猫「どうした人間。そのように呆けた顔をして」
男「いえ。弐拾余年生きてきましたが、
猫が喋ったのを見るのは初めてなもので」
猫「そうか。それにしては驚かないのだな」
男「いえいえ。こう見えて私は驚いているのですが」
皆最初はもっと大袈裟に驚いて見せたのだがな」
男「そうですか。それで、その猫さんが私に何の御用でしょうか。
道にでも迷われましたか?
しかし申し訳ありませんが私も今日この街に来たばかりで」
猫「吾輩はこの街にもう何拾年も住んで居る。道に迷いなどするか」
男「では一体なにを」
猫「お主、何か望み事は無いか?」
男「……はい?」
猫「――その願い、この吾輩が叶えてやろう」
猫「ええい。何かあるだろう。金が欲しいだとか、女が欲しいだとか」
男「ふうむ。そうですね……。
しかし猫さん、ひとつ尋ねても良いでしょうか?」
猫「なんだ」
男「何故猫さんは私の願いを叶えるなど、物好きでもしないような事を
なさろうとしているのでしょう」
猫「ええい。そのような事はお主には関係は無いだろう。
吾輩は与えると云って居るのだ。お主は只、其れを享受すれば良いだけの話し」
男「これは困りましたね。――あぁ、そうだ!」
猫「何か願いが決まったか」
男「実は私、下宿先である先生のお家への道に迷って居りまして。
無事に其処まで行きたいのですが」
猫「……」
男「難しいお顔をされて、どうされたのです?」
猫「――いや、変な人間だと思ってな」
男「面白い事を言う。変なのは人の言葉を喋る猫さん、貴方の方でしょう?」
猫「なんだ。そんなもの別段珍しくも無いだろう」
男「いえ。私の里にはこのような瓦斯灯も、煉瓦造りの家も在りませんでした」
猫「……そうか」
男「あ、あれは何でしょう。何やら女学生が奇怪な乗り物に……」
猫「あれは自転車と謂う物だ」
男「自転車……乗っている女学生も随分とハイカラな方でした」
猫「なんだ。惚れたか」
男「そ、そのような事は」
猫「事の序でだ。道案内だけでは願いを叶えた気もせぬ故、力を貸してやっても良いぞ」
男「わ、私は勉学の為に東京にやって来たのですっ」
猫「っくくく。……まぁ、気が変わったら謂うが良いさ」
男「先生は御高名な方です故」
猫「では吾輩は之で」
男「おろ。行ってしまうのですか」
猫「この辺りでぶらぶらしているさ。
何か道案内以外の願いが決まったら謂いに来ると良い」
男「解りました。ではまた」
猫「ふん。つくづく解せぬ人間だ」
男「行ってしまった……。さて、御免下さい」
しーん。
男「おろ。……御留守ですかね。
仕方無い。暫く何処かで時間を潰して出直すとしましょう」
キキィッ。
男「ん? 先程の自転車とやらの音が……」
女「……何方様?」
女「何を謂っているの?」
男「いえ、先刻貴女を街で見掛けまして」
女「……そう。それで、何かわたしの家に御用?」
男「今日より此方に下宿をさせて戴く事になって居ります、男と謂います」
女「ああ。貴方が例の書生の」
男「……」
女「あの? 聞いています?」
男「あ……いえ。そう謂えば先生は何方に?」
女「ああ、お父様ならば」
男「ふむ」
女「お母様と英吉利に渡って居る最中だけれど?」
男「……おろ?」
――――
女「此方が貴方のお部屋」
男「一つ、宜しいでしょうか」
女「何か?」
男「東京の御家と謂う物は、この様に沢山の部屋を持って居るのが通常なのですか?」
女「いえ……余り他所様の御家の事は解らないのだけれど」
男「ふぅむ」
女「――あぁ、そう言えば」
男「何か?」
女「隣の御部屋にはまた別の書生の方が御住いだから」
男「やはり先生は何時でも書生の御力になって下さっているのですね」
女「そのような大層な事では無いわよ。
空いた部屋ばかりでも勿体無いだけじゃない」
男「はぁ」
男「何か?」
女「今は家事や雑務は隣のもう一人の書生がやって居るから。
明日からは彼と手分けをしてやって貰うことになるわね」
男「はぁ」
女「しかしお父様のお考えも私には良く解らないわ」
男「……?」
女「わざわざ地方から書生を呼んで住まわせるのだから、
一体どんな秀才かと思っていたけれど。
こんなうだつの上がらない男だったとはね」
男「なっ」
女「……では、私は自室に戻るから」
パタンッ
男「な、何なんだ……」
男「これは。何処から入って来たのです?」
猫「吾輩は猫なのだ。少しの隙間さえあれば何処へでも潜り込める」
男「はぁ」
猫「して。街中で見蕩れた女学生が、
よもやあのように口も態度も悪いとは思わなんだようではないか」
男「まぁ。それはそうですが」
猫「吾輩の助けが必要か?」
男「猫さんならば、どうにか出来ると仰るのですか?」
猫「それはやってみなければ解らぬな」
男「其れより。勝手に猫を連れ込んだと彼女に知られれば、どんな非道い事をされるか」
猫「なっ」
男「……今晩は猫鍋を頂く事になるのでしょうか」
猫「待てっ、お主そのような良からぬ事を考えるのは止めないかっ!」
猫「なんだ」
男「『助け』と謂っても、具体的に猫さんは私にどのような力添えをしようと
お考えなのでしょうか」
猫「女の“お”の字も知らぬお主が一人で思い悩むよりは、
余程有用な策を思いつくやも知れぬぞ?」
男「猫さんは女性の考えに通じていらっしゃるのですか?」
猫「お主よりも永き生を歩んで居る故」
男「……は?」
猫「ふぅむ。そう謂えば、歳なぞは面倒で数えるのを忘れてしまっていたな。
最後に数えたのは七拾だったか」
男「なっ」
猫「おや。余り驚かないようだな」
男「充分に驚いて居ますっ!」
男「私も考えて居ました。一体どのような方なのでしょうか」
猫「其ればかりは実際に会ってみなければ。吾輩にも解らぬな」
男「其れはそうでしょうが……」
猫「――只、ひとつだけ予感を謂うとすれば」
男「ほう」
猫「その男も又、変わり者やも知れぬぞ?」
男「それは勘弁して頂きたいのですが……」
猫「さぁ。その男と会うのが愉しみになって来たではないか」
男「そんな他人事だと思ってからに」
ガタタン。パタン。
猫「ほぉら。そうこう話して居る内に隣人の御帰りのようだぞ」
男「……嫌な予感しかしませんが」
ガララッ。
男友「あらぁ!可愛らしいオトコノコじゃな~い!
ど、ち、ら、さ、ま?」
男「む、無駄にクネクネとしないで頂きたいのですが……」
男友「御免なさいねぇ。アタシ、つい可愛い子を見るとこうなっちゃうのよぅ」
男(猫さんの予想は確りと的中してしまった様だ……)
男友「ねぇ。アナタ」
男「はぁ」
男友「ひょっとして、今日から下宿するっていう子かしら?」
男「あ、はい。今日からお隣の部屋に。男と謂います」
男友「いやぁ~ん! アタシの普段の行いが良いからかしら!
こんなに可愛い子が隣に越して来るなんて!
嗚呼、この世の中もまだまだ捨てた物じゃ無いわね!」
男「……何と謂う事だ」
男友「良いから、入って入って!」
男「……お邪魔します」
男友「お茶を淹れるから、少し座って待って居てね~ん♪」
男「はぁ」
男友「あ、そうそう」
男「何か?」
男友「淑女のお部屋を勝手にキョロキョロ見ちゃダメよ~?」
男(貴方は歴とした男性では無いですかッ!)
男友「~♪」
男「……あ」
男友「何よ~? どうかしたの~?」
男「あ、いや。この本……。男友さんも文学を学んでいらっしゃるのですか?」
男友「も~ぅ。勝手に見ちゃダメって謂ったでしょう?」
男「あ、……済みません」
男「あ……有難う御座います」
男友「アタシ、これでも地方じゃあ――と言っても雪深い山間の国なんだけどね
神童なんて呼ばれちゃって。割とお勉強も好きだったし。
偶々知り合いに先生の知己の方がいらっしゃって。
誘って頂いたのよ。東京に来ないかってね」
男「……はぁ」
男友「けれど駄目ね。井の中の蛙だったわ。
海の広さを知れたのは良かったけれども、それに圧倒されてしまった」
男「……」
男友「仏蘭西文学が大好きでね。是がアタシの生きる道だと思っていたのよ」
男「……男友さん」
男友「――なぁんて! なんだか随分恥ずかしい御話をしてしまったわね!
そんな訳で今じゃあ落ち零れた書生だから。
あぁ、好きな本が在ったら持っていって良いわよ」
男「海のある町でした。
とんだ田舎者で、瓦斯灯も煉瓦造りの家も今日初めて見たのです」
男友「あら。アタシだってそうだったわよ。
驚くべきは文明開化ね。亜米利加や欧羅巴の文化を取り入れて、
東京はまさに異国のように見えたわね」
男「そうですね……自転車等と謂う面妖な乗り物に乗った女学生が居るなんて」
男友「あらぁ。御嬢様の事?」
男「ええ、まぁ」
男友「東京でも自転車を持って居る人はそう多くないわよ。
先生も奥様と英吉利に行かれたし。
このお家は代々随分な資産家だったらしいのよね」
男「ふぅむ」
男「なっ」
男友「あらぁ、図星かしら?」にやり
男「……確かに彼女は見目麗しい方です。ハイカラという言葉そのものの様な。
けれど……」
男友「――御嬢様にも色々とあったみたいよ」
男「え?」
男友「まぁ。あんまりアタシも詳しい事は知らないし、
アタシの知って居る事なんて、殆どが噂話なのだけれど」
男「はぁ」
男友「ほら。あの出で立ちで、おまけに資産家の娘な物だから、
随分と色々な噂が立っているのよ。
アタシはそれを聞いただけ」
男「噂というのは……?」
男友「察しの通り、余り良いものでは無いわね」
男「……そうですか」
男「……いえ」
男友「ん。賢明な判断ね」
男「余り先入観を持つのは止めた方が良いと思いますし」
男友「あらぁ。随分な惚れ込み様じゃない?」
男「そ、そのようなっ」
男友「ふふっ。可愛いわねぇ~」
男「お、男友さん。その様に無暗に触るのは……」
男友「あら、失敬。ついつい♪」
男(私は無事に此処での生活を送れるのでしょうか……)ぞくりっ
男友「――さてと。そろそろ夕餉の準備をしないとね」
男「へ?」
男友「家のお仕事は書生の仕事。訊いて居るでしょう?」
男「あぁ……成程。
そう言えば男友さんと手分けをする様に謂われました」
男友「どうするの? 一緒に支度をする?
今日は此方に来たばかりで疲れているかしら?」
男「あ、いえ。お手伝いします」
男友「あら、そう♪」にっこり
トントントントン……
男「随分と手際が良いのですね」
男友「もう、長い事此処の台所に立って居るからね」
男「成程」
男友「男ちゃんは御国では御料理はしていたの?」
男「いえ……妹が居たのですが、家の事は概ね彼女が」
男友「あら、そう♪ 男ちゃんの妹さんなんて、随分と可愛らしいのでしょうね」
男「……その“男ちゃん”と謂う呼び方、何とか為らないでしょうか?」
男友「あらぁ。嫌なの? 随分と恥ずかしがり屋さんじゃない」
男「そう言う訳では……」
カタン。
男「……あ」
女「あら。男二人で台所に立つだなんて、見ていて余り心地の良いものでは無いわね」
男友「あらぁ、御嬢様! 御機嫌麗し――くは無いようね、何時も通り」
男友「鰺は今が旬だから、美味しいわよぅ!」
女「……そう。まぁ良いわ。出来たら呼びに来て頂戴」
男友「もちろんよぅ♪」
たったったっ……ぱたん。
男「……」
男友「あらぁ? どうしたの男ちゃん?」
男「あ、いえ。……何でもないです」
男友「いやぁねぇ! 見蕩れてるんじゃ無いわよぅ!」
男「いや、そうではなく」
男友「ふぅん?」
男「――って。味噌汁煮立ってます!」
男友「あらぁ、大変!」
猫「――で? 三人で食卓を囲む事は無かったのか?」
男「彼女は自室で食べるそうです」
猫「……ふん」
男「『貴方達と御飯なんて食べられないわ』……だそうです」
猫「まぁ。その方がお主も気楽で良いだろう」
男「其れはそうなのですが」
猫「――して。話を聞く限り、隣人は変わり者だが
中々面白い奴の様では無いでは無いか」
男「其れはそうなのですが」
猫「っくく。自身の貞操の心配か?」
男「何をそう愉快そうに」
猫「まぁ。これでお主の下宿生活も退屈をせずに済みそうではないか」
男「確かに退屈だけはせずに済みそうですがね」
猫「ん。腹は空いて居ないから大丈夫だ」
男「そうですか」
猫「折角の心遣いなのに、済まないな」
男「いえ。勝手な御節介です故」
猫「……折角だ。街を案内しよう。其れとも今日はもう疲れたか?」
男「あ、いえ。大丈夫です。お願いします」
猫「そうか」
男「それに、私独りで街へ出ては、
また迷子に成ってしまうのが目に見えて居ります故」
猫「っくく。其れもそうだな」
猫「お主は海のある国から来たらしいな」
男「え。誰から訊いたんですか?」
猫「隣の部屋の会話くらい聞き取れるさ」
男「そうですか」
猫「して。海が恋しかろうと謂う事で、此処に連れて来たのだが」
男「おろ。そんな心遣いを」
猫「まぁ、お主の故郷の海とは大分様子も違うだろうが」
男「其れはそうですが」
猫「……この港も此処数年で随分と様子が変わった」
男「そうなのですか」
猫「異国から遣って来る大きな船。
煉瓦で整備された道を歩く異国の人間。
夜は瓦斯灯で照らされ、風情も何も在った物では無い」
男「之は之で洒落た雰囲気だと思いますが」
猫「……そうか」
男「時に猫さん」
猫「なんだ?」
男「先刻も訊きましたが、何故猫さんは私にこう御親切をして下さるのでしょうか」
猫「……」
男「何か見返りを望んでいらっしゃるのならば、
誠に申し訳ありませんが、私には持ち合わせが在りません故。
ならばいっそ御嬢様の願いを叶えて差し上げた方が良いのでは無いでしょうか」
猫「見返り……か」
男「はい」
猫「確かに吾輩はお主の願いを叶えた暁には、
ある見返りを得る事になって居る。
然し、それは吾輩が吾輩と――或いは言霊と約束を交わした物に過ぎない。
お主に迷惑を掛ける事も無いであろう。安心して良い」
男「猫さんが猫さん自身と御約束を?」
猫「約束――或いは誓いと謂っても良いやも知れぬな。
幾千の夜を越えても遂には忘れる事の出来なかった」
男「猫さんは何か万事を見透かしたような物言いをなさる」
猫「万事を、か。――そうだと良かったのだがな」
男「……?」
猫「さぁ。いよいよ夜も更けて来た。帰るとしよう」
男「これは。立派な紫陽花だ。ねぇ、猫さん――あれ? 猫さん?」
男友「あらぁ男ちゃん! 何処行っていたのよぅ!」
男「嗚呼、男友さん。少し街の方へ……。
其れより猫さんを見ませんでしたか?」
男友「猫? 見ていないわよぅ?」
男「そうですか。先刻まで一緒だったのですが、何処かへ行ってしまいました」
男友「男ちゃん、猫を飼っているの?」
男「いえ。『飼う』と謂う表現は些か語弊があるやも知れませんが」
男友「まぁ、どちらにせよ御嬢様には内緒にしておいた方が無難ね」
男「ええ。心得ております。
私とて猫鍋は食べたくありません故」
男友「其れより、丁度良かった。手伝って欲しい事が在るのよぅ」
男「何か?」
男友「御嬢様の湯浴みの為に御風呂を沸かさないとねっ♪」
男「……ふぅ。この位で良いでしょうか」
男友「そうね。充分だと思うわ」
男友「其れよりも、薪割りは随分と手慣れた物じゃあない」
男「ええ。国で良くしていました故」
男友「あら、そう。斧を振り上げた時の上腕弐頭筋の盛り上がり具合が素敵よ♪」
男「……」ゾクリっ
男友「さぁ、御嬢様が湯浴みをしたいと謂う前に沸かし終えないとね」
男「ええ。そうですね」
男友「御嬢様はお湯加減にもとても厳しいから、
今日はアタシが薪をくべるのを見ていて頂戴」
男「はい。解りました」
男友「あら、御嬢様」
男「どうも」
女「湯浴みの準備は調っているのかしら?」
男友「ええ。丁度良い湯加減に仕上がっていると思うわ」
女「そう。ならば結構よ」
男友「ごゆるりと」
ザッザッザッ……ぴたり。
女「……嗚呼、そうだわ」
男友「何か御用かしら?」
女「其処のうだつの上がらない書生さん」
男「……私ですか?」
女「まさかとは思うけれど、わたしの入浴を覗く様な事があったら
警察に突き出して、弐度と此の家の門を潜る事は無いと覚えておきなさい」
男「……態々謂われずともその様な事はしません」
女「あら、そう」
男「何をそう意味深な笑みを浮かべているのですか」
男友「あ、いえね。あんな愉しそうな御嬢様は久しぶりに見たものだから」
男「あの様子の何処が愉しそうに見えたのですか?」
男友「あら。まぁ、男ちゃんは今日来たばかりだから、
只無愛想なだけに見えても仕方の無い事かも知れないわね」
男「いえ。例え生涯を此処で過ごす様な事が在ったとしても、
私にはあの態度を『愉しそう』だと謂えるようになる自信はありません」
男友「あら。拗ねちゃって、可愛いわねぇ♪」なでり
男「無暗に太腿を触らないで下さいッ!」
男友「あら、つれないわねぇ」
男「おろ。猫さんお戻りでしたか」
猫「ああ。先に部屋で休ませて貰っていた。
お主も今日は彼是と疲れたろう、もう休むと良い」
男「そうですね。今日は流石に疲れました。
布団を敷くので少し其処を退いて頂いていいですか?」
*
男「では灯りを消しますよ」
猫「ああ」
男「……」
猫「明日からは学校か?」
男「はい。……と謂っても明日は手続きやらが主になると思いますが。
男友さんが御案内をして下さるようです」
猫「そうか」
猫「何だ? と謂うよりも猫は本来夜行性なのだ」
男「そうですか。其れにしては静かだったもので」
猫「……少し、考え事をな」
男「そうですか」
猫「……うむ」
男「実は私も少し考え事をしていたのですが」
猫「ほう、何をだ」
男「“言霊”についてです」
猫「……」
男「言葉には何か私たちのおよそ知り得ない力が宿る……。
其れを言霊と呼ぶとして、では猫さんは御自身とどのような誓いを
なされたのだろうか。
そんな事を考えていました」
猫「それは……」
男「いえ。私は其れを訊こうとは思っていません。
猫さんが話しても良いと思われた時に、話していただけるのならば、
私は猫さんの友人として其れを嬉しく思います」
猫「友人、か……」
男「はい」
私は何か猫さんにお願いをする事に吝かではありません」
猫「そうか。其れは助かる」
男「しかし、残念ながら、私は私の願いを上手く見つける事が出来ないのです」
猫「何でも良い。道案内以外ならばな」
男「しかし、こうして新天地での生活が始まりました。
きっと何か猫の手も借りたい様な事態も発生するでしょう」
猫「其れは何となしに失礼な物言いではないか? ……まぁ良いが」
男「ですから、今暫くの猶予を頂ければ、其れはとても私にとって有難いことなのですが」
猫「っくく。願いを決めるのに猶予が欲しいと申すか」
男「ええ。猫さんには御時間を取らせてしまい、申し訳無いのですが」
猫「いや、良いだろう。願いが決まったのなら、何時でも謂うが良いさ。
なに、吾輩もそう急いでいる訳ではない。ゆるりとやろうではないか」
男「そう言って頂けると、とても助かります」
猫「なに。御互い様さ」
男「嗚呼。謂いたい事を謂ったら、安心をして急に眠くなってしまいました」
猫「ならば眠ると良い」
男「はい……。御休みなさい、猫さん」
猫「あぁ。御休み」
ちゅんちゅん……
猫「……ん」
男「……ZZZzzz」
猫(どうやら眠ってしまっていた様だ)
男「むぅ……ぐぅ」
猫(嗚呼。この男はその様に馬鹿な顔をして眠るのか。――しかし)
男「くぅ……」
猫(“友人”か……。ふむ。思えば吾輩には久しく友と呼べる者は居なかったように思うな)
男「むにゃ……すぅ」
猫(初めは奇怪な男を壱百人目に選んでしまったと思っていたが。
或いは壱百人目はこの男で良かったのやも知れぬ)
男「……ぐぅ」
猫(友人、か……)
男友「男ちゃ~ん。朝よ~ぅ!」
男「……ZZZzzz」
男友「あらぁ。可愛い寝顔だわ。
いいこと? 10秒以内に目を覚まさなかったならばアタシの熱い接吻で
男ちゃんの爽やかな朝の目覚めを演出しちゃうわよ~ぅ?」
男「一体その目覚めの何処が爽やかなのですかッ!?」がばっ
男友「あら。起きて居るじゃない。つまらないわね」
男「そんな戦慄を覚える言葉を掛けられれば、誰でも飛び起きますッ!」
男友「冗談はさて置き。早く起きて準備をなさい。朝食ももう出来て居るわよ」
男「あぁ……済みません」
男友「ん? 何が?」
男「いえ。朝食を作って頂いてしまって」
男友「良いのよぅ。この間、欧羅巴の割烹着を街で買ってね。
エプロン、と謂うらしいのだけれど。どうやら其れは裸体に直接着る物らしくて。
可愛いのよぅ。 今度男ちゃんにも見せてア、ゲ、ル♪」
男「いえ……それは結構です」
男「そう謂えば男友さん」
男友「なぁに~?」
男「御嬢様はどちらに?」
男友「あぁ。御嬢様ならばもう女学校に行かれたわよ」
男「へぇ。随分と早起きなのですね」
男友「訊く処に拠ると、異国の球技の練習があるとかで早く御出掛されているらしいわ」
男「へぇ、彼女は壱から拾までハイカラなのですね」
男友「其れはまぁ、この辺りでも有数な名家の御嬢様ですもの」
男「其れはさて置き男友さん」
男友「なぁに?」
男「この朝食は実に美味しいです。昨晩も思って居りましたが、
男友さんは本当に料理が御上手だ」
男友「あらぁ! 嬉しい事を謂ってくれるじゃな~い!
エプロンの御陰かしらぁ?」
男「其れは断じて違うと思いますが」
男友「さぁ、行くわよ男ちゃん」
男「……はい」
男友「あら? 元気が無いじゃない。どうしたの?」
男「あ、いえ……。いよいよ帝国大学に行くのかと思うと少々緊張してしまって」
男友「まぁ。誰だってそうね。大丈夫、アタシが付いて居るから」
男「有難う御座います」
男友「ま。落ち零れのアタシは反面教師として上手く使って頂戴」
男「そんな事は無いですよ」
男友「あら、優しいのね」
男「いえ。そんな事は」
男友「いいこと? でも気を付けなさい。
あんまり誰にでも優しくしていると、
本当に大切な人への優しさが伝わらなかったりもするものよ」
男(そう謂えば、今朝から猫さんを見て居ないですね)
男友「どうしたの? 行くわよ?」
男「あ、はい」
男「ここが……」
男友「そんな事をしていると、御上りさんだってばれちゃうわよぅ?」
男「あ……いえ。こんなにも活気の有る処は初めて見た物ですから」
男友「さぁて。先ずは色々と手続きを済ませないとね」
男「男友さんは今日の講義は在るのですか?」
男友「まぁ、在ると謂えば在るわね」
男「では、私も一緒にその講義を受けて見ても宜しいでしょうか?」
男友「良いけれど、アタシは仏蘭西文学科よ?」
男「確かに私は仏蘭西文学には通じて居りませんが、
折角なので壱日でも早く何か講義を訊いてみたいのです。
……駄目でしょうか?」
男友「……解ったわ。
正直に謂うと、アタシこの講義はサボタージュしてばかりだったから。
真面目に講義に出る良い切っ掛けかも知れないわね」
男「……サボタージュ?」
男友「そうね。良い事を思いついたわ!
講義が終わったら、アタシのサボタージュの行き付けである喫茶に連れて行くわよぅ」
男「それは楽しみです!」
女事務員「――では、之で手続きは御仕舞です」
男「はぁ」
女事務員「何か質問は?」
男「いえ。大丈夫です」
女事務員「では、講義には明日から出て下さい」
男「はい。有難う御座います。では失礼します」
バタンッ。
男事務員「へぇ。あれが」
女事務員「ええ。あの変わり者の先生の御宅に
新しく下宿することになった書生らしいですわ」
男事務員「あの先生も何をお考えなのか良く解らんよなぁ」
女事務員「まぁ私たちには関係の無い事ですが」
男事務員「はは。其れは違いない」
男友「あら。意外と早かったのねぇ」
男「そうですか? 煩雑で矢鱈と永く感じたのですが」
男友「アタシ、あの眼鏡の女事務員なんだか苦手だわぁ」
男「嗚呼。私も何だか苦手だと感じてしまいました」
男友「――さて。じゃあ行くわよぅ」
男「?」
男友「そんなに小首を傾げないでよぅ。“仏蘭西文学の基層”の講義よ」
男「ああ」
男友「男ちゃん、ひとつ謂っておくけれど」
男「なにか?」
男友「……随分と退屈な講義よ?」
男「はぁ」
老年教授「――拠って、この騎士道的な理想を以って拾壱世紀に書かれたローランの詩は」
男「……」
男友「……」
老年教授「此処で、このシャルルマーニュと謂うのはカロリング朝を開いた小ビビンの子で――」
男「……」
男友「……」
*
りーん……ごーん……。
老年教授「では次回はこの続きから……」
男「――あの、男友さん」
男友「なによぅ」
男「この講義を理解する事により仏蘭西文学の基層を理解出来るのだとすれば、
私は今仏蘭西文学とは最も縁遠い書生の一人だと謂う事になると思うのですが」
男友「安心して。アタシもその一人よ」
男友「まぁ。大学の講義なんて大体はあんなモノよ」
男「そうなのですか……」
男友「全く。あの膨大な知識量を詰め込む事に一体何の意味が在るのかしら
なんてアタシは考えてしまうのだけれど」
男「はぁ」
男友「で。此処がアタシの行き付けの喫茶よぅ」
男「へぇ。随分と洒落た門構えですね」
男友「夕食の準備まで少し時間の余裕もある事だし、
少し珈琲でも嗜んでいこうじゃない」
男「珈琲……ですか」
男友「あら。ひょっとして初めてかしら?」
男「ええ。何かの本で読んだ事は有るのですが……」
男友「初体験がアタシとだなんて、光栄だわぁ~♪」
男「……」
からりんっ。
旦那「いらっしゃ――おや。男友くんじゃないか」
男友「いやぁねぇ、マスター。そんなにがっかりしないでよぅ!」
旦那「ははは。そんな事は無い。男友くんはウチの大切な常連さんだからな」
男友「あらぁ。嬉しい事謂ってくれるじゃあない」
旦那「処で――そちらの青年は? 御友達かな?」
男友「あぁ、この子はアタシの隣の部屋に下宿してきた子で」
男「男と謂います。宜しくお願い致します」
旦那「宜しく。歓迎するよ。
しかし、男友くんと下宿が一緒と謂う事は……」
男「あ、はい。先生の御宅に御世話になって居ります」
旦那「ふぅむ。成程なぁ」
男友「ええ。珈琲を二つお願いするわ」
こぽぽぽぽぽ……。
旦那「嗚呼、そうだ。男友くん」
男友「なにかしらん?」
旦那「さっき、女友くんが来たよ。後でまた顔を出すと謂っていたね」
男友「あら、そう……」
旦那「なんだい? 随分浮かない顔をしているじゃあ無いか」
男友「そ。そんな事無いわよう」
旦那「――はい。お待たせ」
カチャリ。
男「之が珈琲ですか」
旦那「おや。男くんは珈琲を飲むのは初めてかな」
男「あ、はい」
男友「マスターの淹れる珈琲は美味しいわよう」
旦那「おいおい。彼に変に期待をさせてしまうと僕が困るよ」
男「香りが……とても良い香りです」
旦那「そうかい。それはどうも有難う」
男友「うぅ~ん。退屈な講義を受けた後は、やっぱり之よねぇ」
旦那「折角だから、何かレコードでも流そうか」
男「レコードをお持ちなのですか!?」
旦那「この時勢、最早珍しいものではないよ」
男友「このマスターも物好きでね。欧羅巴のレコードを沢山集めて居るのよ」
旦那「新しい常連さん候補を迎える事が出来た祝いに、
なにか目出度い曲を流すとしよう」
からりん。
男友「……げ」
女友「マスター、牛乳を持って来たぞ――あ。男友! 男友じゃあないか!」
男友「……御久し振り」
女友「久し振りだなぁ! 元気だったか!」
男(あの男友さんが押されている……)
女友「いや。いつもウチを贔屓にして貰って此方こそ有難うと伯父上が謂っていたぞ」
男「男友さん、この方は?」
男友「ええとね」
女友「男友っ!」
男友「なによう。急にそんな大きな声を出さないで頂戴」
女友「しっかり大学には行っているのか!?
お母様もさぞかし御心配をなさっているだろう」
男友「いくらアタシでも貴女に心配される程落ちぶれちゃいないわ」
女友「なんだと!? 人が折角心配をっ――」
男友「あら。御存じないの? そう謂うのを余計な御世話と謂うのよ?」
女友「むきーっ!」
*
旦那「……二人とも、落ち着いたかい?」
男友「はい」
女友「店内で騒がしくして申し訳無かった」
男友「ええ、まぁ。ちょっとした腐れ縁ね」
女友「わたしと男友は同郷なのだ」
男「同郷? というと北国の……」
男友「まぁ。アタシは大学に進学するときに一人で下宿の為に東京に来たんだけれどね」
女友「わたしは伯父上が東京で商店を営んでおられてな。
今はそちらに御世話になっているんだ。
わたしも此方の女学校に進学をする為に男友より少し後に東京へと来たと謂う訳だ」
男「はぁ。成程」
男友「この喫茶で偶然会って以来、彼是と口煩くされていると謂う訳よ」
女友「なんだと!? 折角の人の親切をっ!」
旦那「こほんっ」
男「どうもはじめまして」
男友「アタシの夫よ」
女友「ええっ!?」がっしゃーん
男「期待通りの反応ですね」
旦那「……うおっほん」
*
男友「冗談はさて置き」
女友「マスター。皿を割った弁償として今度から牛乳は割引で……」
男友「この子はアタシと同じ下宿先なのよ。昨日此方に来たばかりなの」
女友「そうか! わたしは女友! 宜しくな、男さん」
男「此方こそ宜しくお願いします」
女友「余り男友に毒されてはいけないぞ」
男「はい?」
女友「この男は東京に来てからと謂う物、真面目に大学にも行かず
故郷のお母様に御心配ばかりお掛けしている不肖者なのだ」
男「はぁ」
女友「ん? そうだけれど?」
男友「嗚呼、そうそう。女友は御嬢様と同じ女学校に通っているのよ」
女友「そうか! 男友と同じ下宿先と謂う事は女さんと一つ屋根の下に
御住いと謂う事だったな!」
男「何故態々其の様な謂い方をなさる」
女友「いやぁ。女さんは我が女学校でも最も美しく、かつ才女として名高いからな!
健全な男子諸君としては、泉のように湧き上がる欲望を
抑えきれぬ夜を送って居るのでは無いかと思ってな!」
男「はぁ」
旦那「そう謂えば、あちらの先生は今は異国に学問を修めに行かれて居るとか」
男友「そうよ。英吉利に文学を学びに行って居るのよう」
女友「――と謂う事は、現在御宅に居らっしゃるのは若い男女のみと謂う事にっ!?」
男友「アンタ、本当に一々煩いわねぇ。野良犬だってもう少し御行儀が良いわよ」
男友「それはアタシも気になるわねぇ」
女友「んー。余り人と仲良くするようなタイプでは無いかしらね。
無口な方よね。
わたしも何度か庭球を一緒にやった事があるけれど、
流石のわたしでも打ち解けることは叶わなかったわ」
男「庭球?」
女友「なんと謂えばいいのかしらね。異国から伝わった球技なのだけれど」
男友「アンタがそんなハイカラな物をやっているなんて知らなかったわ」
女友「まぁ、人が足りないと謂う事で頼まれただけなのだけれど」
男「成程」
女友「只、やはりあの井出立ちだから。
学校でも一部の――そうね。特に後輩は憧れ……のような物を持っている
女学生も少なくない様ね」
男友「ふぅん。アンタももう少し器量良く生まれれば良かったわね」
女友「なんだとぅ!?」
旦那「いやいや。女友ちゃんは、また別な魅力がある淑女だよ。
ねぇ、男くん?」
男「え? あぁ、まぁ」
男友「何よ」
女友「女さんはお家ではどの様な方なの?」
男友「あー。そうね……」
男「……」
女友「どうしたの? 何か謂いづらい事でも?」
男「あ、いえ。私はまだ昨日越して来たばかりなので良くは解らないのですが……」
男友「――とても、素敵な方よ。
書生であるアタシ達にも良くして頂いて居るわ」
男「え」
女友「そうかぁ。やはりあの美しさは内面から滲み出ている物なのだな!」
男友「え、ええ。そうねぇ。アンタも見習いなさい」
女友「わたしは女性らしくするのは苦手なのだっ!」
男友「無い胸を張るのはみっとも無くてよ」
女友「なんだとーっ!?」
男友「あ。マスター。アタシ達そろそろ行かなくては」
旦那「あぁ、そうかい」
男「御金は御幾らでしょうか」
旦那「ああ。いいんだ。
男くんに新たに常連になって貰う為に、今日はサービスしておくよ」
男「……」
男友「どうしたのよう。そんな難しい顔をして」
男「あ、いえ。何故あの様な嘘を?」
男友「嘘って?」
男「女さんは素敵な方だ、と」
男友「あぁ、その事。……そうねぇ」
男「……」
男友「同じ女学校ならばきっと御嬢様や御家族の
あまり愉快では無い噂を耳にする機会も有る筈なのに、
どうして女友は、先刻男ちゃんから御嬢様の学校での評判を聞かれたときに
其の様な事を謂わなかったか、解る?」
男「いえ……」
男友「女友は余り、人の悪口だとかそう謂う物に縁が無いというか――苦手なのよ」
男「はぁ」
ほら、アタシってこんなんでしょ?
子供の頃なんて良く虐められていたんだけれど、
其れを助けてくれたのもあの子だったわ」
男「……成程」
男友「だから。口裏を合わせる――と謂うのも少し違うのかも知れないけれど。
あの子が御嬢様の事を悪く謂いたくは無いと思っているのなら、
それに付き合ってあげようと思ったのよ」
男「男友さんは、人の事を考えられる優しい方なのですね」
男友「そんな事無いわよ。人から嫌われるのが怖いだけ。
もう散々人からは嫌われて生きて来たから」
男「……」
男友「さぁ! 早く帰って夕餉の支度をしないと御嬢様に怒られてしまうわ!」にこっ
カチ、カチ、カチ……。
男「……遅いですね」
男友「困ったわね。これでは御嬢様の分の御飯が冷めてしまうわ」
男「何処かで遊んで居るのでしょうか?」
男友「あの御嬢様がねぇ……」
男「或いは庭球とやらの練習だとか」
男友「こんな日も沈んだ夜半に?」
男「……ふむ」
男友「流石に、探しに行った方が良いかしらねぇ」
男「どうでしょう。ひょっこり帰って来て
『あら、どうしたの? 男二人で居間で見つめ在って居るのだなんて、正直に謂って気職が悪いわ』
なんて謂いそうな物ですが」
男友「……そうねぇ」
猫「遅かったな。随分永い夕餉だったでは無いか」
男「いえ。女さんが中々帰って来られないので」
猫「ふむ。して?」
男「少し街へ御嬢様を探しに行く事になりました」
猫「ほう。殊勝な事だな」
男「もう男友さんは先に行ってしまいました。
猫さん、何処か心当たりは有りませんか?」
猫「心当たり?」
男「ええ。若い女学生が学校の帰りに寄りそうな処を御存じ無いかと思いまして」
猫「さあな。第一に吾輩は彼女の事を良く知らぬのでな」
男「はぁ。とにかく私も今から探しに行きます故」
猫「仕方ない。吾輩も着いて行ってやろう」
男「其れは助かります。私独りでは、
女さんを探して私が迷子になったと謂う事になり兼ねませんし」
猫「まぁ良い。どうせ暇を持て余していたのだ」
男「……目に付いた喫茶などを大方見て回りましたが、いらっしゃらないですね」
猫「今頃家に帰って居るのかも知れないな」
男「もう喫茶や書店も閉まる時間ですし、そうかも知れません」
猫「やれやれ。困った御嬢様だ」
男「ええ。全くです」
猫「どうした。お主はあの女に惚れたのでは無かったのか?」
男「なっ」
猫「どうした。又しても図星か」
男「確かに綺麗な淑女ですが、そのような端無い男では有りませぬ故」
猫「そうか……やはり、内面か?」
男「……」
猫「やれやれ。人間と謂うのは実に面倒な生き物だ」
男「さぁ。美人に生まれれば私にも解ったやも知れませんが」
猫「――果たして己の美貌に酔ったその末に、あの奢ったような心の持ち主に
為ってしまっただけなのだろうか」
男「猫さんはどう御考えなのですか?」
猫「はて。吾輩にも其れは解らぬが。
存外に人間に心と謂う物は、他人から見れば些細な事でも濃い影を落とすものだらう」
男「……」
猫「お主にも経験があろう?
『どうして誰も自分の事を解ってくれないのか』
――まぁ、当然な話しよな。他人は他人で自分の事で精一杯なのだから」
男「……つまり、彼女にも彼女にしか解り得ない悩みが在ると?」
猫「はて解らぬな。有るやも知れぬし、無いやも知れぬ。
吾輩はあの女では無い故。結局は推測の域をは出ないだらう。
只――」
男「只?」
猫「其れを察する事が出来る、と謂う事を人間は『優しさ』や『思い遣り』等と
謂うのでは無いのか?」
男「猫さん……」
猫「吾輩は猫である。して人間の考えなどは解らぬがな」
吾輩はお主をあの娘の処に連れていく事に、吝かでは無いのだが」
男「えっ」
猫「吾輩は猫であるぞ。殊夜のこの街の事に関して存ぜぬ事など無い」
男「ならば初めからっ――あ」
猫「吾輩には、お主がどうにも少し勘違いをしているのでは無いかと思ってな」
男「猫さん……」
猫「さて。どうするのだ。
心配せずともあの娘は放って置いても朝迄には帰って来るだらうさ」
男「私は……」
猫「他人の心の問題に深入りする事を嫌うのは解る。まぁ面倒だしな」
男「私は其の様な事っ」
猫「――それに、少しでも道を誤れば、逆に自分が傷付く」
男「……っ」
猫「さて。どうするのだ? 選び取るのは何時だって自らの手だらう」
――昨晩お主と行ったな、あの港の埠頭。其処に小さな灯台が在る。
男「はっ、はっ、はっ……」
――この様な夜半ではもう港へ寄る船も無いだろうから、灯は消えて居る。
男「はっ、はっ、ぜぇ……」
――近くに自転車が止まって居る筈だから、解るとは思うが。
男「はっ、ぜぇ、ぜぇ……」
――しかしお主、一体あの娘にどんな声を掛ける。
あの娘が何故このような時分までそのような処に居ると思う?
男「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
――其の事を、考えずして其処へ行くのは只愚かなだけだと心得よ。
……此処からはお主独りで行くのだな。
男「ぜぇ、ぜぇっ……。自転車……在りました……」
男「……探しましたよ」
女「貴方……どうして此処が」
男「まぁ、猫の手を借りただけです」
女「……?」
男「隣、良いですか?」
女「……」
男「はぁ。慣れない道を走るのは大変でした。
何度も道を間違えて、随分遠回りしてしまった」
女「……何をしに来たの」
男「商店で飲み物を買って来ました。二つありますから、一緒に飲みましょう」
女「……」
男「んー。潮風が気持ち良いですね」
男「ええ。其れも知って居ます」
女「……何だかやり辛いわね」
男「はて。そうですか?」
女「……訊かないのね。こんな処で何をしているのか」
男「え? 海と星を見て居たのでは無いのですか?」
女「まぁね。其れはそうなのだけれど」
男「――本当は、訊いて良いものか。またどうやって其れを切り出そうか
考えて居た処なのですよ」
女「……変な人ね」
男「ええ。良く謂われます」
女「……」
男「まぁ。昨日会ったばかりの私が、“元気を出して下さい”等と謂うのも
何だか可笑しな話しなので、それは止めておきますが」
女「ええ、其れは賢明な判断ね」
男「……何だかやり辛いですね」
女「はて。そうかしら?」くすりっ
女「何よ。どうしたの?」
男「あ、いえ……笑った顔を初めて見た物で」
女「これは失態ね。笑顔の安売りをしてしまったわ」
男「……なんだかなぁ」
女「何か?」
男「いえ。何も」
女「……そう?」
男「……」
女「うだつ――いえ、失礼。確か男と謂ったわね」
男「どんな謂い間違いだっ!?」
女「其れはさて置き。男くんはお父様と知己だったわよね」
男「ええ……まぁ」
女「――貴方はどう思う?」
男「え?」
女「お父様の事よ」
男「嗚呼。そうですね……。
私が学問の道を志したのは先生の御陰と謂いますか。
尊敬……して居ます」
女「……そう」
女「……それは学者としてのお父様の事かしら。其れとも父親としてのお父様かしら。」
男「それは……」
女「まぁ“変人”と謂うのはどちらのお父様にも共通して居る事なのだろうけれど」
男「……」
女「“あの家の娘”何時も付いて回ったわね。まるでわたしの事を謂う時の枕詞みたい」
男「……」
女「周りから余りお父様が良く思われていない事は、
幼い頃から解って居たわ。
まぁ、単にその所為で心を閉ざしただなんて、
そんなのは何処にでもある話しだろうけれど」
男「……それだけでは無いと?」
女「別に周りからどう思われようが、わたしは構わなかった。
お父様の事もお母様の事も好きだったしね。
家族が仲良くやっていければ、其れで不満は無かったわ」
男(好き……“だった”?)
男「……え?」
女「周りからどう謂われようとわたしは構わなかったけれど、
お母様には酷く堪えたのね。
或る日学校から帰って来たわたしが見たのは……冷たくなったお母様だったわ」
男「そんな……」
女「――なんて」
男「え?」
女「殆ど初対面に近い貴方に何を謂っているのかしらね、わたしは。
済まなかったわね。忘れて頂戴」
男「……御免なさい」
女「え?」
男「いえ……私は貴女の事を酷く勘違いしていました」
女「謂ったでしょう?
周りからどう思われても、そんな事は別にどうだって良いわ」
男「それに――今の話を忘れる事も出来ません。
だから謝ります。御免なさい」
女「……」
男「其れはどうも」
女「……全く。貴方は熟々変わった人ね」
男「其れは先刻も仰いましたよ」
女「まぁ良いわ。――帰りましょう」
男「え?」
女「何を呆けた顔をして居るの? 帰るのよ、家に」
男「あ、あぁ。はい」
女「――貴方、自転車に乗った事は有る?」
男「いえ……見たのも昨日が初めてでしたが」
女「仕方が無いわね。確り練習しておきなさい」
男「は?」
女「こう謂う時は、
男性が女性を自転車の後ろに乗せて、二人乗りと謂うものをする物らしいわ」
男「へっ?」
女「今日は仕方が無いから、わたしが自転車を漕ぐけれど。
でも何時までも其れじゃあ、余りにみっとも無いから、
練習をしておきなさいと謂っているのよ」
男「はぁ」
女「じゃあ、帰るわよ――わたしたちの家に」
ガラリッ。
猫「随分と遅かったな」
男「猫さん……」
猫「なんだ? 真面目な顔をしてからに」
男「願い事が決まったのですが、謂っても宜しいでしょうか?」
猫「ほぉう。訊かせてみると良い」
男「彼女を――女さんを助けてあげたいのです。
父親と、亡くなった母親までをも嫌って生きて行くには、
彼女はまだ若すぎる」
猫「っくくく。なぁ、男よ」
男「なんですか、猫さん」
猫「吾輩は之まで九拾九の人間の願いを叶えて来たが、
他人の事を願われたのは初めてなのだよ」
男「はい?」
猫「面白い――そう謂ったのだ」にやり
男「はぁ」
猫「突然後光がさしたと思えば、
あの娘の抱える問題がまるで氷の様に溶けだして行く――という様な真似は出来ん」
男「では猫さんは一体何をされようと?」
猫「まぁ訊け。加えて謂うのならば、吾輩はあの娘の抱える問題や、
或いはあの娘に直接関わるつもりは無い」
男「は?」
猫「惚れた女を助けるとまで嘯いたのだ。
壱から拾まで他人任せでは、お主も格好が付かぬだらう?」
男「其れはまぁ……そうですが」
猫「吾輩に出来るのは、飽く迄手助けに過ぎぬ」
男「……」
猫「っくく。まぁ、そう呆けた顔をするな。
“願いを叶える”などと大見栄を切って置いて何だが、
猫の手と謂うのは本来役立たずな物なのだよ」
男「随分と御謙遜を……はぁ」
猫「なんだ?」
男「その。先ずは手掛かりの様な物が必要なのだと思うのですが」
猫「ふぅむ」ぽりぽり
男「生憎、先生と奥様は英吉利に渡って居られる様ですし」
猫「まぁ待て。男よ」
男「はい?」
猫「お主、あの娘を“助けたい”と謂ったな」
男「はい」
猫「お主の考える“助ける”とは一体どのような事なのだ?」
男「……ええと」
猫「勢いで嘯いたは良い物の、
はて如何したものかではちゃんちゃら可笑しいでは無いか」
男「それは……そうですが」
男「猫さん、其れは待って下さい」
猫「ほう」
男「私は――私は見たのです。女さんの、夜の海を眺めるあの氷の様な眼を」
猫「眼だと? 眼が如何したと謂うのだ」
男「私は、海の見える街の至極一般的な家庭に育ちました故、
一体親を嫌うと謂う事が、どの様に哀しい事かは解りません。
――けれど其れが女さんの心に影を落として居るのだとすれば、
私はその重みを少しでも軽くする事が出来ればと、そう思ったのです」
猫「……」
男「猫さん、お願いします。どうか幾許のお力添えを私にっ」
猫「――はぁ。全く、熟々面倒な生き物よの。人間と謂うのは」
とんとんとんとん……
男「~♪」
ガタンッ。
男「あ。お早う御座います。朝食はもうすぐ出来るので、今暫く御待ちを」
女「……何だか気色悪いわね」
男「今日は私が朝食を準備する番です故」
女「まぁいいわ。御茶だけ頂戴」
こぽぽぽぽっ……。
女「じゃあ、わたしはもう行くから」
男「へっ?」
女「朝からお腹を壊したくは無いもの」
男「えええぇ」
女「ああ、そうだ。蟲――いえ、男くん」
男「はぁ」
女「今日、付き合って欲しい処が有るのだけれど。夕刻からなら時間があるわよね?」
バタンッ。
男「……え?」
男友「――そ、其れでっ!?」
男「いえ。ですから、私の返事を待たずして女さんは襖を閉めて行ってしまった故」
男友「こ、之は一体どう謂う事っ!?
昨夜に一体何が在ったって謂うのっ!?」
旦那「おやおや。之は面白くなって来たじゃあ無いか」
男友「マスター。あちらの御客が呼んで居るわよ?」
旦那「んー? まぁ良いんだよ少しくらい待たせておけば」
男(……良いのか?)
旦那「そいつはどうやら……ランデヴーの誘いって奴だねぇ」
男「らんで……?」
旦那「くくっ。遭引の事だよ」
男「……え?」
あの御嬢様が他人を何処かに誘うだなんて、アタシ一度も訊いた事が無いわ」
男「いえ……どう謂う事か私も良く解らないのですが」
旦那「全く。鈍い男は損をするよ、男くん」
男「な。何を仰っているのですかっ」
男友「いやぁねぇ。こんな事なら男ちゃんに確りと唾付けとくんだったわぁ」
男「や。其れは勘弁をして下さい」
旦那「兎も角。行くんだろう? 何処へ行くのかは解らないが」
男「えぇ。まぁ」
男友「うぅん。そうよねぇ。
“付き合って欲しい処”って一体何処なのかしらねぇ」
旦那「最近、上埜の繁華街に映画館が出来たらしいね」
男友「へぇ。マスター、行ったのかしら?」
旦那「ああ。飛切りのイヤラシイ映画だったね」
男「じゃあ其処だと謂う可能性は無いですね」
男友「あら。そうかしらぁ?
御嬢様だって女の子なんだから、やっぱり色っぽい事にも
興味が無いと謂う訳では無いんじゃな~い?」
男「あの女さんが……ですか?」
旦那「そうだよ、男くん。女性は何時だって僕達の考えの左斜め上を行く
発想を持ちあわせて居るんだ」にやりっ
男「そんな……まさか……」
男友「……ねぇ、マスター」
旦那「なんだい?」
男友「……先刻から男ちゃんが妙に思い悩んだ顔をしているわ」
旦那「おや。之は余計な事を吹き込んでしまったかな?」
男友「まぁ良いじゃない。面白い事になりそうだわぁ」
旦那「う~ん、そうには違い無いけれど。
男くんには少し悪い事をしてしまったようだね」
男「……やはり、昨日少し格好を付けた事を謂ったのが……否、然し……私はそんな……
……決して下心を持っていた訳では無く……あのような事をっ……」ぶつぶつ
男友「ねぇ、マスター」
旦那「なんだい?」
男友「……あれは間違いなくどうていね」
旦那「ああ、違いない」
男「……はぁ。講義が全く頭に入りませんでした」
猫「何を独り謂つて居るのだ」
男「こっ、これは猫さん。
どうしたのですか。今朝から御姿が見当たらないので心配していたのですよ」
猫「何をそう動揺して居るのだ」
男「そ、そんな私はっ」
猫「まぁ然し、良かったではないか」
男「へ?」
猫「惚れた女の方から遭引に誘われる等、お主も中々隅に置けぬな」
男「なっ、なっ」
猫「っくく。謂ったであろう? この街の事で存ぜぬ事など無い、とな」
男「~っ!?」
男「はい……申し訳ありません」
猫「まぁ良い。揶揄した吾輩も悪かった」
男「いえ……」
猫「まぁ。あの娘と会話をする機会が増えれば、
何かお主の願いの手掛りも見付かるやも知れぬしな」
男「それは、まぁ」
猫「先ずはあの娘の心の問題を如何にしてお主が知るかだらう。
さもなくば解決など夢の又夢だ」
男「……はい」
猫「そして其れは又、お主が如何にあの娘の心を開くかと謂う事でもあろう。
――吾輩の謂う事が解るか?」
男「はい。猫さん」
猫「まぁ。生まれて此の方、女とはおよそ縁遠かったお主が上手くやれるとは思わぬが」
男「そうなのです。其れが問題なのです……」
猫「之ばかりは吾輩が教鞭を執る訳にも行かぬ故。精々頑張ると良いさ」
男「はぁ」
猫「なんだ?」
男「猫さんはこんな処で何をしていたのですか?」
猫「吾輩か? ……うむ。少々人捜しをな」
男「人捜し? 何方をお捜しになって居たのですか?」
猫「ん……まぁ、良いだらう吾輩の事は。
お主は吾輩の事を気にして居る場合では無かろうに」
男「其れはそうですが。この街の事ならば何でも御存じの猫さんが、
捜し人の居場所を御存じ無いと謂うのを少し不思議に思いまして」
猫「あぁ……、何故だらうな。あの方の居られる場所だけは吾輩にも解らぬのだ。
或いは既にこの街には居らぬのやも知れぬ」
男「ふうむ? 時々急に猫さんが何処かへ居なくなってしまうのは、
その人捜しをしていらっしゃるからなのですか?」
猫「まぁ、色々とな。吾輩も何かと忙しい身故」
男「まさか見目麗しい雌猫と遭引をっ!?」
猫「お主の頭は御花畑かっ」
カタンッ。
男「……あ」
女「お待たせしたかしら?」
男「いえ……」
女「ん? どうしたの?」
男「いえ。……袴姿以外の女さんを見たのは初めてだった物で」
女「嗚呼、之は何やら欧羅巴の着物らしいのだけれど。
袴よりも動き易いから、此方に着替えたのだけれど、気に入らなかったかしら?」
男「そっ、そんな滅相も有りませんっ。そのっ……御似合いだと思います」
女「あらそう? では行くわよ」
男「ええと、女さん」
女「何か?」
男「之から私たちは何処へ行くのでしょうか?」
女「狗――いえ、男くんは黙って付いて来れば良いのよ」
男「……狗の散歩ですか」
女「まぁ、そんなところね」
ちりんちりん……。
女「何よ。そんなにきょろきょろと。もう少し御行儀良く出来ないの?」
男「いえ。私は電車に乗るのは初めてな物で」
女「あら、そうなの。とんだ田舎者なのね」
男「まぁ其の通りなのですが」
女「……」
男(困りました……一体私は何を話せば良いのやら)
*
男「と、時に女さん」
女「何よ」
男「そろそろ教えて頂けませんでしょうか?
私たちは一体何処へ向かって居るのですか?」
女「……そんなに何処へ向かうか気になるのかしら?」
男「ええ、あの。わっ、私としても心の準備と謂う物が有ります故……」
女「何をそんなに動揺しているのかしら? わたしにはさっぱり解らないわ」
『次は神田――神田で御座います――』
女「さぁ、降りるわよ」
男「え? 上埜では無いのですか?」
女「何を謂っているの。そんなに呆けて居ると置いて行くわよ」
がやがやがや……。
男「こ、此処は……?」
女「あら。まさか男くんは呉服店にも来た事が無いと謂うのかしら?」
男「まぁ、その通りなのですが」
女「全く。通りでそんなみすぼらしい格好をしているのね」
男「はぁ」
女「折角東京に来たのだから、少しは都会の様子を勉強なさい」
男「確かにこのようにハイカラな人が多く居る場所が有るだなんて、
私には想像だに出来なかったですが」
女「勉強代として、今日は男くんにわたしの荷物持ちをさせてあげるわ」
男「はぁ。どうぞ御好きに使って下さい」
女性販売員「この柄など御嬢様には御似合いかと思いますよ」
女「そうかしら?」
女性販売員「ええ。其方の旦那様もきっとお気に召されるかと思います」
女「ふぅん。――ねえ」
男「へ?」
女「これ。どうかしら?」
男「どう、と言われましても……」
女「ほら。この男は女性に気の利いた言葉の一つも掛けられない様な、
そんな甲斐性無しなのよ」
女性販売員「そ、其の様な事……」
女「――なによ」
男「その藍の色合いは涼しげで、女さんに良く御似合いかと。
朝顔の柄も季節を感じてとても素敵です」
女「……あら、そう? じゃあ之を頂戴」
女性販売員「畏まりました」
男「へっ?」
女「何よ。自分で素敵だなんて謂った癖に」
男「いえ……まさかそんな気軽に御買い上げになるだなんて」
女「お父様は御金を稼ぐだけ稼いで、殆ど手を付けないものだから。
まぁ、父親の脛を齧る世間知らずの娘みたいで少し癪だから、
普段はあまり使わない様にはしているのだけれどね」
男「はあ」
女「まぁ。それでも偶には是位の贅沢をしても罰は当たらないでしょう」
男「はあ、まあ」
女「何を呆けて居るの? 次の店に行くわよ」
男友「ねぇ。マスター?」
旦那「なんだい?」
男友「冗談は抜きにして、男ちゃんと御嬢様は何処へ行ったのかしらねぇ」
旦那「そうだねぇ。まぁ、買い物の荷物持ちが精々じゃあ無いかな」
男友「いえ。でも普段御嬢様は余り御買物はしないのよ」
旦那「へぇ、そうなのかい」
男友「時々、――其れは本当に稀な事なんだけれど。
とても稀に、大きな御買物をするくらいね。
ほら、あの自転車とかがそうね。普段の生活は本当に質素なものよ」
旦那「でも、御金には不自由していないんだろう?」
男友「まぁ、其れはそうなんでしょうけれど」
旦那「じゃあ、買物という線は無いかなぁ」
男友「そうねぇ。演劇でも観て居るのかしら」
男友「なぁに? マスター」
旦那「先刻から原稿用紙と睨めっこして、どうしたんだい」
男友「あぁ、之ねぇ」
旦那「……」
男友「アタシ、実は作家に為りたかったのよ。
それで文学の勉強をする為に仏蘭西語なんてちっとも知らない儘に
大学の仏蘭西文学科になんて入学してしまったのだけれど」
旦那「珈琲が冷めてしまったみたいだね。淹れ直そう」
カチャリ。
男友「芥川なんて大好きでねぇ。表紙が擦り切れるまで読んだわ。
高等学校では同人誌なんて書いても見たのだけれど、まぁ鳴かず飛ばずね」
旦那「――煙草を吸っても?」
男友「良いわよ。どうせ客はアタシしか居ないんだしね」
旦那「はは。違いない」
今思えばどうして故郷を出てこんな処まで来てしまったのかしらね。
ねぇ、知っている? 津軽は本当に雪深くて――素敵な処なのよ」
旦那「へぇ。僕も一度行ってみたいな」
男友「只、確りと服を着込んで行かないといけないわね」
旦那「そうだね。心得ておこう。
――しかし、珍しいね」
男友「なにがよぅ?」
旦那「男友くんが僕に自分の事を話すなんて。
女友くんと此処で再会した時以来じゃあ無いかな?」
男友「そうかしら?
……まぁ、兎に角。少し悩んで居てね」
旦那「何をだい?」
男友「此の儘、何と無しに大学に通い続けて良いものかしら。
ねぇ、知っている? もう留年も弐度目なのよ、アタシ」
旦那「ふぅむ。女友くんには相談したのかい?」
男友「なっ、何であの子の名前が出て来るのよぅ!」
男友「じょ、冗談じゃあ無いわっ」
旦那「小説家に為りたいのなら、沢山の人生の経験を積むことだと思うけれどね」
男友「な、何よ」
旦那「事実は小説より奇也。そう謂うじゃあ無いか」
男友「其れはそうだけれど……」
旦那「色恋の一つもした事がない作家の小説を読みたいとは、
少なくとも僕は思わないねぇ、男友君」
男友「……」
旦那「まぁ。僕が口を出す様な事でも無いのだけれどね。
いやぁ、然し若いと謂うのは素晴らしい事だね」
男友「ふふ。マスターだってまだ若いわよ」
旦那「おや。もうこんな時間だ。
僕は少し出掛けなければいけないから、男友くん」
男友「何よぅ」
旦那「若し、牛乳を配達に来る人などが居たのなら、宜しく伝えておいてくれよ」
男「ちょ、ちょっと女さん。待って下さいよ」
女「なにかしら、男くん」
男「いえ……少し、腕が痺れて来ました故」
女「あら。荷物を持ってくれる人が居るからと謂って、
少し買い過ぎたかも知れないわね」
男「……之はどう考えても買い過ぎかと思いますが」
女「困ったわね。男くんは軟弱と謂っても一応は殿方だから、
これくらいの荷物は大丈夫だと思ったのだけれど」
男「それは随分と高く買って頂いていたようで」
女「自転車が有れば籠に荷物を入れる事も出来たのだけれど。
――まぁ良いわ。少し何処かで一休みしましょうか」
男「はい?」
女「“一つ喫茶と洒落込もうでは無いか”。そう謂ったのよ」
女給仕「御注文はお決まりでしょうか!」
男「私は珈琲を」
女「そうね。わたしは苺パフエを」
男「え?」
女「……何よ」
男「いえ。何でも」
女給仕「よろこんで!」
男「ふぅ。ひと心地付きました」
女「そう。其れは良かったわ」
男「……」
女「……」
男(……どうしてこの人と居ると無言が恐ろしいのでしょうか)
女「良くこの蒸し暑いのにそんな熱いものが飲めるわね」
男(その矢鱈と甘そうな物を食べるよりは幾許か増しかと思うのですが)
女「……」
男「……」
女「……ひと口、食べる?」
男「へっ」
女「冗談よ。そんな情けない声を出さないで頂戴。見っとも無いわ」
男「……失礼致しました」
女「……」
男(……その冷静な顔で一心不乱にパフエを食べる姿が滑稽だ、
等と謂ったら一体どんな暴言を吐かれるのでしょうか)
女「……なによ」
男「いえ。何でも無いです」
男(そしてあっと謂う間に完食……)
女「――ところで」
男「はい?」
女「貴方、女友とも知己らしいわね」
男「え? ああ。この間ライオンと謂う喫茶で御一緒致しました」
女「ふぅん」
男「女友さんがどうかされたのですか?」
女「今日、女学校で話し掛けられてね。其れだけの事よ」
男「はあ」
女「……」
男「……」
女「――そろそろ良いかしらね」ぼそりっ
男「はい?」
女「何でも無いわ。店を出ましょう、男くん」
男「ですから女さん、歩くのが速いです」
女「あら。そうかしら?」
男「……全く」
女「何か?」
男「いえっ。何でもっ」
女「そう?」
男(――少しは心を開いてくれたかと思って居ましたが、
どうやら之は本当に只の荷物持ちのようですね。
先行きは永いと謂う事ですか……)
女 ピタリ
男「……?」
女「嗚呼、そうだわ。男くん」
男「何か?」
女「わたしが自転車を買った御店、丁度この辺りなのよ」
男「……はぁ?」
女「折角だから、寄ってみる事にしましょう」
がらり
中年店員「ん? ――ああ、お嬢さん」
女「御機嫌よう、店員さん」
中年店員「丁度良かった、つい先刻とど――」
女「あら店員さん。また新しい自転車を入荷したのね。
希少だと謂っていたのに、之は凄いじゃあない」
中年店員「……はぁ?」
女「そう謂えば男くん」
男「はぁ」
女「その両腕一杯の荷物。自転車に乗せて押せば、
少しは楽に家まで帰れるのではないかしら?」
男「え? ああ。其れはそうかも知れませんが……」
女「ふむ、店員さん。その自転車、頂けないかしら」
男「はっ!?」
店員「ええ。そりゃあ勿論良いですけれど」
男「然し、本当に良いのですか……?」
女「何か不満でも?」
男「いえ。そう謂う訳では……」
女「あらそう。じゃあ、家に帰るわよ。男くん」
男「はぁ」
女「店員さん、どうも有難う」
中年店員「いえ。此方こそ毎度御贔屓に」
女「ほら。呆けて居ないで行くわよ。もうすっかり夜も遅いわ」
男「ええと、はい」
ガラララ……ピシャン。
中年店員「あのお嬢さんも変わり者だなあ。
――ああ、しまった。予約票を預かるのを忘れて居たな。
……まぁ、良いか」
かららららっ……。
女「荷物を運ぶのが楽になって良かったじゃあない」
男「こんな高価な物、本当に頂いて良いのですか?」
女「それくらい別段大したことは無いわ」
男「はぁ」
女「……」
男「……」
女「――嗚呼、そういえば」
男「何か?」
女「昨日謂ったわよね。自転車の練習をしておきなさいと」
男「そう謂えばそんな話もしましたね」
女「丁度良かったわ。わたしの自転車で練習をされて、
仕舞いに壊されてしまっては厭だもの」
男「御心配せずとも勝手に女さんの自転車を使う様な事はしませんが」
態々自転車を買った意味が無いのだから、
確りと練習をしておくことね」
男「はぁ。精々頑張ります」
女「……」
男「……」
女「――ねぇ、男くん」
男「はい?」
女「そう謂えばわたしは、
こんな綺麗な夕暮れの中を誰かと帰路に着くと謂うのは、本当に久しぶりだわ」
男「女さん……?」
女「――昔、今となっては本当に昔の事だけれど。
お父様とお母様と三人で、この道を歩いたのを覚えて居るわ」
男「……丁度こんな、少しだけ胸を打つ程綺麗な洛陽の中を?」
女「そうね。丁度こんな、何もかもを透かしてしまいそうな洛陽の中を」
女「右手にお父様の手を、左手にお母様の手を繋いで。
濃くなった影がすうっと長くなって……」
男「女さん……」
女「――如何してかしらね。あの頃は、あんなにも仕合わせだったのに。
何時からかわたしは、わたしを残して去ったお母様を恨み、
その原因を擦り付けて、お父様をも恨んでしまった」
男「いえ。きっと……仕方の無い事だったのです。
そして多分それは……其れだけお母様の事を、そして先生――お父様の事を
大切に思っていたからなのではないかと、私はそう思います」
女「……そう」
男「……ええ」
女「――もう、あんな昔の事は忘れてしまっていた筈なのに」
男「……」
女「不思議だわ。如何してかしらね……。
如何して――涙が止まらないのかしら……」
女「――御免なさい」
男「何がですか?」
女「いえ……わたしとした事が、たかが落日に涙してしまうなんて」
男「いえ。きっと必要な事だったのですよ。
偶には泣かなくては涙が貯まって仕方が無いです」
女「――」
男「女さんは滅多に涙を流したりはしなさそうですしね」
女「……貴方ねえ」
男「おろ。これは失敬」
女「……くすりっ」
男「これは。笑われてしまった」
女「何だか少し疲れてしまったみたい。先に部屋に戻るわね」
男「ええ。ゆるりとされると良いでしょう」
女「――嗚呼、そうだ」
男「なにか?」
女「自転車――確りと練習しておきなさいよ?」にこり
ガラッ。
猫「……ほおう」
男「なんですか出し抜けに」
猫「いやいや。如何なる事やらと案じていたのだが、
如何やら上手く行った様ではないか」
男「……果たして、あれで良かったのでしょうか?」
猫「どう謂う事だ?」
男「いえ。女さんは頭では御両親を許したいとお考えなのだと、そう思いました。
故にあの様な謂い方をしたのですが、
何だか解った様な口を利いてしまったのではないか、と……」
猫「やれやれ。お主は心配性だな」
男「人の心に触れると謂うのは、とても難しい事です故」
猫「っくく。謂うようになったではないか」
猫「なんだ?」
男「お借りした本を返そうと思ったのですが、
男友さんの姿が見えないのです。
どちらにいらっしゃるか御存知では無いでしょうか?」
猫「嗚呼。其れなら放って置くと良い。
本は部屋に戻しておけば、それでよかろう」
男「どう謂う事です?」
猫「お主も事情を察する事くらい出来るだろう?
詰まりはそう謂うことだ」
男「はぁ」
猫「まぁ、お主は今一つ人間臭い処が無い故解らぬやも知れぬがな」
男「まさか猫にこの様な事を謂われる日が来るとは」
男「はい」
猫「“あの娘が両親を赦したいと考えている”。そう言ったな」
男「私の所感故、誤って居るのやも知れませんが……」
猫「まぁ、其れならば、お主がそう確信を持てた時で良い」
男「何か助言を頂けるのですか?」
猫「ふむ。“願いを叶える”等と嘯いておいて、之まで碌に仕事をしなかった物でな」
男「はぁ」
猫「然しまぁ、吾輩の出る幕が無いと謂うのならば、
其れは其れで結構な話しなのだがな。
“猫の手を借りて惚れた女を助けた”等、少々格好が付かないでは無いか」
男「それは、まぁ」
猫「然し、まぁ憶えて置くと良い」
男「何をです?」
猫「“姿灯”。この街で昔語られた事のある話だ。
季節も良かったようだな。実にお主は運が良い」
男「……スガタビ?」
カパーンッ!
男「ふぅ。薪はこんな物で良いですかね」
ザッ。
男「……ん?」
女「あら。随分と殊勝な事ね」
男「ああ、女さん」
女「そう謂えば、男友くんを見ないわね」
男「それならば、独りにして置くのが良いそうです」
女「?」
男「あぁ、いえ。何でもありません」
女「一緒に入る?」
男「へ?」
女「御風呂よ」
男「……え?」
女「冗談よ。何を鼻の下を伸ばしているのよ、助兵衛」
男「はぁ。まだ何か?」
女「……何か不満でも?」
男「いえ。滅相も御座いません」
女「今直ぐ行けばまだ商店が開いて居る時間だろうから、
氷菓子を買ってきて頂戴」
男「へ?」
女「御風呂は焚き続けなくていいわ。
こんなに暑いのだもの、どうせ長湯はしないから」
男「はぁ」
女「折角なら、自転車に乗って行けば良いじゃない」
男「ですから、私は未だ自転車に乗れません故」
女「良い練習の機会じゃあ無い」
男「夜道で練習は危ないでしょう!?」
女「はぁ。一々面倒臭い人ね。
“お駄賃を上げるから、御使いをして来なさい”。そう謂っているのよ」
――まぁ、女さんも元気になったようで良かったですが」
がらららっ。
男「ええと、御免下さい」
「はい! 少々お待ちを~っ!」
男「おや。この声は……」
女友「ああ、男さんじゃあないか!」
男「今晩和、女友さん。
知りませんでした、此処が女友さんの伯父様の商店だったのですね」
女友「ああ、そうなんだ。それで、何か買いに来てくれたのか?」
男「ええ、我が儘な淑女にお使いを命じられまして」
女友「我が儘な……? 女さんの事か?」
男「其れは私の口からは謂えません」
女友「ん? なんだ?」
男「男友さんを見掛けませんでしたか?」
女友「男友? 夕刻にライオンへ牛乳の配達に行った時に見たけれど、
それきりだな。男友がどうかしたのか?」
男「先刻から姿を見掛けません故、少々心配になりまして。
まぁ、消息筋に拠れば放っておくのが良いそうなのですが」
女友「消息筋?」
男「ああ、いえ。何でもありません」
女友「そうだなぁ……嗚呼、あそこかも知れない」
男「あそこ?」
女友「アイツは此方に来てから何か考え事があると、神田明神に行くんだ。
そう謂えばライオンで見掛けたアイツは、
何処と無く元気が無かったかも知れないな」
男「はぁ」
女友「そうだ、男さん。
わたしももう店を閉めるから、良かったら一緒に行ってみないか?」
りーん……りーん……。
男「然し、良かったのでしょうか」
女友「何がだ?」
男「いえ。恐らく放っておけというのは、
“独りで考え事をしたい時も有る”という意味だと思うのですが」
女友「男さんは先刻から可笑しな事を謂う。
だって、其れは男友本人から直接謂われたのでは無いのだろう?」
男「其れはそうなのですが」
女友「……この桜の木は、春になると淡い桃色の花が美しく盛んに咲くんだ」
男「ほう」
女友「ほら。わたしと男友は北の雪国で育ったから、冬が辛く長かったんだ。
だから、わたしは毎年桜が咲くのを心待ちにしていたんだ。
きっと男友にとってもそうだったのだろう。
桜はわたし達にとって、特別な花なんだよ」
女友「やれやれ。矢張り此処に居たか」
男「……」
女友「ん? どうした男さん。行かないのか?」
男「嗚呼……いえ。女友さん」
女友「なんだろう?」
男「この氷菓子を差し上げますから、男友さんとお二人で召上って下さい」
女友「いいのか? と謂うより、男さんは行かないのか?」
男「我が儘な淑女には、今回は我慢して頂きます。
其れにこのまま家に持って帰っても溶けてしまいそうですし。
それに何だか今は、此処に――御二人の特別な場所に、
私は居るべきでは無いと思うのですよ」
女友「そうか、……うん、解った。
何だか済まないな。わたしが誘ったばかりに」
男「いえ、いいんです。帰って自転車の練習でもすることにします」
りーん……りーん……。
女友「よう」
男友「アンタ……どうして此処に?」
女友「男さんが商店にいらっしゃってな。先程まで一緒だったのだが、
お家に戻られた。どうやら気を遣ってくれたようだ」
男友「……そう」
女友「あぁ、其れから、之だ」
男友「……其れは?」
女友「氷菓子だ。男さんは帰って皆で食べる心算だったのだろう。
三つあるけれど、折角だし全部食べてしまおう」
男友「ふふっ、男ちゃんらしいわね」
女友「嗚呼、良かった。漸く笑ってくれたな」にこり
女友「なんたってウチの商品だからな!」
男友「ええ、……そうね」
女友「何だ。“無い胸を張るな”等と軽口を叩かないのだな」
男友「まあ。まさかアタシに神前でそんな卑猥な言葉を謂わせるつもり?」
女友「っく。あははっ。漸く普段の調子に戻って来たじゃあ無いか」
男友「アンタが強引だからよ」
女友「わたしは馬鹿だからな。力業しか使えないのだ」
男友「……全く」くすりっ
ふわり。
女友「ん。夜風が気持ち良いな」
男友「――悪かったわね」
女友「ん? 何がだ?」
男友「男ちゃんにもそうだけれど。アンタにも心配掛けたみたいで」
女友「ああ、そんな事か。わたしは少しも気にしては居ないよ。
それに、きっと男さんだって同じだろうさ」
男友「なぁに?」
女友「今から謂うのはわたしの独語だから、別に返事はしてくれなくて良い。
只訊いてくれれば、それでいいから」
男友「……?」
女友「昔々、雪の深い国に生まれた女の子が居りました」
男友「……」
女友「その女の子はその国でも稀代の美少女と呼ばれ――」
男友「異議アリッ!」
女友「何だよ。人様の独語の邪魔をするなよ」
男友「……アンタねぇ」
女友「山間の小さな町で、その女の子はすくすくと育ちました」
男友「……」
女友「女の子の隣の御宅には、少々――いや。大分変わった男の子が済んで居りました」
男友「まぁ、悔しいけれど其れは認めるわ」
女友「男の子はかなり変わって居た故、周りの子供からは良くからかわれて居ました。
遣り返せば良いのに。男の子は泣き虫なので、
仕方無く女の子は男の子を助けてあげていました」
男友「アンタ、“仕方無く”ってねぇ」
男の子はなにやら作家になる為に東京に行くと謂い出しました」
男友「――」
女友「女の子は何だかとても不安な気持ちになります。
自分でもよく解らない、もやもやとした気持ちです。
或いは其れは永く自分が守って来た子の独り立ちを
むずかる親の気持ちかとも考えましたが、愈々答えは出ませんでした。
――そして、見送りの日です。
北国に漸く咲いた桜の花びらが舞う中、
小さくなる男の子の背中を見ながら女の子は決心をしました」
女友「このまま別れてはいけない。この気持ちがはっきりとするまで、
わたしは男友の傍にいよう、と」
男友「アンタ……」
女友「まぁ、何だ。白か黒か解らない物って、
苦手なんだよわたしは――では無くて。その女の子は」
その女の子は特に勉学に励むとか、そう謂う理由では無くて、
ごく控え目に見ても極めて不純な理由で両親に頼み込んで、
東京の女学校に行く事になったんだ。笑っちゃうだろう?」
男友「……全く。女友らしいわ」
女友「まぁ、そう謂うなよ。死活問題だったんだよ、その女の子にとっては。
ええっと、其れで何が謂いたかったんだっけ……あぁ。
要は、こんな適当な理由で女学校に通っている人間も居るんだから、
お前も余り考え込むなと、そう謂いたかったんだ!」
男友「……っく」
女友「……男友?」
男友「っくくく。あはははっ。嫌だもぅ、可笑しいったらありゃしないわ!
そんな風に人を元気付ける女は、この世広しと謂えども、アンタだけよねぇ。
っくく。傑作だわぁ」
女友「なっ――! お前っ、人が折角っ!
……ぷくっ。あはははっ!」
女友「……そんなに笑わなくたって良いだろう」
男友「――アタシねぇ。大学辞めようかと思って」
女友「うん、そうか」
男友「あら、驚かないのね」
女友「まぁな。何年一緒に居ると思っているんだ」
男友「……嗚呼、そうだったわね。アンタとアタシは腐れ縁と謂う奴だったわ」
女友「それで、さ。男友っ」
男友「何よ。もう笑わせないでよぅ?」
女友「そのっ……。わたしが東京に来た理由なのだけれど」
男友「?」
女友「漸く解ったんだ。如何やら之が――“愛しい”という気持ちらしい」
男友「……え?」
*
男友「ねぇ、女友?」
女友「なんだ?」
男友「来年の桜も――綺麗に咲くと良いわねぇ」
女友「ああ! そうだなっ!」ぱっ
女「何か謂い残した事は?」
男「……ありません」
女「そう。
あら――そんなに怯えなくても大丈夫よ。弐、参日もすれば普通に歩けるようになるわ」
男「お、女さん……?
その御手に持った鈍器を下ろしては頂けないのでしょうか……?」
女「知って居るでしょう? 須く罪は罰を以って赦されるべきものなのよ」
男「ちょ……まっ……!!」
女「残念だわ。自転車の練習も暫くお預けね」
男「――っ!! 嗚呼あぁぁぁぁっ!!」
*
猫「……やれやれ。だから放って置けと謂ったであろうに」
男「ふぁ~あ。嗚呼、男友さんお早いですね」
男友「あら、男ちゃん。お早う! 清々しい朝ね。
まるで小鳥のさえずりが聞こえてくるようだわ」
ガタリ。
男友「あら、御嬢様。ご機嫌麗しう――男ちゃん、何をそんなに怯えて居るの?」
男「いえ。其の様な事は、ありませんよ……?」
女「あら。塵――いえ、男くん。怪我の具合は如何かしら?」
男「御陰様で絶不調です」
女「何か謂った?」
男「……いえ、何でもありません」
男友「あらぁ。随分と仲睦まじい御様子で♪」
男「断固として謂わせて頂きますが、決して其の様な――あ」
男友「なによぅ、男ちゃん。急に固まっちゃっ――え?」
女「?」
男「せっ、先生っ。何時日本に戻られたのですかっ!?」
女「……え」
女父「はろう、えぶりばでい。元気にしていたかな?」
女父「イエス、そうなのだが。少し暇が出来てね。
大学に用が在った物だから、少しの間だけまた日本に戻ってきたのだよ」
男「先生……」
女父「之は男くん。
君は此方に来たばかりだらう? もう此方の生活には慣れたかい」
男「ええ……皆さんに良くして頂いて居ますので……」
女父「そうか。それは頗るぐっどだね」
女「……」
女父「そして、女。元気だったかな? ん?」
男(女さん……)
女「お父様、御久し振りです。
では、わたしは庭球の練習があるので、之でっ」
パタンッ。
女父「ははは。女も随分と忙しくしているようだね! 何よりだ!」
男「――少し私も失礼致しますっ」
パタンッ。
女父「んー。こいつぁ困ったねぇ」
男「――居た。女さんっ」
女「……」
男「女さん……」
女「やはり壱年近く会って居ないと、衝撃も大きいわね。それに急だったから……。
でも大丈夫、大丈夫だから……」
男「――大丈夫です。直ぐに慣れます。
それに先生だって悪いお人じゃあ無い。少々個性的なだけで」
女「そんなの解って居るわよッ!」
男「……っ」
女「……御免なさい、動揺してしまっていて。つい……」
男「ええ。大丈夫です。解って居ますから」
女「……御免なさい」
男「少し何処かに座りましょう。顔色が真っ青ですよ、女さん」
からりんっ。
旦那「済まないね。まだ準備中――やぁ、誰かと思えば男くんじゃあ無いか」
男「マスター。開店前の時間に申し訳御座いませんが、
今暫く休ませて頂くことは出来ませんでしょうか?」
旦那「ああ。構わないよ。それよりも女くんは大丈夫なのかい?
随分と参ってしまって居るように見えるが」
女「御免なさい……大丈夫ですので」
旦那「解った、何か温かい飲み物を出そう。
おっと、店は散らかっているが勘弁してくれよ」
男「マスター、有難う御座います」
旦那「いいんだ。
さて、男くんは珈琲で良いとして、女くんは何が良いかな。紅茶にしようか」
男「いえ、お気遣い無く」
旦那「気にしないでくれ。余計な御節介は僕の趣味の様な物だからね」
男「……」
猫「随分と困っている様だな」
男「猫さん……」
猫「して? 娘は今は?」
男「まだライオンにいらっしゃいます。
初めよりは大分落ち着いて居られる様に見えますが」
猫「なぁ男よ」
男「……はい」
猫「吾輩は、満更お主の謂った事も間違いではなかったと思うぞ?」
男「……そうでしょうか」
猫「“頭では両親を赦したいと考えている”。そう謂ったな。
其れは頭以外の部分――まぁ其れを心と呼ぶとしよう。
其処では受け入れる準備が整って居なかったと謂う事だらうさ」
男「私は、どうすれば良いのでしょうか」
猫「謂っておくが、満月は明日だぞ」
男「まぁ、姿灯とやらは最後の切り札でしょう。
その前に為さなければならない事が、有る筈です」
猫「っくく。随分と男らしい顔をするように為ったでは無いか」
男「そうだとするならだ、其れは恐らく猫さん――貴方の御陰ですよ」
吾輩は吾輩の利益になる故、お主に手を貸して居るに過ぎん。
つまり。何かが変わったとするのならば、
男、それはお主自身の力だと謂う事だらうさ」
男「猫さん……」
猫「さぁ、娘の処に戻ってやれ。今少しの時間はお主の支えが必要だらうさ」
男「其の前に、教えて頂けませんか?」
猫「ほう。中々如何して食い下がるでは無いか」
男「猫さんが御自身に立てた契り――。一体其れは何なのですか?」
猫「――そうだな。上手く行けばお主の願いが叶うのも、
もう今日明日中と謂うところであろう。
お主にならば、或いは話しても良いやも知れぬが……」
男「……猫さん」
猫「そうだな。解った」
男「えぇ、確かに其の様な話しをしました」
猫「吾輩は……吾輩の主人――旦那様を捜しているのだ。
そうだな、もう何年も。何拾年も……」
男「猫さんの……御主人を……?」
猫「嗚呼。思えばもう、
吾輩はあの温もりをも久しく忘れてしまっていたな……」
*
猫「……もう良いだらう。娘の処へ行ってやれ」
男「然し、猫さん……。そんなっ。其れではっ――」
猫「男っ! 今、お主が真に案ずるべき相手は誰そっ!」
男「……っ」
猫「行け。娘の為にっ。
――そして其れは、この吾輩の願いでも有ると謂う事を、どうか。
どうか……解ってくれ……」
からりんっ。
男「……女さん」
女「もう大丈夫、大分落ち着いたわ」
男「其れは良かったです」
女「でも、少しだけ。少しだけで良いから、手を繋いで貰っても良いかしら……?」
男「――勿論」
きゅっ。
女「くすっ。存外男らしい手をしているのね」
男「女さんの指は思っていた通り、少し力を入れてしまえば、
折れて仕舞いそうです」
女「なによそれ」
男「儚げで美しい、そう謂ったのですよ」
男「はい」
女「――わたしね、考えて居たのだけれど」
男「何をですか?」
女「もうどれ位お父様と目を合わせて居なかったろう、と。
思えば、逃げて居たのは、何時も私の方だったのかも知れない」
男「……」
女「だから、一度全てを話してみようと思うわ。
在りの侭の……わたしの本音で」
男「大丈夫ですか……?」
女「其れは、少しは怖いわ。
わたしの言葉は、或いはもうこの家を粉々に打ち砕いてしまうやも知れない。
けれど――」
男「……?」
女「――そうね、この先を謂うのは全てが終わってからにしましょう」くすりっ
男友「――先生? 先生なら大学に用があると謂って、出掛けて仕舞われたわよ?
帰りは夕刻になると謂って居たわ」
男「なっ」
女「……全く。相変わらず飄々と肩透かしの上手い事ね」
男「仕方が在りませんね。夕刻に先生が戻られてから、ですね」
女「まぁ。わたしとしても、気持ちの整理が出来て良いのだけれど。
然し、何処と無く勢いを削がれたわね」
男友「……」
男「夕刻まで為す事が無くなってしまいましたね。
男友さん、大学に講義でも受けに行きましょうか」
女「あら。随分と真面目なのね」
男「大学に入ってまだ日が浅いです故。
サボタージュの癖は余り着けたくないのですよ。
男友さん、大学に行きませんか?」
男友「あぁ、そう謂えば未だ謂って居なかったわね。
アタシね。大学を辞める事にしたのよ」
男「……え?」
ああ、まだ暫くは東京に居るけれどね」
男「吹っ切れた様な表情ですね」
女「さぁ。自暴自棄に為って居るのでは無いかしら」
男友「でも大学には少し用があるから、男ちゃんが行くと謂うならば
一緒に行きましょう」
男「はぁ。女さんは如何しますか?」
女「そうね。わたしは今日は家に居ようかしら。
もうすっかり日も高く為ってしまった事だし、
今から女学校に行くのも、何だか億劫だわ」
男「そうですか。では夕刻にライオンで待ち合わせをしませんか」
女「あちらのマスターに御迷惑では無いかしら」
男友「いいのよぅ。マスターはそんな器量の小さい男じゃあ無いわ」
男「木賃と料金をお支払いすれば良いでしょう。
それにそう長居をする訳でも有りませんし」
女「解ったわ。では夕刻にライオンで」
男友「今日も暑いわねぇ」
男「ええ。もう初夏ですからね」
男友「津軽はこんなに暑くなかったわよぅ」
男「男友さんは、何時かは故郷に帰られるのですか?」
男友「アタシ? ん~。どうかしらねぇ。
先の事は何も考えて居ないけれど、どうやらアタシにも
見付けないといけない物が在るって、漸く解ったから。
……だから、帰るとすれば其れが終わってからかしらね。
空っぽの両腕で帰るなんて、そんなの見っとも無いじゃあ無い」
男「見付けないといけない物……とは?」
男友「そうねぇ。――誤魔化してはいけない気持ち、とでも謂うのかしら。
はっきりとさせないと気が済まない様な。
逃げてばかりのアタシだったけれど、此処だけは逃げちゃあいけない。
――之だけは決して譲れない。
そんな気持ちにさせてくれる物……かしらね」
男友「厭ぁねぇ。何だかとても恥ずかしい事を謂った様な気分だわ」
男友「それで?」
男「はあ? 何がですか?」
男友「男ちゃんにも在るんでしょう?
大切な、守らなければいけない物が。見付かったのでしょう?」
男「男友さん……」
男友「貴方は良く気も利くし、見えて居る物も広い。
何より、優しい人だから。だから屹度、大丈夫。
アタシが保障する。太鼓判を押すわ」
男「……大丈夫でしょうか」
男友「アタシは今一つ事情が掴めないけれど、
ずっとあの家にいたんだもの、大体の事は解るわ。貴方なら大丈夫。
だって、あんなに愉しそうな御嬢様は、始めてみるもの」
男「……」
男友「――大丈夫だよ、お前が一緒なら。だから、頑張れ」
男「……はい」
男(さて、ライオンに向かわなければ)
男(……そう謂えば猫さんは如何して居るのでしょうか。
今朝、あの長椅子でお話をしてから姿を見て居ませんが)
――吾輩は……吾輩の主人――旦那様を捜しているのだ。
そうだな、もう何年も。何拾年も……。
男(……)
――この街に居るのなら、居場所も解る筈なのだが。
或いはっ……。或いは、既に御存命では無いのやも知れぬが。
男(猫さん……)
ザッ。
女父「やぁやぁ、之は奇遇だ。男くんじゃあ無いか。
感心だねぇ、確りと勉学に励んでいるのか。
加えて謂うとすれば、そんなに眉間に皺を寄せて如何したんだい」
男「……先生」
男「何がですか?」
女父「好き合って居るのだらう? 女と」
男「なっ!?」
女父「謂って置くが。残念乍、君は言い逃れは出来ない。
何故なら自分は昔から其の手の事に関する勘は外した事が無いからな」
男「少なくとも、女さんの方は私をそうは想って居らっしゃら無いですよ」
女父「おや。之は困ったな。君は随分と自分に自信が無い様だ」
男(あれだけ暴言を吐かれれば其の様な勘違いも出来ますまいて)
女父「……思えば、自分は女に
父親らしい事を何一つして遣る事は出来無かったな」
男「先生……?」
女父「……さて、家に帰ろうか」
男「……先生」
女父「何だね? 男くん」
男「少々――喫茶に寄って行きませんか?」
からりんっ。
旦那「いらっしゃ――おや、之は随分と珍しい御客様だね」
男「済みません、何度もお邪魔してしまって」
旦那「いいさ、丁度暇をしていた処なんだ。ほら、座ってくれ。
それで、御注文は?」
男「私は珈琲を」
女父「自分は苺パフエを頂こう」
男「え?」
女父「……何だね?」
男「――いえ。何でも」
カチャリ。
男「有難う御座います」
女父「ほう。之は美味そうだ」
旦那「時に男くん」
男「はい?」
旦那「煙草が切れて仕舞って、買いに行かなければならないから、
少しだけ留守番を頼んでも良いかい?」
男「はぁ」
旦那「なに。店の看板は“閉店”にして置くから心配はしないでくれ。
じゃあ、宜しく頼むよ」
男「私の……と謂う選りは男友さんの、でしょうか」
女父「成程。道理で大学に行かなくなる訳だな」
男「はい?」
女父「此の様な居心地の良い喫茶があっては、屹度自分も大学なぞ行かなくなる」
男「御尤も」
*
女父「……」
男「……」
女父「もう、どれ位昔の事かな。銀座のパアラアに行ったんだよ」
男「……はぁ?」
女父「女と、女の母親とでね――あぁ。あれの母親の事は?」
男「伺って居ます」
女父「何度か行ったのだが、女は必ず苺パフエを頼むのだ。
そして必ず半分を残した」
男「食べ切れ無かったのですか?」
女父「いいや。自分と、あれの母親に分けてくれて居たんだよ。
今と為っては随分昔の話しだがな。
お陰で自分は苦手だった苺を食べられるようになった」
よもや自分が家庭なぞ持つとは思って居なかったが、
之は之は中々どうして悪くないものだと思っていた」
男「先生……」
女父「然し、何時からだったろうな。
自分は学問に追われ、段々と其れに没頭して行った。
文字の海に溺れ、家庭の事なぞ顧みる事が出来なくなった」
男「……」
女父「何もかもが気に食わなくてな。あれは元々母親の方に懐いていたのだが、
少しずつ、其れが強まった。
まぁ、今思えば当然な事よな。自分から女を見ようとしなかったのだから。
然し当時は其れが気に食わず、家族に当たり散らした。
――女に手を上げた事も在ってな。
未だ覚えて居る。あれは本当に怯えた目で自分を見たのだ」
書斎に籠り、本を読み漁った。
今にして思えば其れは自分から泥沼に足を踏み入れて居ただけなのだらうな。
――今気付いた所でもう遅いのだが」
男「……先生」
女父「何だね」
男「如何して先生は其の言葉を女さんに謂って差し上げないのですか……?」
女父「その資格なぞ疾うに失ってしまったからだよ。
先刻も謂ったらう? 自分は父親として何一つ女にしてやれなかったのだ」
男「……」
女父「周囲は自分を“気狂い”や“変人”と呼んだ。
しかし自分は体裁なぞ如何でも良かった。
知識は素直だった故な。文字の海に溺れれば溺れる程、知識は蓄えられた。
異国の言葉も憶えた。
己の傲慢に溺れて息が出来なくなって居るのにも気付かない儘な」
女父「そんな頃だったらうか――女の母親が家で死んだのは」
男「……っ」
夫として、父親として及第にも遥か及ばぬ成績だつた。
……漸く其れに気が付いたのは火葬場で高く昇る煙を見た時だつた」
男「……」
女父「女の傍近くに居る事資格さえ無い。
之以上あの家に居ては、自分は女さえも壊してしまう。
……いや。既に女の心を歪ませて仕舞つて居た事は承知して居るのだが。
其れから以前より誘いが在った英吉利へと渡った。
今更感じた焦燥と寂しさを埋める為に、妻を娶った。
……あれにも済まない事をしたな。
自分は――逃げたのだ。英吉利と謂う遠く西の果てに」
女父「なあ、男くん」
男「……はい」
女父「女を仕合わせにして遣ってはくれぬだらうか。
こんな自分が穿って仕舞った女の心の穴を――どうか埋めて遣ってくれ」
女父「なっ」
男「“自分には資格が無い”?
何を謂って居るのですか。
父親に資格なぞ必要なのですか?
“自分は女から逃げた”?
其も其も。そんな事を私に仰る事、其の事自体が“逃げ”では無いですか。
何時まで逃げ続けるおつもりなのですか?」
女父「然し……」
男「良いですか? 私には譲れない物が在ります。
先生に頼まれずとも、女さんを仕合わせにして見せます。
良かったですね、その点では私と先生とで利害の一致を見ました。
けれど、先生に勝手に舞台を降りられては不都合が在るのですよ。
此の劇の終末には、女さんが先生を赦す必要があるのですから」
女父「然しっ。其れではあれの母親が自分を赦さないだらうっ」
男「はぁ。……之だから頭でっかちの頑固者は苦手なのですよ」
ガタリ。
女「はぁ。貴方達、黙って訊いて居れば、
人が居ないと思って好き勝手放題に謂ってくれるじゃあ無いの」
女父「……」
女「さて、どちらから文句を謂おうかしらね。
じやあ、先ず、お父様」
女父「……っ」
女「粗方は男くんが謂ったみたいだけれど、
わたしからも質問させて貰うわ。
“父親の資格”って何よ?
其れとも何かしら?
貴方は……貴方はわたしの――父親では無いとでも抜かすのかしら?」
女父「だから、自分は之以上お前の近くに居ては……」
女「あぁ、勉学ばかりしていたから、謝る事を忘れて仕舞っているのね。
だって本には謝らなくても良いもの。
――いいわ。馬鹿な貴方にも解るように解り易く謂って上げる。
“素直に謝れば、わたしは貴方を赦してあげるわ”。
之でも解らないと謂うのならば、
御医者様に御願いして頭を開いて貰う選り他に方法は無いわね」
女「其れと、もう一つ。
――御免なさい、お父様。
わたしは貴方の事を何一つ理解しようとすらして居なかった。
謝ります。御免なさい」
女父「……女」
女「だから、もう仲直りをしましょう。
そうしたら、二人で一緒にお母様の御墓に御参りに行きましょう。
……わたし達は、お母様に謝らなければいけないわ」
女父「――済まなかった、女。どうか……自分を赦してくれ……」
女「良い大人が泣くんじゃあ無いわよ。
泣きたいのは……わたしのっ。……方なのだから」
男(……全く。女さんだって泣いて居るじゃあないですか)
女「――其れから男くん」
男「はいっ!?」
女「貴方、人を“仕合わせにする”だなんて――
……何だか文句を謂う気も失せたわね。
まぁ良いわ。又のお楽しみになさい」
男「っくく。其の様な御顔で仰られても」
女「~っ!」
女父「何だね」
男「水を差す様で気が引けるのですが、別件で御尋ねしたい事が在ります」
女父「謂ってみると良い」
男「実は、或る人を捜して居るのですが――」
*
女「……ねぇ、お父様」
女父「何だ、女?」
女「明日にでもお母様の御墓参りをしましょう」
女父「ああ……そうだな」
男「嗚呼。其の事についてなのですが、御二人」
女「?」
女父「何だね」
男「――御二人は、明日の宵は御暇でしょうか?」
ガラッ。
男「猫さんっ――いらっしゃらない。一体どちらへ……。
おろ。窓が開いて居ますね」
からららっ。
「ああ、男。帰ったのか」
男「猫さん? どちらにいらっしゃるのですか?」
「屋根の上だ。お主も昇って来るが良い。今宵は星が見物だぞ」
男「そう謂われましても私は猫さん程易々とは屋根になぞ昇れませぬ故」
「ええい。這い蹲って昇れば良かろう」
男「はぁ」
男「~っ!」
猫「ほれ、もう少しぞ。頑張らぬか」
男「――っはぁ。全く猫さんは人遣いの荒い」
猫「っくく。まぁ良いでは無いか。見てみろ」
男「これは……」
猫「中々悪くない星空よな」
男「……ええ」
猫「風を読んで居ってな。良かったな、如何やら明日の宵も雲一つ無い様だ」
男「そうですか。其れは良かった」
猫「初夏の宵。良く晴れた空に満月が浮かんで居らぬといけない。
中々に奇遇で無ければならぬとは思わぬか」
男「ええ。そうして少しずつ其の話しを知る者も少なくなって仕舞ったのでしょう」
猫「尤もだ」
猫「なぁ、男よ」
男「はい」
猫「こうしてお主と夜を越えるのは、或いは之が最後やも知れぬな」
男「……」
猫「っくく。何だ? 寂しいのか?」
男「……はい」
猫「む。正直に応えられては吾輩も返答に困るでは無いか」
男「……ぷくくっ」
猫「――壱百の人間の願いを叶えた暁には、袂を分つた御主人と再会出来る。
今思えば、良くぞ此の様な面倒な言霊に契りを交わした物だ」
男「猫さん……」
猫「……或いは壱百人目がお主だつたのも、何かの縁なのやも知れぬな」
男「随分と有難くない縁も在ったものです」
猫「なんと」
男「冗談ですよ。――私は屹度、此の縁を一生忘れないでしょう」
猫「ふむ。そう謂えば、流星に願いを掛けようとした事も在ったな」
男「はぁ」
猫「只座って宵の空を眺めるのだ。
星は滅多に流れぬ故、僅かも気を抜く事は出来ない」
男「して、願いは掛けられたのですか?」
猫「否。星と謂う物は随分とせっかちな奴でな。
見付けた途端に消えて仕舞うのだ。
もう少し空で遊んでも良かろう物に……」
男「ふむ」
猫「星は、あの様に急いで、何処へ行こうとして居るのだらうな。
或いはその儚さ故に、こうも見る者の心を打つのやも知れぬが」
男「ええ、屹度そうです」
猫「吾輩も、もっと急げば良かったのだらうな。
ゆるりとして居る内に、もう幾拾年の歳月が流れて仕舞った。
――早く逢いたいと謂うのに。
吾輩は如何も一番大切な処で間違ってばかりな気がしてならないのだ」
猫「……」
男「……」
猫「――男よ。もう眠って仕舞ったか?」
男「……何ですか?」
猫「其のだな。……一つ、頼みたい事が在るのだが」
男「謂ってみて下さい」
猫「いや。その前に何としてでも断つて置きたい事があるのだがっ。
良いか? 決して吾輩は不安だとか、そう謂う訳では無いのだぞっ。
そう謂う訳では無くだなっ。何と謂うか……」
男「随分と面倒な人――否、面倒な猫ですねぇ」
猫「なっ、何だ其の物謂いはっ」
男「はいはい。申し訳御座いませんでした猫さま。
して、猫さまの御頼みとは何でしょうか?
私めに出来る事ならば、この微力尽くさせて頂きますよ?」
猫「む。何故そう意地悪をするのだ……」
猫「お主が悪いのだからな……」
男「――何ですか? 猫さん」
猫「そ、其のだな。今宵だけは、同じ布団で眠らせて貰えないだろうか……?」
男「――お安い御用ですよ、猫さん」
*
猫「……明日は、屹度良き日になるよな?」
男「実は私は――猫さんに謂って置かなければいけない事が」
猫「……?」
男「いえ……何でもありません」
猫「何だ。変な奴だな」
男「――申し訳御座いません」
猫「……もう眠るよ」
男「……」
猫「――御休み、男」
男「御休みなさい――猫さん」
女「……」
男「むにゃ……ぐぅ」
女「……」
男「……すぅ」
女「……」つんっ
男「む……んぅ」
女「……」つんつんっ
男「猫……さん……?」
女(……猫?)
男「……ぐぅ」
女「起きなさい、男くん」
男「むにゃ……」
女「男くん。今直ぐに起きないと、接吻するわよ?」
男「……すぅ」
女「――」
男「……む? 女さん?」
女「あら。お早う――と謂っても、もう日も随分と高いのだけれど」
女「そう」
男「然し女さん、何故私の部屋に?」
女「そうね。余りに部屋の中が静かだから、若しかしたら息絶えて居るのかと思って」
男「はぁ」
女「――と謂うのは冗談なのだけれど。
男くん、貴方にお礼を謂おうと思ってね」
男「礼……?」
女「お父様と仲直り――は、まぁ此れからなのでしょうけれど。
その切っ掛けを作ってくれたのは、男くん。貴方だから」
男「……む」
女「どうしたの? そんなに浮かない顔をして。
普段より数段、うだつの上がらない顔に為って居るわよ」
男「……其れはどうも」
男「いえ。……今思うと、私は何と謂う事を先生に謂って仕舞ったのでしょう。
あの様な口を利いて、先生は屹度大層お怒りですよね。
思い起こす事すら恐ろしいです……はぁ」
女「いいわ。一言一句、わたしが再現をしてあげる」
男「へっ?」
女「“何時まで逃げ続けるおつもりなのですか”」
男「うっ」
女「“はぁ。之だから頭でっかちの頑固者は苦手なのですよ”」
男「ううっ」
女「“私は実は幼い女児が好きなのです”」
男「勝手に捏造をしないで頂けますかッ!?」
女「――“私には譲れない物が在ります”」
男「……あ」
女「“先生に頼まれずとも女さんを仕合わせにして見せます”」
男「いえ。其れは、其のっ」
男「ええと、何と謂いますか……。
あの時の私は些か興奮をして居りましてですね」
女「あら、そう」
男「其れに、まさか女さんがあの様な処に隠れて居らっしゃるとは露にも思わず」
女「ふうん」
男「大変勝手な事を謂いました。申し訳御座いませんでしたっ。
――おろ? 女さん?」
女「何よ」
男「怒って居らっしゃら無いのですか……?」
女「今回は特別に赦して上げる。
但し。次からは木賃とわたしの同意を得てから、其の様な事は謂いなさい」
男「……はぁ」
女「さて、散歩に行くわよ。早く準備を済ませなさい」
女「随分と冴え無い顔をしているじゃあ無い。
ひょっとして、男くんはわたしと散歩をするのが嫌なのかしら?」
男「申し訳在りませんが、私は生まれて此の方この様な顔なのですよ」
女「あら、そうなの。其れは随分と気の毒な話ね」
男「御慰め痛み入ります」
*
女「木々の緑も随分と深く為って来たわね」
男「そうですね。此れから本格的に暑くなります。
……と謂っても、既に茹だる様な暑さですが」
女「夏と謂えば、そうだったわ。
今年の明神の祭りには、朝顔柄の藍染めの浴衣を着て行こうかしら」
男「……あ」
女「見たい?」
男「……ごくりっ」
女「あら。見たくは無いのね。残念だわ。
非道いじゃあない。わたしに良く似合って居る、と謂ってくれたのに。
あれは其の場限りの口三味線だったのかしら」
男「み、見たいですッ! 是非とも見せて下さい女さんの浴衣を召された御姿ッ!!」
女「あら。じやあ、精々首を長くして楽しみにして居なさい」
男「はぁ」
男「おや、女友さん。店先で打ち水ですか、御苦労様です」
女友「ああ、男さん。今日も随分と暑いからなぁ」
女「ふうん。貴方達、何時の間に其の様に親しげに名を呼び合う仲に為ったのかしら?」
女友「ああ、そうだ。御二人とも、此処で少し待っていてくれ!」
男「はぁ」
女「……」
男「あの。女さん?」
女「何かしら?」
男「其の。如何して其の様に不機嫌なお顔を為さって居るのでしょう……?」
女「あら。気の所為よ、男くん」
男「はぁ」
男「おろ? 其れは?」
女「……」
女友「氷菓子だ。男さんには先日、丁度同じものを奢って頂いたからな。
そのお返し、と謂う訳だ。御二人で食べてくれ」
男「あ、有難う御座います」
女「成程ね。女友に、氷菓子を、奢った。
けれど今一つ解せないわね、男くん。わたしに説明をしてくれないかしら。
わたしの記憶違いで無ければ確か、あの時氷菓子を買ってくるよう頼んだのは
女友では無くて、わたしだった筈よね?」
男「こっ、此れには谷よりも深い理由が在りまして……」
女「あらそう。じやあ其の理由は後でゆっくりと訊かせて貰おうじゃあない」
男「……はい」
女「女友、氷菓子をどうも有難う。男くん、行きましょう」
男「はぁ」
女「こう暑いと矢張り美味しいわね」
男「あの、女さん」
女「何かしら、男くん?」
男「未だ怒って居らっしゃるのですか……?」
女「あら。わたしはそんなに狭量な女では無いわ」
男「はぁ」
女「まぁ。どうせ男くんの事だから、
女友と男友の為に一役買っただけなのでしょう。
わたしにだつて、其れ位は解るわ」
男「……」
女「わたしやお父様の事だってそう。
貴方は何時もそうやって他人の面倒事に巻き込まれる、御節介な人なのね」
男「食べたいのならどうぞ」
女「止めておくわ。此処で男くんに食い意地の張った女だと思われるのは、
恐らく得策ではないから」
男「はぁ」
女「……」
男「……」
女「……然し、どうなのかしらね」
男「何がです?」
女「わたしとお父様は確かに此れから、少しずつ不和を解消出来るかも知れない」
男「ええ。きっと」
女「――でも、亡くなったお母様は、其れを赦してくれるのかしら」
男「女さん……」
女「お母様があの様な事に為って仕舞ったのは、
確かにお父様の所為かも知れない。けれどわたしにもやはり責は有った。
家族だったのだもの。関係が無い筈は無い。
――或いはお母様を救える唯一の人間は、わたしだったかも知れないのに。
なのに、わたしは何も出来なかった。
あまつさえ、わたしはわたしを独り置いて行ってしまったお母様を恨みまでした。
そんなわたし達が此れからまた親子としてやつて行こうと謂うのは、
矢張り幾分か虫がいい話なのでは無いかしらね」
女「御免なさい。大丈夫よ。少し不安になっただけだから」
男「けれど先生も仰って居ました。“最早自分を赦してはくれぬだらう”と」
女「そうね。……其の通りだと思うわ」
男「――けれど女さん。貴女のお母様は果たして、
貴女や先生を憎み、世を儚んで行って仕舞われたのでしょうか。
記憶の中の貴女のお母様は、優しい人だつたのでは無いですか?」
女「そうよ。お母様は優しい人だつた。
少し困った様に笑うお母様の顔が、わたしは本当に大好きだった。
けれど……」
男「屹度――お母様も貴女や先生に謝りたいのではないかと、私は思います。
夫を支える事が出来ず、愛する娘を独り遺して仕舞った御自身を……」
女「そんなのっ。もう解らないじゃあ無い。
確かめ様の無い、……只の、都合の良い推測だわ」
男「……女さん。
もうすぐ日が沈みます。先生も御一緒に連れて、行きましょうか」
女「何処に行くと謂うのよ」
男「まぁ、良いから付いてきて下さい。
これが私からの――最後の御節介です故」にこり
ざっざっざっ……
男「御二人とも、足下に気を付けて下さい」
女父「男くん、一体何処に行こうと謂うのかね」
女「……」
“――遠く、遠く昔に語られた此の街の伝承”
男「未だ本番の夏には少し在りますが、居てくれると良いのですが……」
女父「何を謂って居るんだ?」
女「さあ。わたしにもさっぱり」
“――初夏の宵。良く晴れた空に満月が浮かんで居らぬといけない”
女父「然し思えば自分はこの小山に登つた事は無かつたな」
女「ええ、わたしもです」
“――場所は解るか? 悪いが先に行って居てくれ。後から吾輩も行くがな”
男「――っと。足下が泥かるんで居ますので、滑らぬようにして下さい」
女「泥かるむ? 暫くは雨など降らなかったのに」
女父「ふむ」
“――吾輩にも、其処で確かめねばならぬ事が在る故”
男(猫さん……)
女父「と、危ない。大丈夫か、女」
女「ええ、有難う御座います」
“――木々の間を分け、拙い獣道を抜けた其の先。
唯一あの小山で木々が無く、月明りが差し込む其の場所は在る”
ザッ。
男「此処か……」
女「蒼い月の光で照らされて……。まるで鏡みたい……」
女父「如何やら湧水が出て居る様だな。
先刻から土が泥かるんでいたのは此れの所為で在ったか」
女「男くん」
男「はい」
女「わたし達を此処に連れて来たのは、この景色を見せる為なの?」
女父「うむ。確かに美しい場所ではあるが」
男「……居てくれないのでしょうか」
女「居る? 先刻から何を謂って居るの?」
女父「男くん? 一体君は何を企んで……」
ふわり。
男「――あ」
女「此れは、一体……?」
“――頼りの無い、儚い灯故。
お主ら人間には目が慣れる迄見え辛いやも知れぬな ”
女父「此れは……」
女「――蛍。何時の間にこんなに沢山集まって……」
女父「女、あれは――」
女「そんなっ、まさかっ。――お母様っ!!」
*
猫「如何やら迷わずに辿りつけた様だな」
男「……猫さん」
猫「“姿灯”。空に雲ひとつ無い初夏の満月の宵にだけ起きると謂う言い伝え。
泉に集まった幾百の蛍の灯が生者の想いに応じて――死者の姿に映ると謂う」
男「あの御二人には……」
猫「ああ。お主と吾輩には蛍の群れにしか見えぬが、
屹度見えて居るのだらうさ。母君の姿がな」
男「……そうですか」
猫「ふむ。然し中々浮世離れした光景ではないか」
男「蒼い月明りが照らす中で、数え切れない程の淡い緑の灯が点滅して……。
確かに此れはこの世のものとは思えないです……」
猫「嗚呼。此処にならば、
或いは亡くした者の心が降りてきても不思議には思えぬな」
男「ええ……。本当に……」
女父「いや、謝らねばならぬのは自分の方だ。
本当に済まなかった。幾千と謝っても赦されるとは思つて居らぬが……」
女母の灯「――」ふるふる
女「わたし、何も出来なかった。お母様が苦しんで居るのも知らずに……。
其ればかりか、わたしはお母様を恨みすらした。
どうか……わたしを赦して……」
女母の灯「――」にこり
女「如何して――如何してそんなに優しいお顔で笑うの……」
“――本当に謝らなければいけないのは私の方よ、女。
貴女を遺してしまって、本当に御免なさい。
恨まれても然るべきことを私はしてしまった。どうか私を赦して頂戴……”
女「そんな……っ!!」
お前や女を大切にしてやることが出来なかった」
女母の灯「――」ふるふる
女父「然し、決めたのだ。自分は此れまで失った時間を取り戻す為に
尽力をする――もう逃げないと。
だからどうか、赦して欲しい――見て居て欲しい。
お前を追い込んだ此の自分が、
此れから女と時間を過ごして行くのを……どうか……」
“――旦那さま。貴方が苦しんで居られる時に、私は何の支えにも為れなかった。
どうか、女の事を宜しくお願い致します。
其れが出来損いの家内であった私の、最後の願いなのですから……”
女父「済まない……本当に……」
“――女、どうか仕合わせに為って頂戴。
私が謂える台詞では到底無いけれど、私が望むのは只其れだけだから……”
女「ええ、屹度――。……あれは少し頼りない男なのですが」くすり
“――旦那さま。私は本当に貴方の事を――御慕いして居りました。
今の奥様を、どうか仕合わせにして差し上げて下さい……”
女父「其の様な……っ」
……ふわり。
“――さようなら”
猫「ん? 何だ?」
男「宜しければ、教えて下さい。
猫さんが此処で確かめたかった事とは、一体何なのですか?」
猫「――旦那様に会えるのではないかと思っていたのだがな。
然しどうやら駄目だったようだ」
男「然し、生者の想いに応じて蛍の灯が死者の姿を映すのならば――」
猫「やはり、旦那様は既に亡くなっていたのだらうか?」
男「……先生が御存知でした。数拾年前に、新たに越した先での事だつたそうです」
猫「……そうか」
男「申し訳ありません。本当は昨夜謂うつもりだったのですが……」
猫「気にするな。良いのだ。
ああ、そうだ――お主の布団はとても寝心地が良かったぞ。
旦那様と、あの様にして眠った夜を思い起こされるようだった」
男「猫さん……」
如何して猫さんには御主人の御姿が見えないのでしょう……」
猫「それは、まあ簡単な事よの」
男「……?」
猫「姿灯が映すのは生者の想い、生者の心。
吾輩は――生者では無い故な。旦那様に御姿が見えぬのも道理であろう」
男「え……?」
猫「お主には吾輩は生きて居るように見えるのだらう?
然し、恐らくあの娘にも、その父にも、男友にも。吾輩の姿は見えぬだらうさ。
吾輩の姿が見え、吾輩の声が聞ける人間は本当に少なかった。
故に壱百人の願いを訊くには、永い時を要したのだ」
男「そんな……っ」
猫「若しかすると、吾輩にも旦那様の姿が見えるのでは無いかと期待したのだが。
……伝承とは酷な迄に正しい物よの」
男「――猫さん」
猫「なんだ?」
男「私は確かに私の願いを叶えて頂きました。
故に、此度は私が猫さんの願いを――御自身に契った言霊を叶えます」
猫「可笑しな事を謂う。お主に何が出来ると謂うのだ」
男「なに。只の――道案内ですよ」
猫「おい、あの二人をあそこに置いて来て仕舞って良かったのかっ」
男「寧ろ、私が居ない方が良いでしょう。私は只の案内人に過ぎないのですから」
猫「其れはそうやも知れぬが……」
ザッ。
男「先生が御存知だつたのですよ。猫さんの御主人が眠られる処を」
猫「まさか……この街の此の寺に居られたのか……」
男「流石の猫さんも、亡くなった方の事までは解らぬようですね」
猫「どうして……」
男「行きましょうか、猫さん」
猫「……ああ。然し、まさかお主に道案内をされるとはな」
男「ええ。本当に、不思議な縁です」
男「さて。この中から猫さんの御主人の眠られる処を捜さねば」
猫「いや――」
男「はい?」
猫「解る……。何故かは知らぬが。
旦那様が吾輩を、呼んでいらっしゃるような……そんな気がするのだ」
男「猫さん……」
猫「――嗚呼。この声を、間違い様が無い。
幾千の夜、幾千の夢の中で訊いた、この御声を……」
男「……っ」
猫「――なぁ、男よ」
男「何でしょうか、猫さん」
猫「吾輩はお主に逢えて、本当に良かった」
男「其れは私とて同じです、猫さん」
猫「――では、行くよ」
男「……ええ」
猫「然らばだ――我が友よ」
――あの夜、空にはぽっかりと満月が浮かび、
その蒼い光が猫さんの後姿を照らして居りました。
数多く在った墓石の中の、或る一つに迷い無く駆け寄られた猫さんは、
夜の中に、溶けて行かれました。
然し、その瞬間、私にははっきりと見えたのです。
猫さんを抱き締め、其の身体を撫でて居らっしゃった一人の紳士の姿が。
此れは後に訊いた話しなのですが、
その紳士が此の街を離れねばならなかった時、
猫さんは遠くへ、行つた事の無い街へ御散歩に行きでもしたのか、
御家に帰つて来なくなつたそうです。
御主人は猫さんを遺して他の街へと。
そして御主人を捜して居た猫さんは
何時か、何処かでその御命を果てたそうです。
其れを呪縛霊と呼べば良いのか、寡聞にして私は存じませんが、
そうなった後でも猫さんは何処かに居るやも知れぬ
御主人を捜し続けていたのだと――其れだけが私の知る処なのです。
かららららっ……。
女「ほら。早くしないと、船の到着に遅れて仕舞うじゃあない」
男「そう仰るのならば、御自分の自転車で行かれれば良いでしょう」
女「なにかしら。男くんは私に口応えをするつもりなのかしら?」
男「くっ。滅相も御座いません」
女「解れば良いのよ、解れば」
男「それにしても」
女「なにかしら?」
男「あのお家にも、また人が増えますね」
女「まぁ、そうね」
男「上手く遣って行けるのでしょうかね。
女さんは口も態度も悪いですから。
お義母様に意地悪をしないか、心配で――痛い痛いっ!」
わたしに出来る事なら何でもするわ。
だって其れがお母様の願いなのだから」
男「ふふ。そうですか」
“――っくく。相変わらず尻に敷かれて居るようだな”
男「――え?」
女「どうしたのかしら? 急に振り向いては危ないじゃあない」
男「あ……いえ……」
――猫さん、如何やら私はとんでも無い女性に惚れてしまつたようですよ。
女「何か謂つた?」
男「――月が綺麗ですね、と」
女「月? 月なんて出て居ないじゃあない」
男「――愛していると、そう謂つたのですよ」
女「なっ。何を急にっ――!」
男「さて、急がないと船の到着に間に合いませんよ~」
かららららららっ……。
猫「吾が輩は猫である」お仕舞い。
>>1乙!
乙
なんかジーンとした
最後少しディスプレイが見にくくなった
これは小説でもいいレベル
てかしてくれ
遅筆な自分を気長に待って支援や保守をしてくれた皆さんのお陰です。
本当にどうもありがとう。絵を描いてくれた人もありがとう。
拙い文章でしたが、少しでも楽しんで貰えたのなら嬉しいです。
では、また何処かで。 8
楽しかった。本当ありがとう
乙です
本当に楽しかった、また書いてくれよな、楽しみにしてるぜ
乙
乙!木曜に見つけてからずっと楽しみにしてた
本当に面白い良い話だった
また次回もあるなら待ってるよ。ゆっくり寝てくれ!
ありがとう!
>>631さん、お疲れ様でした。
新作出来たらまた書いてくださいね。
久々にキレのあるSSだったよ
この一週間、これが糧だった。ありがとう
引用元: 猫「吾が輩は猫である」