なんでなのかすぐには分からなかったけれど、少し考えてみて気づいた。
今日は友だちのタビとお別れする日だ。
それもただのお別れではない。きっと、もう絶対に会えなくなってしまう、そういうお別れなのだ。
今日はリリーが寝間着のまま部屋を飛び出して探しまわっても、どこにも見当たらなかった。
いつもは来ることのない屋根裏に上ってみると、黒いふさふさが古びたクッションの上に丸まっていた。
ときたま昼寝をしているタビを見かけることがある。
そういうとき、タビはびろーんとだらしなく寝そべっている。
誰も自分を害することはないと信じきっている、ずいぶんとえらそうな寝相だ。
そんなタビの寝姿を見るのがリリーは結構好きだった。
それなのに今日は丸く固まって、黒いモップみたいになってしまっている。
長毛の割にあまり綺麗な毛並みではないので、本当に掃除に使った後みたいだ。
声をかけてゆすってみてもタビはうんともすんとも言わない。
いろいろ試しても駄目なので、リリーは慌てて師匠の部屋に向かった。
「師匠!」
魔法使いの師匠はタビと同じくいつも眠そうで、でもこちらは見た目のまんまお寝坊さんだ。
開け放したドアの向こうで、ベッドの毛布がもぞっと動いた。
「……朝かい?」
「はい!」
「そうか。でも夜ってことにしよう。おやすみ」
「なに訳の分からないこと言ってるんですかー!」
それに抵抗しながら師匠がむにゃむにゃと言う。
「訳分からなくはないよ。今は朝だけど夜なんだ」
「朝と夜が一緒だったら困っちゃうでしょ!」
「困ったら眠ればいい。時間が全てを解決してくれるさ」
「いつ起きればいいか分からないのにー!?」
寝ぼけているくせに師匠はしぶとかった。
それでもなんとか毛布を一部引きはがすとその下からこげ茶の頭が出てくる。
その顔目がけて、リリーはすかさず持ってきていた瓶の中身をぶちまけた。
「……リリー。これはなんだい?」
「さあ。適当に棚にあったのを持ってきました」
抵抗がなくなったので、リリーは毛布を完全に奪い取ってやった。
「棚の薬には触るなっていつも言ってるじゃないか」
「意味不明なこという師匠が悪いんです」
ようやく毛布の下から現れた師匠は、ぼんやりした顔でリリーの手から瓶をつまみ上げる。
「無意味に悲しくなる薬か」
「なんだ、なら問題ないですね」
「問題なくはないよ、普通の人なら」
「師匠は全然普通じゃないですから大丈夫です」
師匠はしばし考えるそぶりを見せ、それから「まあ確かに」と頷く。
「そうです、大変なんですよ!」
「寝ぼけて魔法で壁に穴開けたとか?」
「違います!」
「じゃあおねしょ?」
「わたしもう十三歳ですよ!」
「でも去年の今頃は」
「わー!」
慌てて師匠の言葉を遮り、リリーは頭上を指さした。
「タビが変なんですよう!」
師匠を起こしに下りる前と少しも変わっていない。
師匠はそれを見てやっぱり眠そうにぼりぼりと頭を掻く。
「少しも変に見えないけど」
「変ですよ。タビが丸まって寝てるなんておかしいですもん」
「猫は丸まって眠るものじゃないかな」
「タビはもっとでべろんとしてますよ」
でべろん? 師匠が首を傾げた。
構わずリリーは続ける。師匠にいまいち言いたいことが伝わらないのはいつものことだからだ。
「それにタビ、いつもならもっと早く起きてます」
「ああ、師匠はいつもおそ起きですから知らないかもしれませんね」
ふうむ、と師匠は顎に手を当てた。
こうやって師匠は考える。フリをする。
師匠は大体のことは知っている。しわひとつなくて年齢が判然としない顔のくせして割と長く生きているらしい。
だから考えなくても大抵のことは分かる。逆にいえばそれ以外のことは考えても分からない。
つまり本当は格好だけで、師匠は最初から考えてなんかいないのだ。
まーた怠けるんだから。リリーはため息をついた。
「まあ、タビだっておそ起きしたいこともあるんだろう」
やっぱり役に立たないことしか言ってくれない。
リリーがそう言うと、師匠は鋭く目を細めた。
「それは、本当かい?」
「はい」
師匠は再びふうむと考え込むフリをする。
今度はさっきより真実味があるけれど、やっぱりフリはフリでしかない。
「じゃあ、タビは死ぬのかもしれないな」
だから師匠は分かり切ったことを言う。
さすがにむかっ腹がたって強く師匠を睨んだ。
それでも動じてくれないのが師匠なのだが。
「分かってても本人が言えないことは、誰かが代わりに言ってあげなくちゃいけないね」
「むー!」
「君が嫌な感じを覚えたってことは、やっぱりよくないことが起こるんだろう。それは信じるよ」
だけどね、と師匠は目をこすった。
「それは大抵変えられないことで、ぼくが騒いだところでどうにもならないな」
つまり、いつも通り師匠は肝心なときに役に立たないということだ。
この無感動症! リリーは師匠を追っ払うとタビを静かに撫でてやった。
タビの体は温かかった。
いつもは触ろうとすると怒るので、こうやって体温を感じることすらなかったのだけれど。
なんだかそのぬくもりが無性に悲しい。
タビはリリーがこの屋敷に来る前からここにいた。
いつもお高くとまっている様子で、それでも毛並みは少し汚れてどこかアンバランスで。
師匠とは長い付き合いに見えるが、リリーの方がタビのことをよく知っている。
相手が困っているときは助けてあげるのが友だちってものだ。
友だちと思っているのはリリーだけかもしれないが、それでも助けると決めた。
タビを撫でる手を、そっと離した。
といっても別にお化けとかは見えない。そういうのはいないと思う。
けれど、普通の人が気づかないことに気づいたり、知りえないことを知ってしまうことがあるのだ。
雨の日を言い当てるぐらいなら「すごーい」で済んだ。
でも人が死ぬ日とその原因を”予言”してしまったときはさすがに怖がられてしまった。
それに、天気を当てる程度のものでも積み重なれば不気味にもなる。
だからリリーは六歳のときに師匠に預けられた。
村から少し離れた森のほとりに住む師匠は魔法使いである。
みんなしぶしぶ力は認めているけれど胡散臭がって近寄らない、そんな人だ。
ただ、リリーはそのことについてはあまり考えない。
考えてももう仕方ないし、魔法の勉強に忙しいのでそれどころじゃなかったから。
魔法の世界は奥が深い。いっぱいいっぱいに頑張ってもまだ入口にも立っていない気がする。
分からないことは星の数ほどあるし、勉強するほどにさらに増えていくようにも思える。
生き物はなぜ生まれるのか、生きるのか。死んだものはどこに行くのか、帰ってくることはできないのか――
「あった!」
それでもそれなりに知識はついた。と思う。
リリーが記憶を頼りに見つけたのは、本棚にあった分厚い本の一ページ、ある記述だった。
「”むやみやたらと元気になる薬”!」
元気がない人もこれ一本。飲めばたちまち元気百倍。ただし予想外の方向に元気になっても責任は負いません。
最後の注意書きが気にはなったがとにかく、タビを助けるためにリリーが知恵を絞った結果がこれだった。
これならタビも元気になってくれるはず。むやみやたらとって書いてあるんだから効果は絶大だろうし間違いない。
説得力に問題はなかった。調合方法もそんなに難しくない。リリー一人でもなんとかできそう。
けれど、問題は薬の材料だった。
「月王草かあ……」
これが厄介なのだ。
ただ、月王草だけはそこらで摘んでくるというわけにはいかない。
不老長寿の力を持つとも言われる、珍しい、貴重な草なのである。
しばらく思案して、リリーは遠く離れた町に行くことに決めた。
屋敷からしばらく行った所に村もあるが、そこにはきっとないだろう。小さな村だし。
たくさんの人が集まるあの大きな町になら、きっと月王草もあるに違いないとリリーは思った。
思い立ったら即行動。
リリーはお出かけ用の服に着替えて荷物をまとめると(と言っても小さなポシェットにハンカチとお財布を詰めただけだけど)、さっそく屋敷の門を出た。
師匠が申し訳程度にぼんやり見送りに出てきていたので、適当に手を振り振り道を下っていった。
風が肩までの金髪をもてあそぶのに任せて歩いていると、道の先に粗末な柵囲いが見えてきた。
村の境界だ。ここを抜けてもっと歩くと町がある。
柵の入口を通ろうとして、リリーはふと立ち止まった。
周りを見渡して、大きめの石があったのでそれを持ち上げる。
「えい」
ぼす。投げた先の地面が大きく陥没した。
「……落とし穴?」
リリーは首を傾げた。
なんとなくそうしようと思ってやってみたらこういうふうになるのはいつものことだ。ただし理由までは分からない。
悲鳴とも怒りともとれる声がして、近くの家の陰から帽子をかぶった少年が姿を現した。
「なにするんだよせっかく仕掛けたのに!」
同い年ほどのその少年には見覚えがあった。
「ルーク?」
「人が一生懸命掘った落とし穴を台無しにしやがって! お前は鬼だ! 悪魔だ!」
「魔法使いだけど」
「そうだ、魔女め!」
村にはあまり来ないのだが、どうやらあちらもこちらを覚えているらしい。
覚えていて話しかけてくる人間は珍しいが。大抵村の人間はリリーたちを煙たがる。
「落とし穴なんて掘ってどうするつもりだったの?」
リリーが訊ねると、ルークは即答した。
「なんかいいじゃねえか、ロマンがあって! 誰かが引っかかったら愉快だし!」
「そこがいいんだろ」
「誰かが困るのを防いだんだから、わたしは悪魔じゃなくていい人よね?」
「うん? ううん……」
少年はしばし黙り込んだ。それから顔を上げて怒鳴る。
「うっせバーカ!」
「……」
リリーは無視して歩みを再開した。
意味なく罵倒されることには慣れている。
「おい待てよ」
「待たないよ。忙しいんだから」
立ちはだかる少年を迂回する。ルークはさらにそれを邪魔した。
自分から近寄ってくる輩は珍しいが、こう言うと全員が怯えて逃げる。
わざわざ好んで魔法使いにたてつく者はいない。ルークを除いて。
「できるもんならやってみろ!」
(困ったなあ……)
本当は人を呪う魔法なんて使えない。そうでなくとも使う気にはなれないけれど。
実は以前からこの村に来るときはたびたびこの少年に絡まれている。
なんとなく今日も会いそうな気がしていたのだが、避けることはできなかったようだ。
「なんで急いでるんだよ。魔女のくせに」
「魔女は関係ないと思うけど……友だちが大変なの」
「友だち? 魔女に?」
だから魔女は関係ないと思うのだけれど。
仕方なくかいつまんで事情を説明すると、少年はふうんと首を傾げた。
「猫がねえ」
それから不思議そうに続ける。
「月王草ってそんなに珍しいのか?」
「うん。北の高い山のてっぺんにしか生えないんだって」
「とってくりゃいいじゃねえかそんなの」
「だってその山には竜がいるって噂だもの。竜を怒らせると大変なんだよ?」
「うーん。っていうか、怒らせると面倒っていうか」
「んん?」
「もし怒らせるとどこまでもついてきて、その人のやることなすことにケチつけるの」
「……みみっちいな」
「そのくせ完璧に物事をこなしても難癖付けて無理矢理文句言うし」
「確かに面倒くさそうだけど……それが竜のやることなのか?」
そうだよとリリーが頷いて見せると、ルークは「なんかイメージ壊れた」と頭を抱えた。
「そういうわけでわたしは町に行かなくちゃだから。またね」
「ちょっと待てよ」
足を踏み出すリリーをルークが呼びとめる。
「なに?」
「俺も行くよ。暇だし」
リリーは顔をしかめてルークを見やった。
「だって町に行くんだろ? 楽しそうじゃんか」
その顔はなにやらわくわくと輝いている。
「遊びに行くんじゃないんだよ?」
「そんなのどうだっていいや。町に行ける機会なんてそうそうないからな」
「仕事のお手伝いとかはいいの?」
「ついてこないと呪うぞって魔女に脅された。そう言うから大丈夫大丈夫」
そんな適当な。
リリーは呆れたが、この少年が一度ものを決めたらそう簡単にはそれを変えないことならよく知っている。
一応諦めさせる方法を考えたけれど、
(ま、いっか)
特に思い付かなかったのでついてくるにまかせることにした。
道の向こうに町の影が見えた。
隣でずっとしゃべくっていたルークがだはぁとだらしない声を上げる。
「やっとかあ……疲れた」
「嫌なら最初からついてこなければよかったじゃない」
「疲れるのは承知の上だよバカ」
こきこきと首を鳴らしてから少年は背伸びする。
「魔法使いなんだからもっとこう、ぴゅーと来れないのかよ。空とか飛んで」
「今日は風さんたちがすっごく高い所にいるから空を飛ぶ魔法は使えないの」
「ふうん」
師匠なら風たちが高いところにいても呼び寄せて飛べるだろうけれど。
でもそれを教えると、半人前と馬鹿にされそうなので黙っておいた。
「でっ――かいよなあ」
少年がそれを見上げて間抜け面を晒している。
とはいえ隣で見上げる自分もそんなものかもしれないけど。
「すっごいねえ」
「前みたときよりまた大きくなってる気がする」
「それはないでしょ」
「なんか食って成長してるんじゃねえの? 人とかかな」
それを聞いて中に入る人を呑みこんでにょきにょきと伸びる時計塔をふと想像した。
なにそれ馬鹿みたい。頭を振ってイメージを消した。
「ほら、ぼやっとしてるとおいてくよ」
少年に言葉を投げて、それからリリーは歩きだした。
広場に開いた青空市から裏路地の怪しいお店まで。
色々回ったけれど、返ってくる答えは大体同じ。
「月王草? そんなの置いてないよ」
曰く、高価すぎる、希少すぎる、もしあってもすぐ売れていってしまう。
「あれはすごく良い薬になるからねえ」
棚の整理をしながら雑貨屋の主人が言う。
「悪いけど、他を当たってくれないかな」
店の扉を蹴り閉めてルークが毒づく。
「なんだよどこにも置いてねえじゃんか」
「やっぱりそう簡単には手に入らないかあ……」
リリーはしょんぼりとうつむいた。
でもまあだいぶ無理して出してる感はある。
「まあまだ諦めるには早いぜ。大きい町だからな、回ってない店がいくらでもあんだろ」
「うん……」
ルークはリリーの手をさっと掴むと、軽快に歩きだした。
「もし月王草がなくてもよ、まだ他に手はあるんじゃねえの?」
「例えば?」
「例えば……そうな。俺だったら牛乳飲めば元気になるぜ。飲ませろよ、猫に」
「タビはミルク嫌いなの」
「う。そうか。だったら――」
周りで楽しそうに遊んでいたら羨ましくて元気になるかも。
とりあえず天日干ししてみるとか。
あとは執念深くぐるりを踊り歩けば不思議パワーで猫元気。
次々出てくる少年の案を一つ一つ拾い上げていけば、もしかしたら一個くらいは当たりがあったかもしれないけれど。
その時リリーが考えていたのは別のことだった。
「ん?」
ひたすら駄アイディアを吐き出していた少年がリリーの言葉に口を止める。
「死者の蘇生っていう手も、あるかも」
「なんだそれ」
「そのままの意味だよ。死んだ人を生き返らせるの」
「そんなことできるのか?」
できる。とは即答できない。
師匠がかつて少し話してくれただけだ。
そういう秘密の魔法があるのだと。
「師匠が集めた本の中には、そのための方法を記したものがあるらしいの」
黒くて分厚い本。
とてもとてもたくさんの文字が書いてあるのだけれど、それはたった一つの魔法についての記述なのだ。
「でもその本がどこにあるのか分からないし、師匠は絶対使っちゃだめだって言ってたし」
それに、と思い出す。その魔法はとても危険なものらしいのだ。
死んしまった者を死の国から取り返すには、それと同じくらい大事なものを渡さなくてはならないと聞いた。
取り返したことが無意味になってしまうくらい大事なものだ。
「やっぱり無理かな」
「そうか?」
「うん。別の方法を探そ」
話しながらも歩き続けていたので景色は変わっていた。
先ほどとは違う広場だ。ここにもいくつか露店が並んでいる。
「ここはどうかなあ」
ぐるりと見渡す。
すると視界の端にちらりと引っかかるものがあった。
まず笑い声が聞こえた。それからそれが目に入る。
「あ」
リリーの口から声が漏れた。
おひげが立派な、とても恰幅のいい男の人だった。
お腹がでっぷりと大きくて、顔がつやつやしている。
後ろには馬車が控え、着ている服もきらきらと豪華でしつこいくらいに周りのみんなの目を引く感じ。
でもリリーが本当に見ていたのはそのおじさんではなかった。
「月王草」
その人が持っている濃い緑に色づいた植物だった。
ルークが驚いてリリーを見る。
「うん。多分間違いないと思う」
リリーは目を凝らしてもう一度確かめてから頷いた。
「いい買い物をしましたな旦那」
おじさんの目の前に立つ露店の商人が、愛想よく笑う。
「それは一ヶ月ぶりに手に入った上物ですよ」
おじさんはそれを聞いてそうかそうかと嬉しそうに頷く。
「長いこと探し続けていたが、ついに手に入れることができたわい」
それからお腹をふるわせてまた笑った。
店の前まで行くと、威勢よく声を上げる。
「おっちゃん、俺たちにもそれ売ってよ!」
露店の商人がぱちくりと瞬きした。
「それって、月王草のことか?」
「そうそう!」
「悪いが、この御仁に売った分しかないんだよ」
「えー!?」
ひとしきり不満の声を上げて、ルークはさっとひげのおじさんに向き直った。
「じゃあおっちゃん、それ分けてよ」
今度はおじさんがぱちくりと瞬きした。
「なんだお前は」
「猫?」
おじさんは目を丸くして、それからまた笑った。今度は意地悪な感じのする嫌な笑いだった。
「猫! お前は月王草の価値が分かってないようだな。これは不老長寿の秘薬の元だぞ」
「だからなんだよ。こっちも大変なんだよ!」
「うるさい!」
おじさんは詰め寄るルークを突きとばした。
「これはわしのものだ! 誰にも渡さんぞ!」
そう言って後ろの馬車に乗り込む。
「出せ!」
馬車はゆっくりと進みだした。
「っつぅ……」
「だ、大丈夫?」
リリーは尻もちをついたルークに近寄ってかがみ込んだ。
見るとどうやら手をすりむいてしまったようだ。
ルークはさっと起き上がると、馬車に追って走り出そうとした。
「待って」
その袖を掴んでリリーが止める。
「なんだよ!」
「今近付くと危ないよ」
「は?」
「すぐにわかると思う」
といってもどうなるのかはリリーにも分からなかったけれど。でもなんとなく危ない感じがしたのだ。
馬車はまだほんの少ししか進んでいなかった。人が多いしそんなに早くは走れない。
その人ごみの中を突っ切って走ってくる影があった。
それは近くまでくると、馬車に驚いて足を止めた。
犬だ。それもかなり大きい。驚かされたことに怒ってか、馬車に向かって大きく吠えた。
馬車が大きく揺れて、中からさっきのおじさんが転がり出てきた。
「ぬお!」
その手から月王草がすっぽ抜け、ルークの足下にぽそっと落ちた。
犬と馬の騒動は周りの人を巻き込んでさらに拡大するようだ。
そのときリリーは見た。ルークが足下の月王草を拾い上げるのを。
「ルーク?」
ルークはさっと財布を取り出すと、先ほどの露店の商人にそれを押し付けた。
「おっちゃん、これ俺の全財産! 月王草は俺たちが買い取るよ!」
言って、商人がなにか返事する前にリリーの手を取って走り出した。
「ちょ――ちょっと。ルーク! これはまずいよ!」
「いいんだよ! あのおっさんあからさまに悪い奴っぽかったし。そんな奴に使われるよりは猫に使った方がいいってもんだろ!」
そうかなあと疑問に思ったけれど。走りだしてしまったからには仕方がない。
後ろからものすごく怒ったおじさんの声が聞こえてきているしなおさら戻る気にもなれないし。とりあえずは走ることにした。
走って走って、最初の広場に戻ってきた。
「ここまでくれば……」
ルークが言いかけるが、後ろからすさまじい速度で追ってくる者の気配がする。
「待てええい!」
「うげ」
さっきのおじさんだ。
丸い身体に似合わない速さで追いすがってくる。見たところこちらよりも速いようだ。
ルークがリリーを引っ張る。
開け放された時計塔の入口の方だ。横に立っている札には「一般公開中」の文字。
中の階段を急いで駆けのぼる。後ろから足音と、獣のような怒号が迫ってきている。
「小僧ども、わしの月王草を返さんかあぁぁ!」
ひええとリリーは小さく悲鳴を上げた。
中にはそれなりに人がいて、駆け抜けるリリーたちをぽかんと見ている。
ちょっと恥ずかしいなとも思ったけれど、そんなに余裕があるわけでもない。
「あのおっさん、薬なくても十分元気じゃねえか!」
確かにそうかも。走っているうちに次第に頂上が近付く。
時計塔のてっぺんは開けていて展望台のようになっていた。
ぜえはあと息を切らすリリーとルークの背後にゆらりと影が差す。
おじさんは息を切らすこともなく、逆光になった暗い顔にらんらんと目を輝かせていた。
「もう逃げ場はないぞ……!」
確かに周りはもう崖っぷち。
逃げられそうな場所は全くない。
じりじりと下がる背後には冷たい風が吹き抜けて、はるか下に町の建物の屋根が並ぶ。
「ふふ、ふふふ……ガキの血はこれまた不老長寿の元らしい。お前らの血をすすってやるぅ……」
「いやあんたはそんなのなくても十分だろ」
顔をひきつらせてルークが呟く。
リリーもそれには同感だった。
「覚悟はいいか小僧ども」
「あんまりできてないかも……」
「ならあの世で後悔するんだな!」
ぐわっと迫ってくるおじさんの手をかわして、リリーはルークの手を引っ張った。
「こっち!」
「逃がさん!」
さらにリリーたちを追って伸びてくる手から遠ざかり、リリーは展望台の縁を蹴って飛び出した。
「なにぃ!?」
「うおおおおお!?」
ルークの悲鳴が聞こえる。
リリーも正直怖いなんてものじゃなかった。でも、これだけ高いとこならば――
「助けて風さん!」
目をきつく閉じて叫ぶ。
ふわり。身体が急に優しい何かに包まれた。そう感じた。
これだけ高いところならば風たちにも声が届く。
隣を見ると、月王草を持つ反対の手で帽子を押さえてルークが宙に浮いていた。
目を白黒させる彼の手を掴んで、リリーはさらに風にお願いした。
「このまま町の外まで連れて行って」
耳元で了解の合図のように風の音がする。
そのままリリーたちはふわふわと町の門を越えて飛んでいった。
後ろからすごく怖いどなり声が聞こえていたけれど、とりあえずは聞かなかったことにした。
結構な距離を歩いたのと町での騒動でもうへとへと。
いつもより一日が長かったようにも感じる。
「じゃあな」
ルークは当分町はいいやと呟きながら、こちらに背を向けた。
「ありがとうね!」
おう、と答えて少年は続ける。
「猫、元気になるといいな」
「うん!」
歩み去っていくその背中に手を振った。
ルークも背中越しにこちらに手を振って、それから姿を消した。
さて、とリリーは森の方を向く。
材料はそろったし、さっそく薬作りをしなくちゃね。
家に戻ると、ルークは仕事を手伝わなかったことで叱られた。
一応、魔女に脅されたんだと言い訳したが、魔女に近付くお前が悪いと一蹴された。
罰として夕食が抜き。ふてくされて外に出ると夜空に月が出ている。
「はあ……」
そういえば、あの魔女は薬作れたのかな。
実のところ猫が心配なわけではあまりないが、あいつが泣くところは見たくない気がした。
なんでかはわからない。
まあ、誰かが泣くのを見るのは嫌いだ。どう対応していいか分からないし。
家の壁に寄りかかって地面に視線を落とす。
月明かりに照らされて、足元もすっきり見える。
しばらくぼーっと考え事をして。
突然視界に影が差した。
「え?」
顔を上げた途端、その横っ面を殴打されて地面に転がった。
揺れる視界をなんとか持ち上げたが、その人影は月を背後にしていて顔は見えなかった。
「できた!」
リリーは小さな瓶を片手に歓声を上げた。
この通り少量だが、調合は上手くいった。むやみやたらと元気になる薬の完成だ。
「これでタビも元気になるはずだよね」
嬉しくなって小躍りする。
ひとしきり喜んだあと、早速屋根裏に上ってタビのそばまで行くが、ふと気付いた。
「……どうやって飲ませよう」
タビは今眠っている様子で、飲ませようにもちょっと無理。
無理やりやってもむせちゃうだろうし。
「困ったなあ……」
そのとき階下から師匠の声がした。
「リリー。ちょっといいかい」
「村の方から人が来てね。急患だって。行ってくるよ」
師匠はあの村で患者が出ると医者として呼ばれることがある。
魔法使いの師匠が出張るのだから結構大事であることが多い。
「病気の人?」
「いや。怪我してるんだって」
「怪我? 農作業で手でも切ったんですか?」
「いや、殴られたとかで」
「え? 喧嘩か何か?」
「違うみたいだ。何でも患者は男の子らしくて」
ふと嫌な予感がした。
というか薬を作っている最中も実はずっと嫌な感じはしていた。
「まさか……」
顔は痣だらけで、擦り傷もいっぱい。
ゴホッと吐いた咳には血が混じっているようだ。
「そんな……」
リリーは呆然とそれを見下ろした。
「村の人の話だと、外の人間の仕業だろうって」
外から部屋に戻ってきた師匠が言う。
「多分、町の人だろうね」
「町の人……」
心当たりはあった。
というかきっとあれが原因だ。
師匠がいつも通りの眠そうな目でリリーの方に視線をよこす。
リリーは少し迷った後、今日のことを説明した。
「……実は」
事情を聞いた師匠はしばらく黙りこんだ。
何か考えているようにも見えたが、多分いつも通りたいして深くは考えていない。
「なるほどね」
短い沈黙を破って、師匠はそれだけを呟いた。
「師匠どうしましょう、きっとわたしのせいです……」
「違うな。この子が月王草を横取りしなければこんなことにはならなかった」
「でも、月王草を欲しがってたのはわたしです」
「それでもこの子の自業自得だ」
「でもまあ結局のところそんなことはどうでもいい。とにかく手を尽くすよ」
「……お願いします」
治療の簡単な手伝いを終えると、リリーにできることはほとんどない。
師匠の言葉に従って外で待つ。
夜も更けて、なお月が綺麗に見える。
家の裏で膝を抱えて座り込むと、地面はひんやりと冷たかった。
「……」
ぎゅっと手を握る。後悔が胸に押し寄せてくる。
あの時ルークを止めていれば。そもそもルークをついてこさせなければ。
嫌な感じが胸に広がっていた。タビのときと同じ、とてもよくない感触だ。
「ルーク……死んじゃうのかな」
家々が夜の闇に静まる。
ルークの両親は魔法使いの自分たちを避けて別の所にいる。
自分たちは嫌われている。
今日のことを知っていたとしたら、やっぱりリリーを責めるだろう。
考えて考えて、結局は当たり前の答えにたどり着いた。
自分がなんとかしなければならない。
そうなのだ。自分のせいで起きた間違いは、自分で正さなくてはならない。
だから。ルークを助けるのは自分なんだ。
リリーは静かに立ち上がって駆け出した。
扉を開けて端から探っていく。
どこかにある。あれは、あるはずなのだ。
「どこ」
本の一冊が床に落ちた。
続いてもう一冊、落ちて重い音を立てた。
「どこに……?」
隅々まで探しても見当たらない。
大量の本が落ち、床を埋め尽くすほどになっても見つからない。
「どこにあるの……!?」
まだまだ本棚は山のようにある。
それを見つけるのは絶望的に思えた。
が。ふと本棚の隅にあった一冊に目が吸い寄せられる。
黒くて、分厚い本。
治療はひと段落したらしい。本を抱えたまま息を切らしているリリーを見て、「やあ」と手を上げた。
「お帰り」
リリーは黙って玄関口に立っていた。
師匠は暖炉の火の方に視線を戻すと静かに言う。
「こっちに来て座りなさい」
リリーはしばらく俯いていたが、師匠の言葉に従って、暖炉の前の椅子に座った。
師匠はそのまま黙っていたが、やがて口を開いた。
「死者の蘇生について記した本だね」
「……はい」
「それをどうするつもりなのかな」
「ルークが、死んじゃったら、生き返らせるんです」
師匠はそれを聞いても動じる様子はなかった。
「確かにこの子はだいぶ危ない状態だね」
「……わたしのせいです」
「さっきも言った通りこの子の自業自得だ」
「それでも! ……巻き込んでしまったのはわたしですから」
リリーは本を抱える手に力を込めた。
師匠はまたしばらく沈黙した。何かを考えるような間だった。
「ぼくもやったことあるよ。死者の蘇生」
急に言われたのですぐには理解できなかった。
ゆっくりとその意味が頭にしみとおっていくのを、もう一人の自分が遠くから見ているような気がした。
「姉を生き返らせようとしたんだ」
師匠はいつも通りの声で言う。だから少し調子が狂う。
「ぼくは母を早くに亡くしていてね、姉がぼくを養ってくれたんだ。でも病気で死んじゃった」
あっさりと告げた。
それからやっぱり気の入っていない声で続ける
「大好きだった。死ぬ前に伝えられなかったそれを、伝えたかったんだ」
それを最後に師匠は言葉を切った。それからなにも言わないのでずいぶん沈黙が長引いた。
「伝えられたんですか?」
「ああ、なんとか」
どこか遠くを見るような目で師匠は言う。
「生き返ったのはほんの少しの時間だった。完全に生き返らせることはできなかった」
「おまけにね。持っていかれたよ」
死者の蘇生にかかる代償。リリーはそれを思い出す。
「感情と姉と過ごした記憶をだ」
「感情と、記憶?」
「蘇生には一度失敗した。その時に感情を。次は一応成功したけど、記憶を」
眠そうな、もっと言えば感情のない声で師匠は続ける。
「伝えたいことは伝えた。でも無意味になってしまった」
「え?」
「姉との記憶はかけがえのないものだったんだ。それにね。姉は言ってたよ」
「……なんて?」
「知ってた、って」
ぼくが姉さんのことを愛していたことを、彼女は知っていた。
師匠はそう言った。
それからふと思いついて口にする。
「失敗して、感情をなくしても。それでも生き返らせたい人だったんですね……」
感情をなくしてどんなことにも意味を見いだせなくなって。それでも師匠は姉に会いたかったのだろう。
師匠は言う。
「もしかしたら君もあの子に伝えたいことがあるのかもしれないね」
リリーはそれには答えなかった。
「でも、きっと大丈夫さ。彼もきっと知ってる。ぼくの姉みたいにね」
それから師匠はリリーの方を向いて手を差し出した。
「むやみやたらと元気になる薬、持ってるだろ?」
「はい」
「貸して。使うから」
「……はい」
リリーはそれを見ながら考えていた。
ルークが起きたら、まずなにを言おうかな。
いろいろ考えたけれど。
これというものが決まらず、いつの間にか椅子で寝込んでしまっていた。
窓からは朝日が差し込んでいる。
寝起きのリリーは、椅子にもたれたままぼんやりとそれを眺めていた。
が。はっとして立ち上がる。
隣の椅子では師匠がだらしなく崩れた姿勢で眠りこんでいた。
そして、ベッドでは。
「……ルーク?」
囁きかける。
「ん……」
かすかにうめいて、少年が目をうっすらと開く。
「ルーク……!」
少年はぼんやりとリリーの顔を見つめ、それから呟いた。
「ミルク、飲みたい……」
「それでよ」
あれから数日。怪我がだいぶ良くなって外に出られるようになったルークがリリーに問いかける。
「猫はどうなったんだ?」
二人は村外れの小高い丘にいた。
風がリリーたちの髪を優しくなびかせている。
「タビはね、どっか行っちゃった」
「どっか行った?」
「うん。あの後屋敷に戻ったらいなくなっちゃってた」
「探さなかったのか?」
「探したよ。でもいなくてさ」
リリーは腰を下ろした場所のすぐわきにあった花を指で揺らしながら続ける。
「多分、見られたくなかったんだと思うな。死んじゃうところ」
ルークは言って、空を見上げた。
まだ身体のあちこちに包帯が残っているし、本当は出歩くのは禁止されているのだけれど、無理して出てきた様子だ。
「お別れのあいさつぐらいしたかったかな」
リリーは呟く。
「いきなりいなくなっちゃうんだもん。伝えたいこともあったのに」
「なんだそれ?」
ルークの問いに、リリーは笑って答える。
「大好きだったよ、って」
でも、タビはそんなこと知ってたかな。
不意に涙がこぼれそうな気分になって、リリーは慌てて目をこすった。
ルークは気づかないふりをしてくれたようだった。
「あーあ。友だちがいなくなっちゃった」
リリーの言葉に、ルークが意味ありげにこちらを見た。
「そのことなんだけどよ。お前に見せたいものがあってさ」
「なに?」
不思議に思って訊ねる。
ルークは横にあった小さな小箱をリリーの方に押しやった。
一抱えより少し小さいくらいで、さっきからなんだろうと思ってはいたのだ。
「なにこれ?」
改めて訊ねると、ルークは手振りで開けるように示す。
蓋に手をかけると、中でかすかに何かが動く気配がした。
「にゃー」
中にいたのは。
「子猫?」
黒いふさふさの毛並みで、タビによく似ていた。
「家の裏にいてさ。お前の相手にいいかと思って」
ルークが頬を掻く。
「……ありがとう」
「あとさ、俺も、その」
友だち、だし。ごにょごにょとルークが続けた。
「えー、なになに?」
本当は聞こえていたけれど。もう一度聞きたくてリリーは意地悪した。
ルークはほんの少し顔を赤らめて、「やっぱ今のなし!」とそっぽを向いた。
晴れた太陽の光がそんな二人を優しく照らしている。
見習い魔法使いリリーの、いつもと違う一日。
お付き合いどうもでした
面白かった
良かったよ
引用元: 見習い魔法使いのいつもと違う一日