……」
妹「……あ……」
男「お前のことが、昔から大好きだ」
妹「……ああ……」
男「……結局、俺はお前を好きになった」
妹「……あ、あっ……」
男「何度も何度も、お前は記憶を失ったけど」
男「そのたびに……俺はお前を好きになった」
妹「……んっ……」
男「……そう」
男「これが俺が望んだ事」
男「……見てみぬ振りをしてきた、違和感の正体」
男「俺は……お前に想いを伝えることを我慢していた」
男「ずっと……中学時代のあの時から……」
妹「…………」
男「でも、今なら言える」
男「俺は……本当に、お前が好きだから……」
妹「…………」
妹「……すぅ……」
男「……っ」
男「……あ、ああっ……」
男「……なんで」
男「……なんで、何だ……?」
男「何で、うまくいかない……」
男「……二人の関係が……最後が……」
──こんな結末なんて……。
………。
……………。
男『ん?』
親友『世の中には、「弱肉強食」って言葉があるだろ?』
男『ええと、弱いものは強いものに食われるってことだっけ?』
親友『そうそう、もっと具体的に言うとさ』
親友『この社会は弱い奴の犠牲によって栄えてるってこと』
男『……う、ん』
親友『お前はそれ、どう思う?』
男『つまり、強者と敗者がいるってことだよな』
親友『そうそう。んで、敗者は要は社会の犠牲者みたいな感じかな』
男『……んーなんだろうな』
親友『結局、勝者ってのは、自分の思い通りになんでも出来る訳』
親友『でも、みんなが思い通りに行動をしてたら、社会が回らなくなる』
男『それは俺でも分かるよ』
親友『じゃあ、我慢してるのは?』
男『敗者?』
男『……うわぁ……大人になりたくねぇな……』
親友『もし仮にさ、将来、俺たちが勝者じゃなくて敗者になっちまった時』
親友『どうすれば、そこから抜け出せられると思う?』
男『いや、もう無理なんじゃない?』
男『貧乏くじ引いてる時点で、もう泥沼じゃん』
親友『うん……そう普通は思うよな』
親友『でも俺、気づいちゃったんだよ』
男『何を?』
親友『とっておきの、抜け出し方法』
男『……え?』
男『教えてくれよっ』
親友『仕方ないなぁ。本当は誰にも言いたくないんだけどな』
親友『……お前だけは特別だ』
男『さすがっ!』
親友『方法は簡単さ。よく聞いとけよ?』
親友『それは……』
親友『──敗者の役をやめてしまえば良いっ!』
男『どういう意味だ……?』
親友『社会の構図に囚われているから』
親友『敗者だとか勝者だとか余計なことを考えるんだ』
親友『だから、そこから抜け出したい時には』
親友『「自分は敗者なんかじゃない」』
親友『「犠牲がなんだっ。貧乏くじがなんだっ」』
親友「そうやって、自分に言い聞かせれば良い』
親友『それすれば次第に……」
親友『そんなちっぽけな枠組みに囚われないようになるさ』
男『……ちょ、ちょっと待てよ』
親友『ん? なんか不満か?』
男『不満も何も……』
親友『……そうか?』
男『何だよ、何が簡単な方法だ』
男『聞いて損したなぁ……』
親友『……なんだよ……』
親友『せっかく、教えてやったのに……その態度……』
親友『……ちぇっ』
親友『でも、いい案だと思うんだけどなぁ……』
親友『……んー』
……………。
………。
妹「……すぅ……すぅ……」
妹「……ん……」
男「……うそ、だろ……?」
妹「…………」
男「……だって……」
妹「……あれ?」
妹「『兄さん』……?」
男「…………」
男「……あ、ああ……」
男「──妹っ!」
妹「ちょ、ちょっと、急に、一体……」
妹「……ま、前にも言ったじゃないですかっ」
妹「抱きつく時は……事前に……って」
妹「……え……?」
男「……思い出したんだな?」
妹「わたし……」
男「全部、思い出したんだなっ?」
妹「……ああ」
妹「お兄ちゃんが……お父さんに押されて……」
妹「階段から落ちて……」
妹「……それで、それで、わたし……」
……ぎゅっ!
男「いいんだ……いいんだ……」
妹「に、兄さん……兄さんっ……」
男「一人で耐える必要はない……」
男「……俺が……俺が背負ってやるから……」
男「お前と一緒に……これからずっと……」
妹「……っ」
妹「…………」
妹「……うぅ……」
妹「…うぁぁぁぁっ……」
男「…………」
……………。
妹「……兄さん?」
男「もう、泣くのはいいのか?」
妹「うん……また泣きたくなったら……」
妹「その時はわたしと一緒に、泣いてね……?」
男「ああ……もちろんだ」
妹「……全部、思い出したよ」
妹「昔の事も……わたしが死のうと思った時のことも」
妹「……そして……」
男「ん?」
妹「指輪……ありがと」
男「……あ……」
男「お、お前……まさか……」
妹「うん……本当に、兄さん、ごめんね……」
妹「この六年間……ずっと、わたしのためだけに……」
妹「ありがとう……本当にありがと……」
妹「それに、さっきの返事も言ってなかった」
妹「……あんな嬉しい告白してくれたのに……」
男「それは……」
妹「だから……兄さんにはもう気付かれてると思うけど」
妹「……はっかり言います」
妹「わたしも、兄さんのことが、大好きでした」
妹「ずっと昔から……そして、今も……」
妹「記憶を失ってからも……それだけは、忘れなかったよ……」
妹「わたしも、兄さんが本当に好きだからっ……」
男「……ああ……」
男「どうした……?」
妹「最後に……一つ言わせて」
男「ん?」
妹「六年間……ずっと『お兄ちゃん』の代わりをしてくれたけど」
妹「……もう、それはしなくていいですから……」
男「…………」
妹「昔みたいに……今のように……」
妹「……ずっと……」
──『兄さん』って、
呼ばせて下さい……──
-The End-
まじお疲れ
そしてありがとう
綺麗に終わってすっきりした
乙!!今までありがとう
朝からおお泣きさせられたよ・・・
ありがとう!
乙!おれも妹が欲しくなった…
年に1,2を争う良SSだった。
ハッピーエンドだな
涙が止まらない
引用元: 妹「兄さんって呼ばせて下さい」
引用元: 妹「兄さんって呼ばせて下さい」