BARの扉を開けると、小気味いい音が響いた。
何度となく聞いた音だ。
僕は今日も、この音を聞いて気を引き締める。
「やあ、隣いいかな?」
僕は今日も、彼女に声をかける。
「いーいーのーよー、今日くらいっ」
彼女は酒が大好きなようだ。
今日もすでにたくさん飲んだ後だった。
「なにかあったの? 今日?」
「部長に怒られたのー! 服装がなってないとかー! 言葉遣いが間違ってるとかー!」
「へえ、それは大変だ」
日によって少しずつ違うようだけど、基本的には仕事がうまくいってないという内容だ。
彼女の部長さんは彼女に期待しているのか単に嫌味なのか、よく彼女に当たるようだ。
「なんかー、TKOだかPTAだかがナントカカントカってー」
「TKO?」
「TKOってなに?」
「ボクシングの、なんかヤバめのノックアウトじゃない?」
「へー、ボクシングとか詳しいんだ、なんか意外、うふふ」
別に詳しくはないけどね。そう心の中でつぶやく。
「じゃあPTAだったかな?」
「それあれでしょ、小学校とかの保護者会でしょ」
「服装それ関係ある?」
「ないな」
「ないのか」
「あ、服装がオバサン臭かったとか?」
「バカ!! 失礼!! セクハラ!!」
「ああそれ! そんな感じのこと言われたの!」
だろうね、と心の中でつぶやく。
似たようなやりとりは、前にもあった気がする。
「で、なんだっけ、TPOって」
「時と場合と、場所? それに合ってない服装をしていたんじゃないかな」
「今日の、この服、だめ?」
「んー、ちょっと胸元開きすぎ?」
「えろい?」
「えろい」
えろいと言われて嬉しいのか。
取引先にこの服で行ってたんだとしたら、確かにTPOに合ってない。
いつもはもう少しおとなしめの服装で来ているのに、今日はなんだか珍しい。
だけど僕はどういう言葉をかければいいかわからなかった。
だからちょっと誤魔化して言った。
「いつもそんなセクシーな服を着ているの?」
「取引先に行く予定なんて聞いてなかったし」
「そんな予定聞いてたら、もうちょっとおとなしい服で行ってたし」
「あーもう、だから部長の言うこともわかるんだけどさー」
「なんかさー、腑に落ちないっていうかさー」
「あー!! もう!!」
そう言いながらまたお酒をあおった。
「んーまあ、ねえ……」
「部長さんっていえば、かなり偉い人でしょう?」
「まあ、そりゃ」
「そんな人が、末端の服装にまで気を配ってくれるのって、すごいことなんじゃない?」
「末端……」
「ね?」
「むう、あんたわりと若造のくせして核心をついたことを言うわね」
「若造……」
「キショイそれ言って許されんのは妙齢の女性だけだからね」
「キ……」
「あんたなんか、20そこそこでしょ、酒飲めるようになってすぐでしょ」
「んー、ふふふ、ほんとは100くらいだよ」
「なにそれ面白くない」
でも、本当のことだった。
――――――
―――――――――
「今日は僕のおごりです、だからあまり無茶な飲み方をしないように、ね」
「えーまじ? やったー! タダ酒だー!」
今日何杯目かわからない、きつめの酒をあおる。
「ほらほら、もっと上品に、ゆっくり飲んで」
「いいのいいの、タダ酒は遠慮せず、ってのが私のモットーなのでして、はい」
知っている。
「たまーにこう、あなたみたいな人がね、同情しておごってくれたりするしね」
別に同情じゃないんだけどな。
気分だよ、気分。
突然、彼女は鼻歌を歌いだした。
これもいつものことだ。
いい感じに酔いが回ってくると、機嫌が良くなって歌いだす。
結構な量を飲んでいたと思うんだけど、これでもまだ「ほろ酔い」なのか。
その歌は僕も知っていた。
大好きな曲だ。
何年か前にはやった有名な曲だった。
「ふふふふん、ふん、ふん、ふふふふん♪」
彼女はとても上機嫌だった。
「じゃあ僕は……緑色のお酒をください、おにーさん」
「緑色!? 色を指定するって珍しいわね、あなた」
「ちょっとね、緑色が好きなもので」
「ふうん」
本当はあまりお酒に強くない。
だけど、彼女となら、飲んでいて楽しい。
たとえそれが愚痴だらけだとしても。
「おしゃれな飲み方するのね」
そう、呆れながらも褒めてくれることが、嬉しい。
彼女の愚痴を聞きながら。
「なーんで私の周りにはいい男がいないんだろー」
今日は男運の話らしい。
「そりゃ絶世のイケメンじゃなくったっていいよ? でもね? 年齢近い男すらほとんどいないのよ?」
いないらしい。
僕にどうすることもできないが。
「あなたはどうなの? 彼女いないの? それとも奥さんか」
「……いないよ」
「……そーよねー、いたらこんな日にBARで一人で飲んでないわよねー」
歩む時が違いすぎる。
仮初の関係に、なんの意味があるだろう。
だから僕は、一人BARでさみしく飲みつつ、彼女の話に耳を傾ける。
それが十分な幸せだった。
「いつか、いい男と出会えるよ」
僕は、形だけの気休めを言う。
「……変なの」
「ふつうこういう時はさ、大して気がなくてもさ、『僕がいるよ』くらい言わない?」
「……僕、そんな気障なタイプに見えるかな」
「口説くってまではいかなくてもさ、『君の周りは見る目がない男ばかりだね』とかさ」
まあ、それは思うけど。
実際、彼女は美人だ。
酒を飲んでいる姿は決して上品ではないし、むしろ男が敬遠するタイプの飲み方だが。
「こんな美人を放っておくなんて、君の周りの男たちはみんな甲斐性なしだね」
「そうそう! そういうセリフ!」
「わかってるわよう、どうせこんなBARで運命の出会いとか期待してないわよ」
時折ふっと見せる憂鬱と諦めの中間のような表情が、とてもきれいだ。
カウンターのおにーさんが、こちらをちらっと見た。
「こんなBAR」はまずかったらしい。そりゃ気に障るよね。
「おにーさん! おかわり!」
そしてまた、居酒屋のように注文する。
よく飲む人だ。
「ほら、あなたも! もっと飲みなさい! また緑のでいいの?」
「そうだね、緑で」
――――――
―――――――――
「どうして緑色が好きなの?」
「……昔、好きだった人が弾いていたギターの色が、緑色をしていたから」
僕はそう答えた。
嘘はない。
それがなぜお酒にも影響しているのかは、僕にもわからない。
「あー、ギター、格好いいよね」
じゃーん、と、彼女はギターを弾く真似をする。
「音楽するの?」
「いや、僕はしないよ」
あれは真似できないな。
僕には到底無理そうだ。
どれだけ長く生きていても、無理そうだ。
「そう?」
僕は僕だ。
変かな。
「まあ、自由だけどさ」
「今日は優しいね」
「私はいつでも優しいのよ!」
「そっか」
部長にも、周りの頼りない男どもにも、彼女は不必要に悪いことは言わない。
愚痴は言っても、自分で反省することが多い。
それは彼女の美点だと思う。
おっと危ない。
なんだか変なことを口走らないように気をつけないと、
「あいにく酔っぱらってない時を知らないので、わからないな」
「あ、言ったな」
僕たちは何度も一緒にお酒を飲んでいる。
だけど、そのことを彼女は知らない。
彼女が赤い顔でそう言いだした。
いつものことだ。
僕に異論はない。
「ね、おにーさん、お会計」
僕が財布を出そうとすると、彼女がそれを止めた。
「いいからいいから、ここは私が出すから」
珍しい。
こんなことは初めてじゃないか?
「あんたみたいな若い子に出させるほどお金に困ってないから」
「……ごちそうさまです」
「いえ」
慣れてますから、とは言わないでおいた。
「あんたもストレスあるだろうし、BARでさらにストレス溜めちゃってたら申し訳ないからね」
「だからそのお礼に、ってことで」
「……ごちそうさまです」
素直におごってもらうことにした。
相手によってさまざまに対応が変わる。
その日の気分によって行動が変わる。
やっぱり人間ってのは、面白い。
あれも、ただ単なる気分だった。
気まぐれだった。
あの日、なにかが特別ってこともなかった。
僕も、人間らしくなっているのだろうか。
100年も生きて、少し人間らしくなれただろうか。
「僕、どう見える?」
「突然なに?」
「僕、あなたから見てどう見えている?」
「んー? うふふ、可愛い」
「可愛い?」
「面白くて可愛い存在」
風に髪がなびいて、とてもきれいだ。
夜景もすごくきれいな場所だが、それよりも彼女を見ていたい。
「あー、酔っぱらっちゃった」
「いつもこんな風に飲むの?」
「まあ、お酒で仕事のストレスを忘れるってのが、私の日課でね」
「そんなにストレスが溜まるもの?」
「ま、私、要領がよくないからね」
そんな風に自虐的に言って、笑う。
「そうね、たくさん愚痴聞いてもらっちゃったし、引きずっちゃだめよね」
「そうそう、気分を入れ替えて、ね」
「うん、ありがとう」
いつも仕事で辛そうな彼女は、見ていて痛々しい。
「よし、頑張ろう!」と前を向いていてほしい。
「よし、明日も頑張ろう!」
そうして、「おやすみ」を言って、僕たちは別れる。
――――――
―――――――――
いつも、ここで、お別れだ。
酔いが醒めたら、彼女はまた自宅に戻ってゆく。
そして、また明日の生活に向けて気分を入れ替えてゆく。
それを僕は、巻き戻す。
もう一度、今日を繰り返す。
不幸な明日を迎えないために。
今日もまた、そうなるはずだった。
別れのあいさつではなく、彼女はそんなことを言い出した。
僕はびっくりしすぎて、一瞬時が止まってしまった。
こんなことは初めてだ。
「初めてだ……」
「本当に?」
「あ、いや、今の初めてってのは……」
僕は言い淀む。
口が滑ってしまった。
口が滑ったついでに、言ってしまおうか。
すべて、言ってしまおうか。
これもまた、気分だ。
「……どういうこと?」
「つまり、今までの君は、それに気づきもしなかったってこと」
「……」
考え込んでいる。
僕の存在を訝しんでいる。
まあそりゃ、そうだよね。
初めて飲んだ日に、なにか違和感があって言ったとしても、変な返しをされたんだから。
「うん」
「あのBARで?」
「うん、いつもあのBARで」
それにしても、どうして彼女は違和感を持ったのだろう。
僕は失言をしただろうか?
でも酔っぱらっていたのだから、少々の失言はスルーされるものと思っていた。
いつもと違う雰囲気だっただろうか?
変なしゃべり方をしただろうか。
そこが気になる。
「僕たち、本当は、世間的には、今日がはじめましてのはずなんだけど」
BARの店員さんや、他のお客さんで、そこが気になった人はいないはずだ。
「なんかね、怪しかったんだ」
「するっと私の心に寄り添う感じが」
「初めて会ったはずなのに、なんか、心地よくて。心地よすぎて」
「あれ、これは私のことを知ってるぞ、とね、どこかで思ったんだ」
僕はいつの間にか、彼女のことを知りすぎていた。
愚痴に対する相槌も、こなれてきていたのかもしれない。
「あー、そうだよねーわかるー」みたいに。
「あーあの部長ねー、だよねだよねー」みたいに。
いやもちろんそんな言い方はしていないが。
「常連って感じでもないのに、店のことをよくわかってる感じだったし」
「他にも若くて可愛い子いるのに、私のところにまっすぐ来るし」
見抜かれている。
僕は少々、彼女に入れ込みすぎてしまったようだ。
「あなたみたいなお爺さんが、どういう目的で私に話しかけにきているか、よくわからないんだけど」
「僕は、実は神様でね」
「……」
「たまたま入ったBARで、君のことを見つけて、気になって」
「それで話してみたら気のいい人で」
「ああ、いいお酒だった、と思って別れるわけだよ」
「明日も行ってみようかな、なんて思ってね」
「そうしたら、明日、君はあのBARにいない」
「そう、僕もそう思ってまた出直したんだ」
あの頃、君を待つってことが、どんなに楽しみだったか。
あの素敵な笑顔と一緒に、またお酒を飲むってことが、どれだけ僕の心を躍らせたか。
「だけど、君は、来なかった」
「ひと月経っても、来なかった」
「さすがにBARの店員さんに怪しまれたよ、毎日君を待っている僕のことを」
「調べて、そして、それはやはり正しかった」
「だから僕は、君に不幸が訪れる明日のことを、迎えたくないんだ」
「だから僕は、今日、君とお別れしたら、また今日を繰り返すんだ」
僕は一気にしゃべった。
これは人間への過干渉かもしれないが、でも、まあ大目に見てくれるだろう。
なんせ僕が神様なんだから。
僕を罰する人は、いないんだから。
「……来ないというか……僕が止めてしまったというか……」
「だけど私にとっては不幸な明日だとしても、他の誰かの『幸せな明日』かもしれないのに?」
「それは……考えなかったな……」
「神様って、結構自分勝手なのね」
「そりゃあ、そうさ」
「同じ格好で?」
「同じお酒を?」
違う。
僕は時々気まぐれに、全然違う人間に化けて君の前に姿を現していた。
「いや、いつも話す内容は君に合わせて変わってたよ」
「僕の方は、青年のときもあれば、中年男性のときもあったし、女性のときもあったよ」
「まあ、青年の姿のことが多いかな」
「ああ、それは、いつも大体同じだったよ」
「緑のお酒?」
「そう」
「緑のお酒が好きっていうのは、本当なのね」
かといって、店員さんがいつも同じものを出してくれたわけではなかった。
炭酸がきついときもあれば、南国系の甘ったるい時もあった。
僕の姿によって、店員さんも出すお酒を変えていたのかもしれない。
そう思うと、色んな姿で同じ行動をするってことは、なかなか発見のある面白い試みだったかもしれないな。
「それを回避する術はないの?」
「だって、ずっとこのままじゃ、他の人に迷惑じゃない」
回避する方法。
あると言えばある。
今まで彼女が僕にそんな風に聞いてくること自体がなかったから、忠告もできなかった。
だけど、彼女が不幸を回避しようとしてくれるなら。
僕の言葉をちゃんと信じてくれるなら。
もしかしたら、彼女の不幸は霧散するかもしれない。
「ヒール……うん、わかった」
「それから、カバンに入れてある大事な書類は、ビニールに入れて保護すること」
「……うん、帰ったらすぐやる」
「あとマスクね。カバンに入れておいた方がいいと思うな」
「マスク……ふつうの風邪のとき用のでいいの?」
「うん、それで大丈夫」
「うん、まあ、僕からできるアドバイスはそれくらいかな」
「それを怠ると、私はどうなるの?」
「聞きたい?」
「……聞きたいよ」
「本当に?」
「……怖いけどね」
「……まず、君は出勤途中に駅の階段で足を踏み外す」
「……う」
「高いヒールのせいだね」
「……」
「それから庭の水やりをしているおばさんに水をかけられ、カバンも含めてびしょぬれになる」
「……」
「持ち前のファイトで出勤するも、大事な商談にそのまま参加することになる」
「……あるわ、明日商談あるわ」
「大事な書類は濡れているし、笑顔は見事な歯抜けだしで、商談はパァ」
「……」
「怒り狂った上司によって厳しく叱責され、出勤する意欲を失い、絶望し……」
「……」
「……」
「……って感じ」
「え、死なないの!?」
「し、死なないよ!?」
「え、死なないの!? 私!?」
「死なないよ!? なんで死ぬと思ったの!?」
「あなたが『不幸』とか紛らわしい言い方するからじゃん!!」
「無理してヒールを履かなけりゃ、階段を踏み外す心配も減ると」
「さらに書類を濡れないようにビニールで守っておくと」
「万一歯を折っても、マスクがあれば少しは隠せると」
「そういうことね?」
すべてがうまくいくとは限らない。
だけど、起こるらしい未来に対して防衛策を講じれば、少しはマシな未来になるかもしれない。
「もしかしたら、また別の不幸が起こるかもしれない」
「だけど、今言ったことは、防げるかもしれない」
「私の不幸を、吹き飛ばしてみせる」
「なにがなんでも、明日もBARで飲む」
「だから……ふつうに、明日を迎えさせて?」
酔いのさめたすっきりした目で、彼女は僕を見て言った。
素敵だ。
お酒を飲んでいない時の彼女も、きっととても素敵な女性なんだと思う。
「……わかった」
永遠なんて、どうせないってわかってた。
何度今日を繰り返したところで、彼女の不幸を先延ばしにしていただけだ。
歩みを止めていただけだ。
「面白かったよ」
彼女はあっさりと別れを告げた。
僕がまた性懲りもなく今日を繰り返しても、彼女は気づかない。
今の会話はなかったことになる。
でも、僕は繰り返しをやめてみようと思う。
楽しみだった。
久しぶりの明日が。
――――――
―――――――――
カランコロン
BARの扉を開けると、小気味いい音が響いた。
何度となく聞いた音だ。
昨日と同じ音だ。
だけど、いつもと違う気分になるのは不思議だ。
「やあ、隣いいかな?」
僕は今日も、彼女に声をかける。
すぐに見抜かれた。
「どうしてわかった?」
「だって、しゃべり方が同じじゃん」
そう笑って、僕のために「緑のお酒」を注文してくれた。
店員さんは少し怪訝な表情。
「まあね、あんたのアドバイスのおかげ」
昨日は「あなた」だったのに、今日は「あんた」と呼ぶ。
やっぱりこの姿はなめられやすいらしい。
「ありがと」
礼を言われるほどのことはしていない。
僕は自分の都合で時間を巻き戻していただけだ。
不幸になる君を見たくなかっただけだ。
「今日は愚痴は?」
「ないない! 部長も優しかったし!」
けらけらと笑い、強いお酒をぐっと飲む。
「で、明日は私、なにに気をつけたらいいの?」
「知らない!」
僕の知らない、今日が来た。
それはなかなか、刺激的な経験だった。
★おしまい★
「ずっと明かりの消えた街で」に出てきた少年(青年?)再び、です
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( ・ω・) ありがとうございました
ハ∨/^ヽ またどこかで
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貴方だったか
良かった
引用元: 男「この夜は僕らのもの」